弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

中途半端~障害者以上一般人以下

2018-10-30 13:46:27 | メンタル
形式的には障害年金を貰っていて、でも、将来的には自分で食べていけることを目指していて、この年齢で大学院進学予定。
立場的にも病状的にも何とも中途半端。

(障害年金を受給できたのは、定期的に酷くなるのと精神科での治療が限界―電気痙攣療法でも寛解しなかったーで、予後が悪いと判断されたから。でも、酷くない時期も病状的に中途半端。)

重度中度の精神障碍者向けのデイケアでは不足。就労準備のためのリワークデイケアでは過剰。
何というか、どこの施設もピンと来ない。

まあ、自分で選んだ道とはいえ、文系の大学院生という時点でレアだし、教育産業以外居場所などあまりないのだ。
そこは今更ぶれてもしょうがない。

事の本質は、知的作業に特化できるかだろう。
肉体的なスタミナをつける必要も無ければ、無理に社交的になる必要もない。ましてや、自分の本業ではない軽作業や単純作業を我慢してやってもしょうがない。
自分のペースで、だが、周囲と自分を納得させられるくらいの研究や課題をこなしていくこと。
これが出来れば必要十分。
もちろん、不安障害は軽くしていく必要はあるが、他のことを持ち出す必要はない。

それを見越して、来年4月までの活動を組み立てていかなければならない。
もう今更、他のことで自分を惑わしてもしょうがない。
この道と付随的な道(教育産業)で食べていけなければ、自殺。そこまで考えて決めたのなら尚更。

とはいえ、今のうちからスタンドアローンでガンガンやれるわけでもない。
よくよく考えながら過ごそう。

煙と毒と浄化

2018-10-29 01:06:38 | 思考
自分がニコチン依存症なのは分かっているし、タバコが害になることも分かっている。
そして、喫煙スペースを探すのも骨が折れる。
更には、喫煙は不安障害とうつにも悪影響らしい。(発症しやすいのか治りにくいかはわからない

気分転換なら他のことですべきだ。
それでも、私の喫煙を敢えて擁護するならば・・・

毒であろうが、一度、取り入れたものの一部を吐き出し、それが昇っていくという風景に一種のカタルシスを覚えるのだ。

取るに足りないセンチメンタルな感情のせいで身を害しているということ。


ともあれ、紙巻きタバコは卒業したい。
取り組むなら今の余裕がある時期しかない。

少し頑張ってみるか。

beyond death-colored-season・・解けない呪い

2018-10-29 00:40:21 | メンタル
詳しい発症はいつかは分からないが、鎮静系の向精神薬を使わないと、眠る前に動悸が起こる。

mECTの後であることは間違いないが、PTSDほどでもなく、mECTの直接の副作用というよりは10回目の手術が原因だとも思う。
すなわち、手術室で点滴が漏れているのではないかという騒ぎがあり、実際、点滴は漏れていなかったらしいのだが、その騒乱のうちに心が乱れたまま全身麻酔をした。
言ってしまえば、恐怖・トラウマ体験。

以来、眠るという行為が私の中で死を連想させるものとなっている。

以前、隣に友人でも恋人でも猫でもいてくれたら和らぐのではないかという考察をしたが、それもあまり当てにはならないようだ。

点滴で落ち着いて、この週末には古くからの友人と三人で旅行に行ったが、やはり眠る時は怖い。
睡眠だけではなく、くねった山道でバスに乗っているときも、
「落ちたら一瞬で終わりだな」
と考えていた。

旧跡から市街地を見渡しているときもそう。
果ては、電車に乗っているときもそうだった。。。

どう足掻いても、日常生活から、死のトリガーを払拭できない。
タナトフォビア・・なのだろうか。いや、それにしては日常生活を営めている。
達観している訳でもなく、動悸が起こっているときは特に怖い。
「このまま死ぬんじゃないか」
と。ただ、パニックになるというよりもその場で眠りに落ちるので強制的にその体験がリセットされる。
ので、克服という概念も無く、日々、それに委ねている。

既視感や軽い離人感も起こることがある。
まあ、説明しても理解されなさそうなので、カウンセラーにも主治医にもそこまで強く訴えてはいないのだが。

このまま、心が死んだまま、いや、徐々に麻痺していくのだろうか。
私は私を取り戻せないのだろうか。

・・・

それでも、自殺念慮が頻繁に起こる疾風怒濤の時期は去って行ったようだ。
今年も何とか生きられた。
来年は・・分からないな。

ともあれ、悪夢の季節は父の命日に墓参りをすることで終わらせよう。

手術云々もだが、結局、始まりは15年前のあの日からか。

・・・

いつ、どこで、どのように死ぬか分からない。
この思考の習癖は呪いだ。
未来とやらを曇らせる。

それでも何もしないよりはマシならば、明日から一日一日を生きていくしかない。
明日があるかも分からないが。

点滴と大柴胡湯

2018-10-24 19:52:52 | メンタル
不安が渦巻き、憔悴しきっていたのでアナフラニール点滴(ハーフ)を受けた。
やはり、効く。意欲や気力が湧いてくるというか、フラットになる感じ。不安の渦も消えた。

点滴のさなか、懸念事項であったメールの返信もあり、一応当座の不安は解消。
ただ、別のことで不安は生じてきたが・・
結局、不安は尽きないのだろう。
カウンセリングでも主に不安のことについて話したが、あまり進展せず。
とりあえず、セルフでワークブックをまたやっていきたいと思う。

そして、よくお腹を壊していた補中益気湯から大柴胡湯に変更。
落ち着きのためもあるが、肥満と肝機能対策である。

さて、現実逃避してばかりいないで、11月からのリハビリの仕方をまた考えよう。

忘却とトリガー、そして物語るということ

2018-10-24 00:37:36 | 思考
私は懐疑主義者なので、根本的な善悪の存在を認めない。

というのは建前で、やはり、実際の出来事、創作物であっても、死、手術、自殺、といったものは過去の記憶のトリガーー罪の意識を呼び起こすようだ。

罪があるとするならば、それは移ろいやすさだろう。そして、それは記憶と忘却が大きく関わっている。
私は実定法の罪を犯した訳ではないが、透明な罪業ー道義的な罪を二つも犯した。
そしてそれは許されるものではない。
故人は許す主体にはなれない。自分で自分を許してもならない。
それはいかなる罰を受けても同じだ。

故人は許す主体にはなれないといっても、故人の意志が有形無形なもので明確に推定できるなら話は別だ。ところが、それすらも私にはできない。
あまりに、唐突過ぎた。

だが・・自殺した友人kとは違い、亡き父が私に罰を受けろという意志を持っていたというのはさすがに推定出来ない。
父の死に関しては色々あったが、私と父の関係性自体は悪くなかった。むしろ、父は私に期待していた、
なので、その件はもう抱え込んでも仕方ないだろう。
だが、年々、父のことを忘れていってしまうのは歯痒い。

自殺した友人kのことだが、その顛末と私の透明な罪は自分は墓場まで持っていくつもりであった。
だが、自殺、というワードを見聞きすると必ず彼のことを思い出す。
彼の死後、私はmECTを受け、眠る際の恐怖や動悸に苛まされている。
毎日、起きた時に、自分が本当に生きているのか不安になるくらい。

もはや、罪というか呪いのようなものだ。繰り返すが、彼が自殺の直前にこのような呪いで私を苦しめる意図があったかは分からない。

さて、事の顛末を他者に話すと物語となり、物語は嘘をつく。
物語ることで楽になってしまう部分もある。
そして、楽になることは許されるのだろうかという疑問がある。
だが・・最近、物語ー虚偽を含んだものとしても、誰かにそれを語りたくなる。
誰のため?自分のためでしかないだろう。

許しを乞うことでなく、教訓を伝えることでなく、自分のため以外に物語るということはあり得るのだろうか・・
もし、その可能性があるとするならば・・