自分に一番影響を与えた書物はシーシュポスの神話。これを読んでいなかったらとっくに自殺しているだろう。
自分が最も尊敬する哲学者はニーチェ。だが、それは梯子であった。
そして、自分が読んだ著作が一番多いのは永井均。
本格的に哲学の勉強を再開するにあたって、今、ヴィトゲンシュタインの論文集を読んでいる。そして、そこにたまたま永井均の論文があった。
以下、伝わらないことが伝わるといいと思いつつ、そんなことはどうでもいい。
私の世界=私(の意識)
という簡潔な独我論のテーゼは克服したように見えた。
その根拠は、
他者及び言語が発生的に意識に先立ち、意識を規定している。
というものであった。つまり、因果が逆なのだ。
意識があって、他者を認識し言語を使用するものでないと。
だが・・・
その事は他我の存在は保証しないのではないか。
たまたま、私に意識が芽生え、今から発生を振り返り、そこに他者及び言語を再発見しただけかもしれない。そして、今というものしかない以上、その客観的事実の存在の蓋然性は高くても、それはただの経験的事実であって、今の私には本来的には影響を与えない。
ごくごく、簡単に言ってしまえば、
他者がロボット(または哲学的ゾンビ)で言語を使用していて、この私の意識をたまたま生み出すことになったかもしれない。
これはどう覆せるのか。
※私にとって独我論というのは離人的な感覚を基盤に持つものから理論的に反駁出来ないものなだけであって、多分、真正の主張ではない。
自分が最も尊敬する哲学者はニーチェ。だが、それは梯子であった。
そして、自分が読んだ著作が一番多いのは永井均。
本格的に哲学の勉強を再開するにあたって、今、ヴィトゲンシュタインの論文集を読んでいる。そして、そこにたまたま永井均の論文があった。
以下、伝わらないことが伝わるといいと思いつつ、そんなことはどうでもいい。
私の世界=私(の意識)
という簡潔な独我論のテーゼは克服したように見えた。
その根拠は、
他者及び言語が発生的に意識に先立ち、意識を規定している。
というものであった。つまり、因果が逆なのだ。
意識があって、他者を認識し言語を使用するものでないと。
だが・・・
その事は他我の存在は保証しないのではないか。
たまたま、私に意識が芽生え、今から発生を振り返り、そこに他者及び言語を再発見しただけかもしれない。そして、今というものしかない以上、その客観的事実の存在の蓋然性は高くても、それはただの経験的事実であって、今の私には本来的には影響を与えない。
ごくごく、簡単に言ってしまえば、
他者がロボット(または哲学的ゾンビ)で言語を使用していて、この私の意識をたまたま生み出すことになったかもしれない。
これはどう覆せるのか。
※私にとって独我論というのは離人的な感覚を基盤に持つものから理論的に反駁出来ないものなだけであって、多分、真正の主張ではない。