弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

無神論?からの倫理規範

2017-02-08 20:08:19 | 思考
「神」という概念を含まない宗教はあるのだろうか。
いや、その場合、「それ」は宗教なのだろうか。

日本人はよく無宗教と言われるが、「千と千尋の神隠し」
で、日本にはアニミズムの精神が息づいている。
みたいな言説を目にしたことは記憶に新しい。(ちょうど、テロの後だった気がする。)

実際にそんな精神を持っている人に出くわしたことはない。
まあ、しかし、欧米の文化がキリスト教的なものに基づいていたとして、アニミズムというのは何らかの倫理規範を内包しているのだろうか。。

そうとは思えない。少なくとも教典などの形で明示されるものなどないと思う。
故に、日本文化は・・・
などと大風呂敷を広げる気は全くなくて、個人的なニヒリズムの由来が現代日本の社会・文化にある部分は否めないと思う。
それ故に、日本社会全体を分析・・
するつもりも全くない。

遵法意識がある訳でもなく、法を守るのはそれが自分の利益にかなうため。
それならば、内面に倫理規範・価値規範があるかと言えば、それもない。
基本的に人畜無害であるのはそれが自分の感性にかなうから。

だが、その感性は生き方について全く指針を与えてくれないことに気付いた。
~するなかれ。
と命じるだけで、能動的な作為を命じない。(昔は違ったが今は。)
故に、前に書いた「抵抗」という概念と「ただの意地」から実際の活動を導こうとしたのだが、上手くゆかない。

今なら怪しげな宗教の勧誘に引っかかってしまう。
・・ということもない。

冒頭で出した「神」の概念はというべきものは、自分の中では無色透明で不安定であるから、他の何物も寄せ付けない。
しかし、これまた何の作為も不作為も命じない。困ったものだが、少し考えてみよう。

宇宙の始まりを考えた時、
A(量子の揺らぎでもなんでもいい)があった。
という端的な事実があったとしかいいようがない。無から有は生まれない。生まれたとしたら、それは「無」の概念に反する。
では、
Aはどうやって存在を始めたのか。
-B
では、Bは?

といういわゆる「無限後背」に陥る。
なので、Aで止めておく。(恣意的中断)
Aとは何かをめぐる議論は、確実に「同語反復」になる。
これらはトリレンマだ。

だから、個人的に恣意的に区切った最初のものを「神」とするが、それは何かというと端的な「存在」(という概念)に過ぎない。
人格も持たなければ、全知全能など有り得ず、何も保証しなければ、何も命じてこない。(非人称的存在)
仮に言語で表すとこうなるだけで、言語化にはなじまない。
それを「神」としただけ。

或いは、認識しなければ何物も存在しないのと「同じ」だから、あらゆる意識を持つ生命体が神、いや意識というものが神なのかもしれない。(汎神論に近づく)
だが、独我論的に考えると対象が意識を持っているかを確認する術がない。
故に、「世界の開け」が確実にある私の意識にのみ神に宿っているのかもしれない。(※「私」=「神」ではない。)
だが、それを確認することはできないし、何かを命じることもない。基準を持たない。


もはや、有神論なのかも無神論なのかも分からない。
また、始まりがそうであるなら、終焉も神であるかもしれない。
始まりと終焉が物理的に或いは概念的に同じな場合、それらは同一の神だ。
異なる場合、神は二種類存在するのかもしれない。

いずれにしても、
何も命じない。
のが肝で、こんなことを考えていてもせいぜい、
自分の命や他人の命を絶つことなかれ。
という市民社会では当たり前の規範にしか辿り着かない。

・・・生きる指針が欲しい今、こんなことを考えても意味が無かった。
少なくとも俗的な宗教を私は嫌悪するだろうということくらいか。

哲学的には、「神の存在論的証明」(※)に少し考えさせられたが、それを考える必然性を感じない。


神は完全である。
完全という概念には存在するというのも含む。
故に、神は存在する。

最初の定義が違うんだよなあ・・キリスト教神学を学ぶつもりもないけれど。


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