弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

何が分からないのか分からない

2017-02-15 19:44:41 | 思考
生きてく上での倫理・価値規範の再構築が必要だ。
とはいっても、手術によって良心「的」な何かが消え失せたわけではなく、それは今でもある。
例えば、
自分がして欲しくないことを他人にするな
だとか、
身近な他者のためになる行動に淡い喜びに感じる
だとかだ。

加えて、他者に敵意や害意を持続的に持つことができない存在なので、そもそも社会悪をなすことはないだろう。(自殺は別として)

ただ、これは感情的側面(だが無視できない!)かつ常識的側面なので、独我論的・宇宙論的ニヒリズムを取った時に価値のある行為にはならない。
となると、価値規範は理性で定立しなければいけないものなのかもしれない。

しかし、何が問題の核心で何が分かれば、世界の中に価値を見出せるかが少しも分からない。

学部の法哲学とかでかじった、「正しさ」なのか。
伝統的な哲学には興味を持っていないし、それでも、やはり基本となるカントは押さえておくべきか。
遡ってデカルトやヘーゲルとかも押さえたうえで、現象学の本も読むべきなのか・・・

・・・そういう哲学的名著を読んでも何の意味もない気がしている。

「死」(認識の終焉)と(パラレルな)世界の終焉。
確認すると、二段構造だ。
認識の終焉で世界の終焉を擬制する。
そこで世界が終焉しなくても、宇宙論的にこの地球の人類は絶滅する。


ならば、死が自己の終焉でないことに納得を持てれば、価値を見出せるのだろうか。しかし、これは不可知であり、宗教の範疇に入ってくるので拒絶する。
自己の終焉が世界の終焉を意味せず、世界-人類が絶滅-終焉を迎えない。だが、それが科学技術的になされても、自分の人生の範囲では実現できないだろう。
それに、そういう人類の営為に対して自分が影響を及ぼすことなどできない。

そうなると、何らに価値を見出さないまま、
ただ自分の生の範囲内で、人類の営為を見届ける。
ということ、観察者の視点だけが重要であり、それは消極的な生を送ることになる。

思索は職業を選ばない。
なら、ただ生きるために職業を勘案すべきだ。
善がベールに包まれていても、少なくとも、悪をなすこともないので、その時に考慮すべきは「(生活苦)を含めた苦痛を最小限にする」ということしかない。