自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

キューバ危機/世界核戦争瀬戸際の恐怖

2016-09-17 | 体験>知識

1962年10月は世界核戦争の瀬戸際まで行ったキューバ危機で世界史に記録されることになる。私がまだ水俣に居た23日にケネディ大統領がTVで海上封鎖声明を出した。
ソ連がキューバの基地に米本土を攻撃できるミサイルを搬入したことからキューバ行きのソ連貨物船団を海上で臨検するというものだった。潜水艦に護衛されたソ連の船隊が阻止線に刻々近づく。アメリカの軍艦、空軍機が待機している。
アメリカがキューバの基地を空爆すれば反撃は必至でただちに米ソ核戦争となりかねない。
アメリカ国民は核シェルターに避難を考えただろうが、わたしはいつどこでケネディの声明を知ったか、どう感じたか、まったく憶えていない。ピケ小屋にTVがなかったせいかもしれない。「平和ボケ」もあった。目前に迫った大管法闘争のヤマ場を前にした活動に熱中していて、せいぜいニュースで緊迫した状況を追う程度だった。今にして思えば「米ソはキューバから手をひけ」のデモ一つ考え付かなかった発想力の乏しさを嘆くばかりだ。
ずっと後の情報公開により危機の重大さ、深刻さがさらに認識されるようになった。アメリカは準戦時態勢に入った。イギリス、トルコ、日本の基地でも核ミサイルが発射指令を待っていた。ソ連はすでにキューバに42基の核ミサイルと150発の核弾頭を配備済みで兵員4万人を送り込んでいた。
10月27日は後に「暗黒の土曜日」と呼ばれる。キューバ上空でアメリカのスパイ機U-2 が撃墜され、米統合参謀本部は即時空爆を主張した。核魚雷搭載のソ連潜水艦が封鎖海域で米軍機から警告の爆雷を投下された。反撃権限を与えられていた潜水艦政治将校が首をタテに振らず事なきを得た。
ケネディとフルシチョフが辛抱強い腹の探り合いの末に危機を回避した。米ソ共存、東西共存という将来の副産物を伴って。
ソ連艦船はUターンしソ連は核ミサイルを基地から撤去した。アメリカは以後キューバに侵攻をしないと約束した。この二つの事実はただちに全世界が知ることとなった。
同時に、密約が首脳間で結ばれた。口約束である。
国の存亡にかかわる記録されない口約束が署名された紙切れよりもモノをいう。
密約は、アメリカはソ連が求めているトルコからの核兵器撤去を、キューバからミサイルが撤去された後に、行う、という内容である。

アメリカもソ連もその約束をまもり大きな曲折はあったが平和共存を遂げた。私が心配するのは、ソ連崩壊後、西側が遠望深慮を欠いて戦争の種をまいたことである。
ソ連はロシアになりワルシャワ条約機構内の周辺属国の独立を承認した。流れが激しく物理的に止めようがなかった云々は脇に置いておこう。政治的にはそれらの国がNATOとEUに入らない、ロシアとNATOの緩衝国になる、という暗黙の了解あるいは希望的観測があったから平和的に離脱を了解した、とわたしは理解している。
その後、東欧諸国がEUに加盟していく傾向が続いた。そして隣国ウクライナのEU接近。ウクライナは元々ロシア発祥の地、民族・言語・文字・宗教の分類でロシアに類似、近似する。東部にはロシア人住民も多い。キューバがアメリカの内庭ならばウクライナはロシアの横っ腹であろう。それが米ロ対立の大きな火種と火薬庫となった。
アジアにも火種が目立ってきた。朝鮮国の核脅威、中国の海洋膨張、沖縄基地vs北方4島。

キューバ危機は第2次世界大戦に従軍経験のある二人の賢明な指導者の理性ある決断によって回避された。二人には相手の立場を思いやる哲学があった。
今日、世界に、日本に、両首脳レベルの「政治家としてふさわしい英知」(ロバート・ケネディ)をもった政治家がいるだろうか?
いないとすれば、核戦争の危機は去らない。わたしはいないと思うがゆえに世界が戦争に至る過程にこだわってブログを綴る。
その危機が第2次世界大戦の戦後処理における未処理・未解決問題に遠因があることを念頭に置いておきたい。