モノと心の独り言

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電子書籍端末は、モノ経済からコト経済への兆し?

2009-12-16 04:49:35 | 暮らし・街・環境
電子書籍端末やWeb上のビューワーが次々にでてくるのは、
書籍の電子化というよりはコンテンツの有料流通化が、
ネット上で進んでいるということか?
課金に関して、iモード以来、ケータイでのコンテンツ課金が進んで、いよいよネット上で現実化してきた。

インターネット上のコンテンツは’無料’というのは、’地球村’という概念と、私有という経済制度を混同している。
知的活動は、空気のように相対的に大量にあり、希少価値が問われないので’無料’と考えられるのだろうか?
モノは有料、情報やコトは無料という考え方こそ、モノ経済。
知的活動こそ、その希少性によっては、市場経済社会では有料であるべきで、無料にするから敢えて発信する手間をかけようとする人が増えない。それは、サービス活動のように、人-モノ・人-人同士の対応が起きるコトでも同じ。明示されにくい多様なスキルと経験が提供されている人と人の関わりも、同じ経済共同体であった’むら’を離れれば、無料では減少するばかり。せめてお礼の気持ちを表現したくても、どんな人がいるか分らない都会では、心情を開いた隙をついてくる詐欺師(人を利用するだけの人)が多くて危険すぎる。
そもそも、’労働価値’概念からは、買った労働価値と売った製品・サービス価値の差額が、利益として次の経済活動の資本につぎ込んでゆく仕組みなのだから、感謝されるだけの無料の行為は、ただ働きをしているということになる。この人と人との行為も、モノ時代のなごりで’サービス’産業とか名付けられ、サービス行為は、神への奉仕する語彙と重なってしまう。希少性の証明として、’資格制度’が盛んになるのだが、審査されるほどに明示された行為は、すでに稀少ではなく標準、レアではなくコモンになるのが市場社会。モノの所有権の転移、つまりモノの売買が伴わない一過性のコトは、大きな差異が明示できないと、価格がつかない。

身体のスキルまで明示できる知が記録・比較できれば、モノの希少価値による市場経済から、その希少価値による市場経済化が進む。多くのインターネット上の発信が、広告モデルや顧客コミュニティモデルへと吸収されるだけでは、無料で努力し差異を高めて発信しつづける人が減少し、ノイズが増えて識別がつかなくなる。
掲示板やSNS・ブログ・ツイッターなどでのつぶやきは、不可知な相手との都市社会的な擬似対話としてある。しかし、差異を高める努力をすれば市場価値が生まれ、他者の有料商品に組み込まれる。
だから、自らの電子的な発信の権利保証し、発信・流通・受信・応答が可能になる、電子書籍端末や閲覧ソフトの普及は、適切な発信・流通コストがあがなわれる可能性を広げることで、モノ経済に加え広い意味の知の経済が増えると考えられる。それは、所有経済から関係経済への展開であり、結果的にグリーン経済の拡大でもある。

この知の経済活動は、コンテンツという知識や娯楽のパッケージに止まらず、コンサルティングから、ケア、コミュニケーション行為にも及ぶ。
具体的に言えば、法律問題の弁護士から、養育・介護ケア、ショップのマネキンまで、知識・関係・身体まで生かしたコトが成り立つ行為まで及ぶ。

この’コト’が社会的な価値として認められる社会とは、
村や家族、地縁・血縁関係などの帰属関係が希薄になった社会であり、孤立しても生存できる社会でもある、市場経済下の都市型社会である。
’コンテンツ’を孤立消費する'文化経済’も、ケアとかコミュニケーションを消費する’サービス経済’も、この関係希薄社会だからこそ発展する。
デジタル化、ネットワーク化は、この関係希薄社会を支えている。
そして、衣食住のモノ充足が一段落すれば、
この希薄な関係を再編しつづけようとするコト経済が増える。

差異を求め続けるのが人の性だとすれば、
世界の工業化に片足を載せ、モノの差異を増やしながらも、
人と人が場を共有して消費し続けるコト産業には、未来がある。
しかし、これを有料化・高額化しないと、人の仕事は増えないし、収入も上がらない。道徳・倫理を強調するほどに、’むら’社会を懐かしみ、神とその子、階級と奉仕、隷属のなごりを引きずってしまう。

日本は、「文化」産業・環境産業が盛んになるだけでは、
デフレ脱却、国内経済活性化は、出来ないのではないか?
’知’の有料化は、高齢社会の経済発展の梃子ではないか?
なぜ、発展しなければならないのか?
それは、人は変化がないと生きられないからかもしれない。



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