狩江のお祭りと文化論

~愛媛県西予市明浜町狩江地区のお祭りや、四季折々の風景、暮らしを独自の観点からお伝えいたします~

たこ伝説

2010-02-06 19:54:15 | 狩江の歴史をたずねて
先日の地区教育研究会にて、地元の歴史に詳しいK先生よりひとつの資料を
いただきました。それは、狩江の春日神社に伝わるたこの伝説に関するものです。

春日神社には昔からたこの話しが伝わっていて、狩江の人ならほぼ知っているはずです。
そうです、蛸の絵を描いて神社に貼るとイボが取れる、等などです。
それはたこのある伝説からきたもので、これになると、みなさんちょっと知らない
方もおられるかもしれません。諸説いろいろあって、これだ!という言い伝えは
案外、人それぞれかもしれません。
今回いただいた資料は、明浜町の歴史文化を研究してこられた郷土歴史家でもあった
故久保高一先生による興味深い民話です。以下、原文をそのまま引用させていただきます。

  *  *  *  *  *  *

  『蛸のお手柄』

 そうよ、さきに春日神社の場所からのう・・・
明浜町狩浜の真ん中、海寄りの丘を宮崎というて、がいな木がならんじょる奥に
御殿があるんよ・・・。
 そうそう、三百年よりまだ前の話じゃけん古いことよ、なんでも今から十六代前の
権太夫さんが狩浜に落ち着く前のことじゃそうな。ついでに権太夫さんの事もか・・・
もとはな家岡九郎兵衛と言うた、彦兵衛庄屋に一廉を貰い西園寺公広から何代目かの
「時姫」をめとって、春日様の神主となったのじゃ、あとの日向太夫時定や
山城太夫時只などみな時姫の一字を取ったもんじゃそうな・・・・

さてさて春日大明神はな、霊験あらたかで近郷近在から崇拝されちょった、
また御神体が値打ちもんなんぞ。
それはな、お寺を550年前に建てた原田弥七郎の先祖が大物でな、銭銀言わずに
奈良から勧請しただけに、りっぱなものじゃ、あんまり評判がたけえから困ったことが
起きたんじゃろうのう・・・ほんとにいけんのがおってのう、
御神体を上方に売ろうでて、夜おそうに御殿から盗んでしもうたがよ、
そやけんちょっとでもはよう逃げよでて、無茶苦茶に帆を張ったんじゃ。
ところが悪いことはできんもんぜ、
はじめは帆も役にたたんほどの海が、ぼつぼつ時化だして日振りの沖からは大時化じゃ、
そげな時は帆をおろすもんじゃが、それさえできん大時化じゃけん、傾いたまんま
飛ぶように走るがよ。
こりゃ神罰に違いねえ!「もとの御殿におかえしします・・・」
一心になってお祈りしたようじゃが、もうこうなったら遅いわい。

その翌朝のことじゃ・・・
三崎の名取の人が浜に出て、「ゆんべの風はがいなかったのう・・・」と
話しおうちょる目の前で、がいな蛸がなにやら頭の上に捧げるように泳いで
汐べりに置いたと思うたら、もう海の中じゃった。
ほんのわずかのことよ、みんなあっと思うち近寄ると今度はたまげた!
「こらあ、どこぞのご神体にちげえねえぞ!わしらに祀れということかもしれん・・」
と、岩の上に置いて、みんなで石を集めだした。
平べったな大きな石を屋根にして、その奥におさめたんじゃ、ありがてえことよのう・・

話し変わるがな、御殿が荒らされちょるんで大騒ぎじゃ!
八方へ手配りしてさがしたさがした、ところが向灘の人から
「名取の浜に、どこかの御神体が祀ってある」と聞いて、船をしたててとんでいったら
まことそうじゃった。

名取のひとはゆうにしちくれちのう、細こうに教えてくれたんじゃ、
行った連中は喜んでのう、白木綿にくるんで大事にして、南組の浜へ舟を着けたがよ
と、長老が海にはいって赤ん坊を負うかっこうで背をむけたら、
舟の中から無言で背中へ載せた、と。
あとも見ずに端呂利(ハシロリ、地名)の坂・石段をとぶようにして御殿に
おさめたそうな・・・。

その年のお祭りのおかえりから、石段を走り上がる様になったがよ。
そやけん、だれ言うとなく蛸を食う人がいない、近所の村へなにかごとに
よばれていっても、むこうも知っちょるけん蛸は出さなや。
もうひとつあらい、心願が叶うたり、イボがきれいに落ちると
お礼詣りにゃ蛸の絵を持ってお宮の扉に貼るのぜぇ、信仰なもんよのう・・・。

    以上「ふるさとの民話」より


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