狩江のお祭りと文化論

~愛媛県西予市明浜町狩江地区のお祭りや、四季折々の風景、暮らしを独自の観点からお伝えいたします~

連休中の狩江風景

2020-04-29 16:53:04 | 四季の風景

みなさん、GWに入ったそうですがお変わりないでしょうか?

わたしはGWはほとんど関係ありません(仕事です😢)。

コロナ感染防止で外出も自粛されており、いつもならR378をバイクがバタバタタと列をなして通ったり、県外ナンバーの車がひっきりなしに通るといったような光景が、・・・・見られません!静か!です。

なのでのんびり宇和海のチリメン漁の船をカメラで追っかけてみました。

ふと海岸線を覗くと、きれいな海藻類が目に入ったので

さらにズームして

海底の森がわかりますか?きれいです。

明日も天気が良さそうなので、カメラ持って営業します。

 


「広報せいよ」 コンクールで全国2位!

2020-04-24 17:45:57 | 狩江の暮らし

我が西予市では毎月1回、市から広報誌がまいります。

その「広報せいよ」が全国の広報誌のコンクールの市部において、みごと2位を獲得いたしました!すごーい!

その対象となった号ですが、2019年10月号の狩江特集を掲載されたものが出されていたんです。わーい!

狩江の記事について多くのページを担当者の方が割いていただき、心のこもった

記事であります。これは以下のサイトで内容も閲覧できますのでぜひ見てください。

https://www.koho.or.jp/contest/zenkoku/2020_result.html

狩江で今がんばっている多くの皆さんが出ていますから、よ~く見てくださいね!


連載「狩江物語」いよいよ完結編

2020-04-20 17:56:35 | 狩江物語

     * * * * * *

5時半になった。私は春日神社へと上がって行った。
 境内では、鹿踊りをやっていたので、私はそれを見た。じっくり見ると、鹿踊りはとても面白い。動き方が独特なのだ。くるくると回転しながら踊る。そして二人が円をえがきながら踊るのが、とても興味深い。
 誰がこんな踊り方を考えたのだろうと思ってしまう。独特なのだ。きっと誰かが考えたのを、直伝で引き継いでいるのだろう。覚えるの、大変だなと思ってしまった。鹿踊りの歌の歌詞をB君のブログで知ったのだが、歌詞も独特でユニークだ。
 鹿踊りが終わったあと、私は石段を登って、神社の本殿の前に行った。そこには、みこしを担ぐ人達がいた。6時から、「御霊移し」の儀式があるようだ。私はどんな儀式なんだろうと思ってしまった。
 神社の本殿の中に、みこし三体を置くと、扉がしめられ、電気が消されて、中は真っ暗になった。時々、「うぉー」という声がするのだが、一体何をやっているのだろうと、私は色々と想像してしまった。太鼓がドンドン鳴っている。おごそかな感じだ。
 みこしを担ぐ人達は、神社の前で皆座って、頭をたれて待っている。私はその様子をパチリと写真に取って、真っ暗な神社のほうを見つめていた。
 やがて、「御霊移し」の儀式が終わって、電気がつき、扉が開けられた。しばらくすると、牛鬼を担ぐ人達が、黄色いハッピを着て、黄色いタオルで顔を隠し、参拝するために、石段を登ってきた。
 今日の無事を、祈願したあと、また牛鬼を担ぐ人達は、石段を下りていった。私は、ここでも写真をパチリ。祭りの朝の、とてもいい風景だからだ。
 
 しばらくしてから、私は7時に間に合うように、神社から歩いて、公民館に向かった。7時から、相撲練りや鹿踊りやお舟踊りが公民館であるためだ。
 私はやはり雨が降った去年のお祭りのことを思い出していた。去年は、鹿踊りは、公民館の外でやったのだが、今年は公民館の中で踊った。相撲練り、鹿踊り、お舟、の順番で、7時から8時まで踊りが続いた。
 去年は、相撲練りの踊り手がいたようなのだが、今年は行司を除いて、5人で踊りを踊っていたので、ずいぶん寂しくなったなあと思ってしまう。少子化の波は、ここまで打ち寄せているのだ。
 鹿踊りは、朝の5時半から、神社の境内で見たのだが、また公民館の中で見ることになった。やっぱり、外で踊らないと、風情が出ない。あはは。
 お舟の踊りも、かわいらしかった。衣装付けの夜、お舟の踊りは見ており、それと同じなので、少し余裕を持ってみることができた。
 8時になった。牛鬼とみこしが登場する時間である。「おはまいで」が始まるのだ。私は、御仮屋の近くに移動した。雨は、この時あまり降っていなかったのだが、その後、ざーざー降るようになってしまうのだ。
 去年は、未明から降り続いた雨のせいで、早くもおはまいでのときには、足元がぬかるんでいたが、今年は、まだそうでもないようだ。
 牛鬼が御仮屋の周囲を3周するのを、遠巻きからながめる。黒足袋にふんどし。牛鬼が牛鬼である証明のようなもの。なぜかこのふんどし姿が、とても良いように感じられる祭りの日。ふんどしが、こんなに恰好いいものだなんて、お祭りの日以外には、思わない。
 神輿が待機している。牛鬼が3周したあと、御仮屋の周囲を走って3周するのだ。私は、少し離れたところから、神輿が3周するのを見守った。神輿が、一気呵成に走るのが良い。

私の中で、神輿は走るのがいい、という思いがあるのは、ひとえに、この狩浜の神輿が走るところにある。
 三社祭りや水かけ祭りを見たけれど、皆、「わっしょい」といって、練り歩くだけで、神輿は走らない。だから、つまらなく思えてしまうのだ。狩浜で育った私には、走る神輿に慣れていて、とても興奮する。
 神輿が3周しないうちに、牛鬼が立ち上がった。どこに向けていくんだろうと、私は牛鬼の姿を目で追いかける。あ、こっちに向かってやってきた。私は、そばの木の陰に隠れた。
 本当は、牛鬼がやってきても、逃げずにからかうと面白いのだろうが、やはり、近づいてくると、怖くて、逃げてしまう。あはは。
 本当は、御仮屋のところに置いてある、太鼓のあるところで見物するのが、一番いいのだけれど、足元が雨でぬかるんでいるため、そこにいると、足が汚れてしまうので、舗装された空き地のところで牛鬼見物をしているのだ。
 朝一番のひとあばれ、は、とても威勢が良い。牛鬼をかつぐ人達も、疲れていないからである。切り回しをし始める。この切り回しの迫力は、午前の舞台の本浦地区より、午後の舞台の、枝浦地区のほうが、迫力があるのだ。本浦地区の広々とした空き地では、なんか、迫力がないように見えてしまう。
 でも、私は切り回しが大好きだ。雨がざーざー降ってきたので、傘をさして見守る。
久美子おばちゃんと、東京のおばさんが、傘をさしながら見ているのを発見した。二人とも遠巻きに牛鬼を見ている。牛鬼の近くには、近寄らないようだ。
 私は晴れていればなあと思ってしまった。雨降っていると、傘をさして見るので、人の傘とぶつかるため、さささーっと逃げられないからだ。晴れていれば、もっと牛鬼に近寄り、それからさささーっと逃げることができる。雨降って、傘さしていると、不便なのだ。
 何より、カメラで写すのが面倒だ。傘さしながら、良い写真は、なかなか取れない。牛鬼をよく撮ろうと思うと、やはり、前に出て、牛鬼の近くから取らないと、迫力ある写真が取れないのである。
 それでも私は遠巻きから、朝一番のあばれの牛鬼の姿を、何枚かカメラで撮った。あとで見てみたら、遠すぎて、牛鬼が小さくしか写っていなかったが、カメラで写真を撮っている時は、ちゃんと取っている気分になっていた。あはは。
 やっぱり、朝一番の牛鬼はいいなあと思ってしまう。元気良さが違う。もっと、空き地が狭かったらなあと思うのは、昔の公民館が建っていた時代の、狭い空き地に、私が慣れているからだった。狭い空き地でやるので、昔は牛鬼が本当に怖かったのだ。
 今や、広々とした空き地になり、おまけに木もあるから、牛鬼が来たら、木の陰に隠れればいいのだ。あわてて逃げなくてもいい。あはは。
 でも、牛鬼を担ぐ人達からすると大変だ。人をおいつめるには、空き地が広すぎる。やっぱり、昔の空き地が牛鬼が人をおいつめるには、ちょうどいいのだ。
 牛鬼から、「逃げる楽しみ」というのがある。「来たよ、来た、来た」といって、きゃーきゃー言いながら、牛鬼から逃げるのが、本当に楽しいのだ。これは、小さい頃もそうだったし、大人になって、初めて2010年に帰ってからもそうだった。大人になってから、祭りを初めて見たのは、2010年なのだ。
 以来、2015年、2016年、そして2017年の今年も、祭りを見に帰っている。
なぜ逃げるのが楽しいのか、さっぱり分からない。きっと「お祭りバカ」なんだろうと思う。
冷ややかに斜に構えてみていたら、楽しくないのだ。やはり、牛鬼をからかって、逃げないと。
 あの、「ばー」と舌を出している牛鬼の顔が、とてもいいのだ。宇和島の牛鬼の顔と比較してみたけれど、やはり狩浜の牛鬼の、ちょっと人をおちょくったような、怖いようなかわいいような顔が、逃げる楽しみにはあっている。宇和島の牛鬼を見ても、ちっとも怖いという感情は出てこない。
 宇和島の牛鬼は、全国的に有名だけれど、狩浜の牛鬼も、もっと全国的になっていいもののように思っている。だから、私はブログでせっせと写した写真を出して、友達に見てもらっているのだった。
 牛鬼がひと暴れしたあと、宇都宮の家に首を突っ込みに行ってしまった。去年は、追いかけて、かごの中をのぞきに行ったけれど、今年は行かなかった。去年は、皆「オロナミンシー」を飲んでおり、写真に写した記憶があるが、今年は「きっとオロナミンシー飲んでいるんだろうなあ」と思って、空き地で待っていた。
 太鼓の音がやんだ.この太鼓の音は、牛鬼が動いている間は、鳴っている。子供の頃は、牛鬼が首を突っ込みに行って、しばらくすると、再び太鼓の音が鳴った。それに答えるように、牛鬼が再びやってきたのを思い出す。
 私はそれを、「牛鬼呼び太鼓」と心の中で思っていた。太鼓の音が、牛鬼を誘い出す呼び水のように思えたからである。実際、太鼓が鳴っていないと、つまらない。威勢のいい太鼓が鳴り、牛鬼が暴れると、臨場感たっぷりだ。
 牛鬼がまた戻ってきた。傘をさしながら、牛鬼の動きをじっと見つめる。雨は無常にもざーざー降っている。雨が降ると、シュロの毛が水を吸って、牛鬼が重たくなると、去年聞いた。今年もまた、重たい牛鬼だ。
 晴れだと、カメラを持って牛鬼に近いところで見ているのだが、雨が降って傘をさしているので、遠巻きで見つめる。東京からきたいとこが、ビデオで写している。私は傘をさしかけた。
 昔、子供の時代には、子供たちが、「ぼろぼろうしょにん、ぼろうしょにん」と言って、牛鬼をからかっては逃げていたのを思い出す。最近そんなことを言う子供は、誰一人としていない。昔は、子供たちがぞろぞろと牛鬼のあとを、ついて回っていたのだ。時代は変わったなあと思う。
 お天気だったら、傘をささないでいいので、牛鬼に接近できるのになあと思ってしまう。
人が多くいるところは、傘がぶつかるので、そうじゃないところから、牛鬼を見つめる。朝なので、元気がいい牛鬼だ。
 そうこうしているうちに、9時が過ぎた。祭典の準備に取り掛かる。私はまたしても、去年のことを思い出した。去年は、青いビニールシートを屋根がわりにして、その下で、雨にぬれずに、祭典が行われたのだ。
 今年も、ブルーのビニールシートが目についた。今年は、竹竿を用意していて、ビニールシートを支えていた。私はビニールシートの中に入って祭典を見た。
去年と同じ神主さんがいたので、私は思わず懐かしくなってしまった。1年ぶりである。
神主さんの祝詞を聞き、次に巫女の舞いを見る。巫女の舞いの踊りは長い。似たような動きを何度もするのだが、結構難しい踊りだなあと思っている。太鼓の「トコトントン」という音が響く。
雨は降っていたが、ビニールシートのおかげで、傘をささずに済んだ。東京から来たいとこも、私の隣で、巫女の舞いを見ていた。
昔は、もっと巫女の舞いは、りんとしていたなあと、ついつい昔と比較してしまう。あはは。去年も昔と比較してしまったが、やはり今年も昔と比較してしまった。昔、私は巫女の舞いが大好きだったのだ。記憶では、座ってみたように思う。白足袋が、そろそろと、ござの上を歩くのを、じっと私は見ていたように思う。
 不思議な踊りなのだった。鹿踊りも不思議な踊りだが、巫女の舞いも、不思議な踊りだ。同じような動作を何度も繰り返すのだが、はっきりと区別がつくように踊らないので、一体いつ、終わりになるかの目印がないのだ。だが、ちゃんと太鼓の音にあわせて、終わりになる。きっと沢山練習したんだろうなあと思ってしまう。東京のいとこも同じようなことを言った。
 巫女の舞いが終わった。次は、もちまきだ。私は何個か拾った。埼玉に帰ったら、お雑煮にしようと思って。私の小さい頃見たお祭りでは、もちまきなんてやらなかったような記憶なのだ。巫女の舞いが終わるやいなや、待ち構えていた牛鬼が暴れたように思っている。
祭典直後の牛鬼のひと暴れも、見どころだ、もう少ししたら、お昼で、休憩になってしまうのだが、その前に、牛鬼がひと暴れするのだ。去年は、牛鬼のお尻の部分に、樽しかぶら下げていなかったが、今年は、ちゃんと「お花」と書いた紙を、何枚もぶらさげていた。私は、この動くたびに、ひらひらと揺れる、「お花」と書いた紙をぶらさげている光景が、とても好きなのである。
いつもだったら、御仮屋の太鼓のところで、牛鬼のひと暴れを見るのだが、去年も今年も、雨で地面がぬかるんでいるため、舗装されているところで、牛鬼を見た。もうすぐ、お昼休みだなあと思いながら。2010年と2015年は、太鼓のところで牛鬼を見たのだが、とても迫力があったのだ。

 10時になった。牛鬼は公民館前に、牛鬼のかごを置いて、休憩に入った。私は、まっすぐ、O家に向かった。O家では、豪華なお昼が用意されていた。私は、貝が盛ってある鉢の前に座って、貝ばかり食べた。あはは。去年も同じように貝があるお皿の前で貝ばかり食べたのであるが、今年も同じようにした。少し離れた席を見ると、フルーツポンチがあった。おいしそうだなあと羨ましかったが、私は食べなかった。あはは。
 去年は、隣に愛大から来た男性が座っていたが、今年はO家のI君が隣に座って、愛大に行っています、と教えてもらった。斜め向かいには、Hさんが座っており、
短歌のことで声をかけてもらい、とても嬉しい気持ちがした。声をかけてもらうのは、とても嬉しいものである。
 去年は、その後H家に行ったのだが、今年は行かず、ずっとO家で過ごし、ブラック嶋田のマジックショーの嶋田さんのマジックを見た。何度考えても種が分からない。分からなくても、いいことにした。
 11時45分になって、O家を離れ、私は門脇へと向かった。1時間、阿波踊り連が、門脇から本浦に練り歩くからである。去年は雨が降って、皆ビショビショになりながら踊ったのだが、今年は、少しだけ雨がやんでいた。
 「やっとせーやっとせー」「やっとやっと」という声がこだました。私は写真を撮らなかった。去年取ったからいいやーと思い、手抜きをしてしまったのだ。あはは。
 でも、門脇からずっと本浦まで、あとを金魚のフンのように、ついて歩いた。それから、1時になった頃、川の橋のところで、牛鬼を待った。牛鬼が、名残(なごり)をやるためである。この名残は、朝春日神社の鳥居のところと、本浦の川の橋のところと、夕方の大狩浜の川の橋のところで、行われる。
 首を出しながら前進し、くるりと後ろ向きになり、バックし、またくるりと前向きになり、首を出しながら、何歩か歩く、それを何回かやる「儀式」みたいなものなのである。一体誰がこんなことを考えたのだろうと、私は去年も不思議に思ったが、今年も不思議に思った。
ずっと走り抜けると、あとは、船に乗って、本浦地区を離れ、枝浦地区に向かうのである。
 私は、結構この儀式みたいな名残が好きだったので、写真を一枚写した。去年もやっぱり、同じシーンを写したように思う。
 しばらくして、牛鬼は、「切り回し」を一度したあと、船に乗り込んだ。そして、船の上から、「やーえいとこー」を叫んだ。私は、神輿が船に乗るのを見守ったあと、堤防沿いを歩いて枝浦に向かった。
 海の上で、神輿がしきりに、「わっしょい」と言って、鈴を鳴らしている音が聞こえてきた。実にのどかな光景だった。その昔、私がたる神輿を担いだ時を思い出した。海上で、三周するのだった。牛鬼と神輿が枝浦地区に到着するのは、2時半。それまで、相撲練りと、鹿踊りと、お舟の踊りがある。
 私は踊りを踊っている枝浦地区の空き地に行ってみた。もう、すでに踊りは始まっていて、相撲練りはすぐに終わった。私は石の段差のところに腰かけて、鹿踊りをじっくりと見た。遠くで、いとこがビデオをとっているのが、目に入った。
 鹿踊りは、去年はちっとも見れなかったのだったが、今年は、早朝、公民館の中、午後の枝浦地区での空き地と、合計3回も見てしまった。何を歌っているかは分からなかったが、くるーり、くるーりと回転しながら踊る踊りは、風流だなと思ってしまった。
 うちの鹿の面は、とても良い表情をしているなと思ってしまった。高山だったか、俵津だったか、忘れたが、鹿の顔を見たけれど、うちの鹿の面のほうがいいなと思ってしまった記憶がある。
 そうだ、私は高山の牛鬼、俵津の牛鬼と、インターネットで見て、狩浜とどっちがいいか、比べた過去を持っているのだった。あはは。牛鬼も、鹿も、俵津や高山よりは、ずっといい。私は誇りに思っている。
 鹿踊りは、水たまりを踏みながら踊って終わった。次はお舟である。これまた「衣装付け」の晩と同じように、じっくりと見つめた。相撲練りも、鹿踊りも、写真は一枚も取らず、お舟だけ、写真を一枚撮った。見るのに忙しく、写真は撮らなかったのだった。

 2時半になった。御仮屋の近くに、牛鬼と神輿がやってきた。いよいよ、枝浦のお浜いでがあるのだ、私は、昔いりこを作っていて、今は建物を取り壊して、さら地になっているところで、お浜いでを見ることにした。道路にいると、牛鬼が道路にやってくることが分かっているので、遠いところから見ることにしたのだ。
 牛鬼が3周して、お祓いをしたあと、座り込んだ。ので、私は写真を一枚パチリ。そのあと、神輿がすごい勢いで、3周した。なかなかいい写真は取れなかった。先導は、M君である。お父さんのたつみさんがやっていた時代が懐かしい。
 神輿が3周目になったとき、牛鬼が立ち上がった。私が見ているところへは、来なかったので、遠巻きに牛鬼を見つめる。枝浦は、本浦と違って、空き地が狭いため、牛鬼が怖く感じられる。昔は、本浦のほうが怖かったのだ。
 本当は、御仮屋のところにある、太鼓のところで見ると、臨場感が増していいのだけれど、なかなか御仮屋には近寄れなかった。牛鬼がいたからだ。牛鬼の近くに行くには、勇気がいった。晴れていたら、近寄ってみるのだが、雨が降って傘をさしているので、機敏に動けないのだ。


 近くで久美子おばちゃんと東京の叔母が傘をさして見ていた。遠巻きで見ているので、牛鬼はちっとも怖くなかった。もっと怖い思いがしたいと思ってしまった。あはは。
 やはり、御仮屋の近くで見ているのが一番だ。そこだと、牛鬼の迫力が伝わってくるし、打ち鳴らす太鼓に近いので、わくわくするのだ。2010年と2015年に祭りを見たときは、御仮屋周辺で見ていたので、とてもわくわくした。去年は、御仮屋の中で、見つめたのだ。
 牛鬼が怖ければ怖いほど、わくわくするのは、私一人だけだろうか?牛鬼が怖くないと、つまらない。雨は無常に降っていた。時々小降りになったり、また降ったりを繰り返している。
 私は、いりこを作る建物をこわして、さら地になっているところにいたが、さらに、その横まで移動した。どうやら、牛鬼がこちらにやってくる気配だ。私は逃げずにその場にいた。家の門のところが、くぼんでいる家があったが、その家の前で、私は牛鬼を見つめていた。
 どうやらこちらにやってくるらしい。どうなるのかな?と思いながら、牛鬼を見つめていると、牛鬼は、私の手前で止まってしまい、そこで、「やーえいとこー」と声を出した。もっとこちらまでは来ないらしい。1メートルほど近くで止まってしまったのだった。
 それから牛鬼は、またよそへ行ってしまった。私は、そのあとをじっと見つめた。御仮屋の前で、「切り回し」をし始めた。御仮屋の前で見ていたら、面白いのになーと思いながら、それをじっと見つめる。
 枝浦地区の空き地は、狭いので、牛鬼の迫力があるのだ。本浦地区は、空き地が広々としていて、切り回しをやっても、迫力が感じられない。やはり、昔の狭い空き地が、牛鬼は怖かった。私はいつも、本浦地区の昔の狭い空き地のことを思い出す。

 時間がたって、3時をすぎた。祭典の準備が行われる。午前中と同様に、青いビニールシートが用意された。去年もそうだったので、今年はビニールシートに慣れてしまった。あはは。
 神主の祝詞があげられた。お気に入りの神主さんをじっと見つめてしまう。あはは。去年もいたけれど、今年も同じ神主さんだ。やがて、太鼓が鳴って、巫女の舞いの奉納があった。
巫女の舞いは、宵祭り、朝、これで3回目を見ることになる。ずいぶん長い踊りで、私はシャンシャンと鳴る鈴の音を、耳に心地良く聞いた。
  巫女の舞いが終わってから、4時ぐらいから5時までの記憶が、私にない。御仮屋のところには、いなかったように思う。Sの家にトイレのために帰ったような気がしているのだ。去年は、牛鬼のあとを、金魚のフンのように追いかけて歩いたのだが、今年はそんなことはしなかった。
 大狩浜の橋のところで、「名残」をやるのを、去年は見たのだったが、今年は見なかった。
去年見たから、いいやーと安心してしまったからのように思う。その代わり、去年よりも早く神社に上がって、一つ目の石段を上ったすぐのところで、神輿がおかえりをするのを待った。去年は遅くなって神社に上がり、よく見えなかったからだった。
 傘をさして、同じようにじっと神輿を待っている女の人がいたので、立ち話をした。
 その女の人は、「狩浜の牛鬼は怖いですね」と言っていたので、私は内心笑ってしまった。その怖いところが良いのだ。怖くないと、つまらないからだ。
 神輿が来るまで、長いこと、女の人と立ち話をした。そうこうしているうちに、にぎやかな音がして、一番神輿がやってきた。外はすっかり暗くなっていた。
 石段を上がったすぐのところで見ていたので、よく神輿のことが分かってしまった。神輿は、石段を上がると、一番前の人が、担ぎ棒に体重をかけて、ぐいっと、下にひきづり下ろすのだった。ひゃー、こんな場面見たことない、と私は思ってしまった。
 一番神輿の前の人だけが、こんなことをするのかと思って、二番神輿が来たので、見ていたら、やはり二番神輿の一番前の人も、担ぎ棒にしがみついて、体重をのせて、ぐいーっと下におろした。
 ひゃー、こんな風にしてたのね、と私は思ってしまった。初めて見る光景なのだ。石段を上がったすぐのところで、見て良かったと思ってしまった。
 じきに、三番神輿もやってきて、驚くような速さで、走り去っていってしまう。私は、見るのに忙しくて、写真は一枚も取らなかった。
 境内は、おかえりを見る人でごった返していた。雨にも拘わらず、大勢の人がおかえりを見ていたのだ。私は、牛鬼のかごを置いているところに行って、牛鬼を見たあと、Sの家に帰った。この後は、お舟組の踊りを、門脇集会所で見るのだ。

 7時を過ぎた。私は門脇集会所にやってきた。マジック嶋田のマジックショーの最中だった。この手品を見るのは、これで3回目である。2015年、2016年と今年だ。タバコの手品で、毎回同じなので、写真も撮らず、眺めていた。タバコの手品は、口から出すので、危ないなあと毎回思ってしまう。一体、どうやって出しているんだろう?タネは相変わらず、分からずじまいだ。
 いよいよ、踊りが始まった。私は「衣装付け」の日にも、見ているので、安心して眺めていた。いつもなら、一番前に座ってみるのだが、今回は、後ろのほうの席で見た。
 私は大人の踊りを楽しみにしているのだ。お舟踊りは、大人の踊りがいい、とそう思っている。皆芸達者なのだ。
 私はIさんを注目して見ていた。70歳のおじいちゃんには思えないなあと思ってしまう。目のお化粧をして、目をパチパチさせると、とてもチャーミングだった。あはは。
 それからM君の踊りも良かった。I君と同じ年だとか聞いた。とても、色気があって良かった。
 やっぱり、大人の踊りはいいなあと思ってしまった。皆男が女に化けて踊るんだもの。女以上に色気があると、うははと面白いのだ。 楽しい時は過ぎて、私はSの家に戻った。

 29日の日は、いとこ達が東京に帰る前に、Yおっちゃんが作った牛鬼の面の横で、記念撮影をした。私も、ハッピを着て、写真を写してもらった。Yおっちゃんが作った牛鬼の面は、お祭には、廊下に飾ったいたのだった。
私は、よくできているなあと思ってしまった。きれいな顔をしているなあというのが、感想だった。27日の日は、Tさんが作った面を見せてもらったが、これもよくできているなあというのが感想だ。でも、Yおっちゃんが作った面と、表情が少し違った。
いとこも、叔母も、牛鬼の横で、写真を撮った。いとこと叔母は、この日東京に向けて出発した。
私は午後から、Sの家で、昔のお祭ビデオばかり見た。去年も見たのだけれど、今年も見るのだ。何度見ても、見るたびに発見がある。皆、若いなあと思ってしまう。Aちゃんも、S君も。F君も、Y君も。
 亡くなられたK田先生が、太鼓をもって歩いているビデオがあった。K田先生も、若い。私はなつかしくなった。もう亡くなられたのだなあと思うと、歳月の過ぎるのを、少々うらめしく思った。

 30日の日は、卯之町までYおっちゃんに車で送ってもらって、午前11時2分発の
宇和海に乗った。とうとう川口に帰るのである。Yおっちゃんと、久美子おばちゃんに手を振ったあとで、私は電車の中でうとうとしてしまった。これから、8時間も電車と新幹線に揺られるのだ。
 あたりが暗くなった頃、新幹線は、品川に着いた。もうすぐ東京だ。うとうとしていた私は、急にしゃきっとなった。東京に帰ってくると、なぜかほっとした。京浜東北に乗り換えて、川口が近くなるごとに、私はしゃきっとなった。
 8時少し前に、家に着いた。着いたよ、とSの家に電話したあと、Oの家に電話して、ぺちゃくちゃと電話でしゃべって笑った。本当に楽しかった。

 こうして、田舎への旅行は、26日から30日までで、あっという間に過ぎ去ってしまった。私は心温まる思いがしていた。故郷は、やはりなつかしいのだ。でも、住めば都で、今住んでいる川口も、到着するとほっとするのである。
 川口に住んで20年。田舎暮らしより、長くなった。だから、やはり川口に帰ってくると、なぜかほっとしてしまうのである。
 私はコーヒーを飲みながら、今年のお祭のことを考えた。去年と同じ雨の秋祭り。でも、去年と同じように、全日程を無事に終えることができた。
 29日の日に、久美子おばちゃんに聞いたのだが、のぼり旗が台風でちぎれてしまっているそうだ。B君のブログによれば、ざっと100万円の被害額だとか。来年は、新しい旗を作らないといけない。大変だなあと思ってしまう。
 いつまでも、続いて欲しい狩浜のお祭。そして、私の大好きな牛鬼。川口に帰ってきて、また来年も帰ろうと、はやばやと来年のことを考えてしまう。久美子おばちゃん達が、元気でいるうちが、花だ。沢山いい思い出を作ろうと思ってしまった。
 ありがとう。故郷の人。温かく迎えてくれて、声をかけてくれた人、ありがとう。今年も
良い思い出ができました。
 私はさっそく、ブログに取ってきた写真を載せた。そして、雨の秋祭りを振り返った。これから、川口の日常に戻るのだ。お祭の俳句ばかり作って、送ることになった。なんでも、記念に書いて残すことは大切だ。あとで、いい思い出になるから。
 そして、せっせとお祭物語を書き始めた。

                                                    完

 

「狩江物語」の連載終了にあたって(スタッフより)

山田さんには今回、お祭りにまつわる小説を寄稿していただき、本当にありがとうございました。ドキュメンタリータッチで、まるで読む人がお祭りのその場にいるような感覚を覚えました。お祭り、特に牛鬼への並々ならぬ情熱愛情が伝わってまいります。これからも狩浜のお祭りを応援してくださいますよう心よりお願い申し上げます。ありがとうございました。


 
 

 

 
 


段々畑の歴史その① 江戸から明治にかけて

2020-04-19 11:19:15 | 重要文化的景観

みなさんは段々畑の風景といえば、どんな風景を想像されますか?

いきなりの質問ですが、下の写真みたいな感じですかね?

このような段々畑を思い浮かべる方がほとんどだと思います。あるいは棚田のような風景かな?または遊子のじゃがいも栽培の段々畑とか・・・・。

この上の写真は最近の本浦地区のものですが、いま私たちが目にする風景は、その時代の住民の暮らしや生業とともに少しずつ変化しながら今の景観になってきました。そしてこれからもずっと変化し続けていきます。

今回は、その変化の過程を先の文化的景観調査報告書を参考にしながら、みなさんと勉強してまいりたいと思います。前回の地質学に続き、第2弾。(寝ないでね!)

題して、 段々畑の成立と変遷の概要 江戸期から明治期の姿

航空写真によりますと、現在狩浜全体では約9000枚!の段畑が確認できるそうですが、ちょっと想像がつかない数字ですね。また本浦地区の段畑は、ふもとからてっぺんまで約60~100数十段の石垣が築かれているそうです。実際ワークショップで子どもたちや大学生が数えてみたところ、最高120段前後まで数えたそうです。これまたものすごい数字!

そんな天まで届けの威容を誇る狩浜の段々畑ですが、現在はチャート、石灰岩を中心とした石で組まれています。そうです、前回の講義で説明した秩父帯南帯という地質層から出てくる石ですね。チャートは固く、石灰岩は加工しやすい特徴を持っています。ジュラ紀という時代の付加体に含まれています。

では、その昔江戸期あたりの狩浜の畑ってどんな姿だったんでしょう?

現在のように天まで至るような段々畑だったのでしょうか?

江戸時代においては、狩浜は主に漁業中心の生活であった為、サゴ畑が大部分であったようです(石垣で補強されていない畑のことです)。また18世紀後半には食料としての甘藷(サツマイモ)が伝わったり、ハゼの栽培が吉田藩から奨励されるなどして裏山の開墾が進み、そのような植物がおもに栽培されておりました。また川沿いに少しばかりのお米も作られていました。

     

ただ開墾して山を掘れば石灰岩がごろごろ出てきます。邪魔になった石を割って低い石垣を造り、急斜面の畑を補強するようなことはしていたと思われます。その初期の石垣(ムカシイシガキ)は今も確認することができます。でもまだ石垣造りの段畑は主流となっていませんでした。

そういう時代、幕末から明治にかけて一人の石垣つくり名人があらわれました。本浦に住居を構えていた上村與十郎です。彼が活躍していた時期に8mを超える石垣を築きました。どうしてこんな山の奥にこんな巨大な石垣を!?と誰もが思う、城の石垣のような造りです。今も山中にひっそりとその威容を誇っています。

(馬ころばしの石垣↓)まるでお城の石垣!!高くて怖くて登れません!・・・・

       

このように江戸後期から明治初期にかけての時代、狩浜の段々畑はだいたいこのような様相であったろうと思われます。石垣段畑の黎明期といった時代でしょうか。

当時の生活とともに段々畑の様態は変化していることをわかっていただけましたか?

(もっと勉強しろ!・・すみません・・・)

まだまだ勉強不足で説明も不十分なところもありますがご容赦を。

次回は、石垣造り飛躍の時代について学んでゆきたいと思います。では、また。

                      to be continued

 

 

 


へぇ~っ、そうなの?狩浜の地質について

2020-04-17 11:27:39 | 狩江のジオパークポイント

みなさん突然ですが、今回は狩浜の地質(大地のなりたち)についてちょっと薄学ながら話してみたいと思います。

                              *

写真(↓)のように私たちが暮らす狩浜は、集落の裏側(=北側ですが)に急峻な山々が、南側には青い宇和海が広がる典型的四国西南部の地形です。

そんな南予の典型的風景なんですが、この風景の中には長~い地球の営みが隠されています。知れば、おおおっ!ていうような大地の歴史が詰まっています。そんなわたしたちの狩浜と、地球の大地の歴史についての話。

               *

さて、まず狩浜を知るキーワードが仏像構造線。

●参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/仏像構造線 

                                                                 

狩浜の大地は、集落の中央を東西に通る仏像構造線という断層を境に地質がほぼ2つに分かれます。ひとつは写真(↑)の左側の山や陸地で、約2億5千万年~2億年前に形成されました。もうひとつは写真右側の陸や海あたりで、それ以後の白亜紀って時代に形成された地質です。

それぞれ秩父帯南帯、四万十帯と言われます。

これらの地層帯は、プレート移動ではるか南の方から運ばれてきた岩石が大陸とぶつかってできたり、浸食された土砂など堆積したものが海底から押し上げられ、付け加えられてできたりしたものです。(付加体と言います)。

四国の大地はこの繰り返しで出来ました。

狩浜はこの時代の違う地質がぶつかり合うちょうど境目にあるんですね!

具体的に説明しますと・・・・・

みかんの段畑がある山のあたりはごつごつとした硬いチャートや、狩浜の段畑の代名詞となっている石灰岩が多く見受けられます。このあたりはジュラ紀前期から後期という時代に形成されました。そう、ジュラシックパークのジュラですね!

これが秩父帯南帯。(ジュラ紀前期~後期

さらにお伊勢山とか祇園山やショウジョ山から久保浦海岸あたりは、砂、泥系の割ともろい地質で出来ています。また海岸線の磯なども同じ地質で出来ており、砂岩や泥岩といった岩石が中心です。通称「島の元」の島も砂岩の塊と思われます。

これが四万十帯。(白亜紀前期~後期

わたしたち狩浜人はこの2つの地質帯の上で生活してるんですね。

なんだかワクワクしません?ジェラ紀とか白亜紀とか。恐竜が闊歩していた頃なんです!

●参考資料https://ja.wikipedia.org/wiki/白亜紀   

 

このように狩浜は、2つの違った地質がぶつかった場所に位置し、かつそれらの特徴を確認できるたいへん興味深い場所であります。

このような地殻変動によって出来上がった狩浜なんですが、その頃はまだ現在の中国と陸続きでした。やがて今の中国大陸から分離し、徐々に現在の日本列島の形に近づいてゆくのですが、現在の狩浜の景観になってゆくには、さらに隆起や陥没、浸食を繰り返しながらの長い時間が必要でした。その隆起の痕跡が下の写真です。

山が段々になっているのがわかりますか?海岸段丘といいます。徐々に隆起していったなごりです。

●参考 https://kotobank.jp/word/海岸段丘-42209

さらに隆起と浸食がもたらしたものが今の急峻な山です。仏像構造線を境に、比較的柔らかい四万十帯の地層は浸食されてみごとな断層崖の絶景を生み出しました。

このような景観は、外部からのビジターに感動を与え続けています。こんな景観はあまり見たことないそうです。

現在でも四国山地は隆起し、反対に豊後水道の海溝に大地がひっぱられているのだそうです。

このような狩浜の大地の成り立ちを想いながらふるさとの風景を眺めると、なんかへぇ~っ!て気持ちになりませんか?(ならない!おまえの解説がまずい!って声が聞こえる・・・)

もし何かの縁でこの狩浜の土地に立ち、海や山を眺めたとき、ちょっとジュラ紀とか白亜紀とか仏像構造線なんかを思い出していただければうれしい~!なぁと思います。

以上、素人地学の時間でした。ではまた!                       to be continued