狩江のお祭りと文化論

~愛媛県西予市明浜町狩江地区のお祭りや、四季折々の風景、暮らしを独自の観点からお伝えいたします~

津波警報 狩江最新情報③

2010-02-28 18:07:50 | 四季の風景
前回の写真から30分後の様子。
分かりにくいと思いますが、堤防の右側の海にある岩が
前回ではあまり海上に出ていませんでしたが、いくつか出ています。
満ち潮の状態ですが、逆に水位は下がっています。
これから第2波、3とやってくるそうです。くれぐれも警戒を
怠りなく!

春の兆し

2010-02-21 16:47:45 | 狩江の暮らし
松山市では昨日から「椿まつり」が3日間おこなわれております。
”伊予路に春をよぶ”のごとく、この期間中は雪が積もったり寒さが一番の頃ですが
これを過ぎると一気に春の気配が漂ってきます。

狩江地区では今日は久しぶりの大変良い天気に恵まれました。
こんな天気には畑の菜の花が輝くように咲き誇ります。
どこも2月という月は、期末であったり〆の月。
地区でもいろいろな1年間の行事などの反省月でもあります。
3月1日は「お講」があり、地区ごとの総会の日。
いろいろな意味でこの時期はチェンジのときでもあります。

狩江の歴史ひとくちメモ
「昭和9年、今から何年前のことでしょう?計算できないほど前のこと、
ラジオの普及率 俵津が10台、狩江5台だったそうです。・・・・・。」

狩江地区産業文化祭②

2010-02-14 16:29:03 | 狩江の暮らし
文化祭2日目の今日は、外では地元の団体などによるバザーが開催。
甘酒、しいたけ、米菓子、たこやき、じゃこてんかつ、野菜、漬物
上げたてじゃこてん、寿司パック、いちご大福、などなど・・・。
わたくしはそのメニューで昼ご飯と致しました(笑)!
幾分天気は冬型ではありましたが、いろんなものを食べておりましたら
ホカホカしてきます。

午後からは、2階でこりに凝った芸能発表会。狩江地区は別名「芸能村」と
呼ばれるように、その道(?)でお好きな面々がいっぱいおられます。
少ない時間を割いて練習した成果がきっと出たことと思います。

狩江地区産業文化祭 ①

2010-02-13 18:10:01 | 狩江の暮らし
今日から地区の産業文化祭が公民館で開催されております。
1階では亥の子や狩江地図に関する資料を展示。
また今回の目玉、結婚写真展示と酒井氏による木工アートの展示。
2階では児童、中学校生、一般、団体の絵や手作りなどの作品展示。
明日は午後から芸能発表会とバザーです。
毎回、準備される関係者の方は大変ですが、みなさん、ぜひ行ってみましょう。

ある謎の冠

2010-02-08 21:50:24 | 狩江の歴史をたずねて
前回は蛸が御神体を引き上げた話しでしたが、今度はある謎の冠のはなし。

これは地元のある網元に残るちょっとミステリーで興味をそそる実話。
 
戦後の昭和、まだ日本が混乱状態の時代、そこの網は普段どおり
今で言う”恋の浦”あたりで、いわし漁をしていて、網を曳いていました。
その頃はまさしく豊饒の宇和海と言われるように、群れになって沖から岸へと
魚の大群がやってきたそうです。それを追うようにまぐろなどの大型のウヲも
やってきていました。
その日、網の中になぜか見かけないものが混じっていて、引き上げると
なんと手のひらに収まるくらいの冠ではありませんか!
金属製であったために、それは緑青が付き、輝きは薄れていましたが
形は頭に載せるほどの、王族の女性が被るようなりっぱな冠でした。
日本史において、女性がそんな冠をつけたような姿はあまりありません。
一見して、これは大陸あたりの品物では?とみんな思ったようです。
精巧なかざりや細工も見受けられ、それは持ち帰られて、しばらくその
網元の家に保管されておりました。
その後、これはきっと何か大変貴重な史物ではないかということで
ある学校の先生に鑑定を兼ねてあずけられたそうです。
でも・・・・その後、その冠の所在がわからなくなってしまったそうです。

現在関係者の話によると、当時そのようなものにどれだけの価値があるかが
全く認知不足だったそうで、その後の所在を含めた追跡もしなかったそうです。
大変悔やんでおられました。今ではすぐ写真などに記録できますが、
話しをきいて残念でなりません・・・・・。
むかしむかし、この宇和海にそんな冠を積んだ舟が往来し、きっと嵐にあって
海の底深く沈んでいたのでしょう、いったいどんな人物がその冠を被っていたので
しょうか・・・・・、ロマンをそそります。

たこ伝説

2010-02-06 19:54:15 | 狩江の歴史をたずねて
先日の地区教育研究会にて、地元の歴史に詳しいK先生よりひとつの資料を
いただきました。それは、狩江の春日神社に伝わるたこの伝説に関するものです。

春日神社には昔からたこの話しが伝わっていて、狩江の人ならほぼ知っているはずです。
そうです、蛸の絵を描いて神社に貼るとイボが取れる、等などです。
それはたこのある伝説からきたもので、これになると、みなさんちょっと知らない
方もおられるかもしれません。諸説いろいろあって、これだ!という言い伝えは
案外、人それぞれかもしれません。
今回いただいた資料は、明浜町の歴史文化を研究してこられた郷土歴史家でもあった
故久保高一先生による興味深い民話です。以下、原文をそのまま引用させていただきます。

  *  *  *  *  *  *

  『蛸のお手柄』

 そうよ、さきに春日神社の場所からのう・・・
明浜町狩浜の真ん中、海寄りの丘を宮崎というて、がいな木がならんじょる奥に
御殿があるんよ・・・。
 そうそう、三百年よりまだ前の話じゃけん古いことよ、なんでも今から十六代前の
権太夫さんが狩浜に落ち着く前のことじゃそうな。ついでに権太夫さんの事もか・・・
もとはな家岡九郎兵衛と言うた、彦兵衛庄屋に一廉を貰い西園寺公広から何代目かの
「時姫」をめとって、春日様の神主となったのじゃ、あとの日向太夫時定や
山城太夫時只などみな時姫の一字を取ったもんじゃそうな・・・・

さてさて春日大明神はな、霊験あらたかで近郷近在から崇拝されちょった、
また御神体が値打ちもんなんぞ。
それはな、お寺を550年前に建てた原田弥七郎の先祖が大物でな、銭銀言わずに
奈良から勧請しただけに、りっぱなものじゃ、あんまり評判がたけえから困ったことが
起きたんじゃろうのう・・・ほんとにいけんのがおってのう、
御神体を上方に売ろうでて、夜おそうに御殿から盗んでしもうたがよ、
そやけんちょっとでもはよう逃げよでて、無茶苦茶に帆を張ったんじゃ。
ところが悪いことはできんもんぜ、
はじめは帆も役にたたんほどの海が、ぼつぼつ時化だして日振りの沖からは大時化じゃ、
そげな時は帆をおろすもんじゃが、それさえできん大時化じゃけん、傾いたまんま
飛ぶように走るがよ。
こりゃ神罰に違いねえ!「もとの御殿におかえしします・・・」
一心になってお祈りしたようじゃが、もうこうなったら遅いわい。

その翌朝のことじゃ・・・
三崎の名取の人が浜に出て、「ゆんべの風はがいなかったのう・・・」と
話しおうちょる目の前で、がいな蛸がなにやら頭の上に捧げるように泳いで
汐べりに置いたと思うたら、もう海の中じゃった。
ほんのわずかのことよ、みんなあっと思うち近寄ると今度はたまげた!
「こらあ、どこぞのご神体にちげえねえぞ!わしらに祀れということかもしれん・・」
と、岩の上に置いて、みんなで石を集めだした。
平べったな大きな石を屋根にして、その奥におさめたんじゃ、ありがてえことよのう・・

話し変わるがな、御殿が荒らされちょるんで大騒ぎじゃ!
八方へ手配りしてさがしたさがした、ところが向灘の人から
「名取の浜に、どこかの御神体が祀ってある」と聞いて、船をしたててとんでいったら
まことそうじゃった。

名取のひとはゆうにしちくれちのう、細こうに教えてくれたんじゃ、
行った連中は喜んでのう、白木綿にくるんで大事にして、南組の浜へ舟を着けたがよ
と、長老が海にはいって赤ん坊を負うかっこうで背をむけたら、
舟の中から無言で背中へ載せた、と。
あとも見ずに端呂利(ハシロリ、地名)の坂・石段をとぶようにして御殿に
おさめたそうな・・・。

その年のお祭りのおかえりから、石段を走り上がる様になったがよ。
そやけん、だれ言うとなく蛸を食う人がいない、近所の村へなにかごとに
よばれていっても、むこうも知っちょるけん蛸は出さなや。
もうひとつあらい、心願が叶うたり、イボがきれいに落ちると
お礼詣りにゃ蛸の絵を持ってお宮の扉に貼るのぜぇ、信仰なもんよのう・・・。

    以上「ふるさとの民話」より

いのしし出没!

2010-02-02 21:51:43 | 狩江の暮らし
2月になってしまいました・・・・
個人的にPCの調子が今ひとつで、メンバーも忙しそうでしたので更新できない
状態がかれこれ半月も・・・。この間、寒い日が続き、暖冬と言われながら
ホントかいな?なんて思うような今日この頃。

さて、その寒さの中で先週、いのししが昼間に現れたのであります!
このいのしし、あじろ方面から泳いできたらしく、海岸に沿って枝浦、大川、そして
お伊勢山方面へと泳いでゆきました。みんなが珍しがって岸から見ていたものですから
岸に近づいては離れ、どんどんと沖に向かって泳いでゆきました。
いくらいのししとはいえ、この冬空の下の海はきっと寒かったことでしょう。
かわいそうだったので、わたしはそれ以上追いませんでした、どうなったのかな・・・?


さる1月23日(土)に公民館で、狩江地区教育研究大会が開催されました。
4つの分科会で、狩江のお宝(地域遺産)の発掘作業を通じ、ふるさとの再発見
未来にむけての建設的な集まりでした。
その中で出席した「わたしのとっておきの場所」では、去年に引き続き
小字の地名から地区を再発見。
そこで渡江地区の昔の海岸線の話があり、ちょっと興味をもちました。
まだつかわれている地名で「潮入り」という名がまだ残っていて、すなわち
そこらへんが昔海岸線だったようです。今では民家が建っていて、海岸線はずっと
50mほど先です。また庄屋さん宅はこれまた裏手がもう山になっている所に
あって、当時はそこまで海だったらしく、昔の渡江湾の姿がなんとなくわかって
きました。そのように、みなさんからの記憶や想いを綴りながら、新しい狩江の
地図を作る作業であったのですが、今後も続けてゆく予定です。

2月は地区の産業文化祭があります。
みなさん、ちょっと寄ってみませんか?