あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

ポルトガル紀行150 シントラ9 シーザーの間   

2019-08-16 | ポルトガル紀行

 

  

シーザーの間

 

シーザーをモチーフとした
フランドル製のタベストリーが

飾られていることから
「シーザーの間」と言われている。

英語読み「ジュリアス・シーザー」だが
ガイウス・ユリウス・カエサルが
慣用的な表記である。

  

ガイウス・ユリウス・カエサル
(紀元前100-紀元前44年3月15日)は

共和制ローマ期の政治家・軍人であり文筆家。

「賽は投げられた」
「来た、見た、勝った」
「ブルータス、お前もか?)」
など有名な引用句でも知られる。

古代ローマで最大の野心家と言われ
マルクス・リキニウス・クラッスス及び
グナエウス・ポンペイウスとの
第一回三頭政治と内戦を経て
ルキウス・コルネリウス・スッラに次ぐ
終身独裁官(ディクタトル)となった。

何故 ここにシーザーが
あるのかは分からないが

推測するに 
ドン・セバスティアン王が
北アフリカに新たな植民地を

築こうとモロッコへ遠征するが
このタベストリーを飾り

シーザーへのあこがれと
気持ちを鼓舞していたのではと・・・


 

なお ”フランドル”というのは、
ベルギー オランダ フランスに
またがる刺繍の産地をさす。

手前の飾り物は 2匹の赤い魚の陶器。

   飾られた絵画 ちょっと異様!

 

 

 


ポルトガル紀行149 シントラ8 王の間   

2019-08-15 | ポルトガル紀行

 

 

 

「ドン・セバスティアンの部屋」


歌劇でも(1843年初演)有名な

 

ドン・セバスティアン王は
(在位1557~1578年)ポルトガル王
生涯独身で後継者を作らずに

24歳の時 北アフリカに新たな植民地を
築こうとモロッコへ遠征するが
サード朝と刃を交えるも敢えなく
戦死?(行方不明)しまった。

 

そのため 大叔父のドン・エンリケが
新国王エンリケ1世として即位するが
老齢の為に1年程で崩御してしまう。

エンリケ1世も老齢のうえ独身で
世継ぎがいなかったことから

ポルトガルは 1640年まで60年間スペインの
同君連合国家という位置付けにされてしまった。

 

 

            
   黄金の天球儀

 

 

 


ポルトガル紀行148 シントラ7 カササギの間    

2019-08-14 | ポルトガル紀行

 

 

 

白鳥の間と同じように
天井には136羽のカササギが
描かれていることから
「カササギの間」という。

 

 

カササギのくちばしには
pot bem(善意で、という意味)と
書かれた紅バラがくわえられている。

 

これには逸話があり 
ある時ジョアン1世が

女官にキスしようとして王妃に咎められ
「善意でキスした」と弁解したという。

その噂話が女官たちの間で広まり
疎ましく思った王が女官を
やかましいカササギになぞらえて

女官と同じ数を描かせたのだという。

またフィリパの実家ランカスター家の
紋章である紅バラを併せて描かせている。

 

 

 


ポルトガル紀行147 シントラ6 天正遣欧少年使節    

2019-08-13 | ポルトガル紀行

       

        シントラ市章                   大村市章

 

日本最初のキリシタン大名であった
大村家第18代領主大村純忠ら3大名が
派遣した伊東マンショ、千々石ミゲルらの
天正遣欧少年使節一行は

今から 437年前の
1582(天正10)年2月20日、

長崎港からヨーロッパへ出発し
1584年8月に シントラ宮殿を訪ねて

前回の「白鳥の間」で 
アルベルト・デ・アウストリア枢機卿
(当時ポルトガル王を兼ねていた
スペイン王フェリペ2世から

ポルトガル副王に任命されていた人物)に
謁見している。


この史実に基づき 
長崎県大村市とシントラ市は 

1997(平成9)年に
姉妹都市として提携している。

 

 


ポルトガル紀行146 シントラ5 白鳥の間    

2019-08-12 | ポルトガル紀行

  

 

「白鳥の間」は宮廷演舞会場として
用いられていた大広間。

 

ジョアン1世の娘カテリーナが
1662年 27歳の時に
イギリス王チャールズ2世のもとに嫁ぐとき

その幸せを願って27羽の白鳥を描かせたという。

 

当時 女性は10代で嫁ぐのが普通であったので
生涯伴侶を変えずに
夫婦円満の象徴と言われている白鳥に

晩婚であった娘の幸せを託すという意味が
この白鳥にあった。

 

白鳥1羽1羽 ポーズが違うが
首には王冠を飾っている。

 

   

            

 イギリスにアフタヌーンティー文化をもたらした

カタリーヌ

 

 

壁は グリーン系のアズレージョで統一されて
落ち着いた雰囲気の木彫りの調度品が置かれ
そして真ん中には黄金のシャンデリアが輝く。

 

1584年8月 天正遣欧使節一行はこの部屋で
アルベルト・デ・アウストリア公爵に謁見した。

だが この時期まだ天井の白鳥は
描かれていなかったので
今とは異なる印象だったのでは・・・。

 


ポルトガル紀行145 シントラ4 シントラ王宮    

2019-08-11 | ポルトガル紀行

 

〇見学順路

白鳥の間→カササギの間→王の寝室→シーザーの間→
王冠の間→ガレオンの間→タベストリーの間→
紋章の間→中国の間→礼拝堂→アラブの間→
厨房→マヌエルの間(大広間)

 

                   

 

2本の巨大な煙突が特徴的な「王宮」
ムーア人が残した建物を礎として
13世紀末にディニス王が
王宮の原型を整備・改築している。


14世紀初頭 エンリケ航海王子の
父ジョアン1世が “夏の離宮” として建て

16世紀にはマヌエル1世が
莫大な富をつぎ込み増築しているため

ゴシック、ムデハル、マヌエル、
ルネッサンス様式と

多様な建築様式が渾然一体となった
総合建築が完成している。

 

 

   

 
  王宮入口に置かれている噴水

 

 

 


ポルトガル紀行144 シントラ3 ムーア城    

2019-08-10 | ポルトガル紀行

 

 

 

王宮から見上げると 
山頂にムーア人(イスラム教徒)が
築いた城壁が見える。
中国の万里の長城を思い起こす。

シントラ防衛のため8~9世紀に
かけて築城されたもので


城塞は1147年、ポルトガルの
建国王・アフォンソ1世によって
陥落してしまった。


現在残るのは1kmほどの城壁のみだが

標高450mの山頂からはシントラの町と
その後背に広がる大西洋が
眺望できるビュースポットになっている。

城壁は 王宮からは約3km離れ
更にその奥 標高529mの
山頂には「ペーナ宮殿」がある。

 

このペーナ宮殿の建築を命じたのは
女王マリア2世の夫フェルナンド2世によって
廃墟となったジェロニモス会修道院を
改築して1885年に完成している。

ムデハル、バロック、マヌエルなど
多彩な建築様式が混在し

さらに 形の異なるカラフルな建物が
入り組み その上にはドームの塔

見張り台のような塔と多彩な外観が
おもちゃのお城のようだという。

我々はこれら 割愛でした。

 

 

  ペーナ宮殿(Web資料から)

 

 


ポルトガル紀行143 シントラ2 バイロン    

2019-08-09 | ポルトガル紀行

  

 

  街角に「バイロン」の名の店が

 

 

先に シントラの街の成り立ちについて触れたが
緑深い景勝地シントラには 
19世紀以降多くの芸術家も訪れるようになり

デンマーク出身の作家アンデルセンや
イギリスの詩人バイロンも
このシントラに訪れている。

特にバイロンは 自然と人工美が
調和した箱庭のような町並みは、

「エデンの園」と褒め称えている。


彼は シントラが誇る1764年創業の
老舗ホテル・ローレンスに滞在して

代表作「チャイルド・ハロルドの巡礼」の
一部をここで書いたといわれている。

 

 

                       

 1829年当時の景観


緑豊かな佇まいや穏やかな景観は
今でも引き継いでいる。

 

 


ポルトガル紀行142 シントラ1     

2019-08-08 | ポルトガル紀行

 

   シントラ観光案内所

 

          

 ロカ岬からバスで40分

世界遺産の街 シントラへ

首都リスボンから北西約30km 
列車で40分ほど 

9世紀ごろに築かれたムーア人の
城が街の起源とされている。

1147年にアフォソン・エンリケスにより
ポルトガルに併合されて以降は王室の
宮殿や 貴族らの荘園(キンタ)が置かれ
文化の中心地としても繁栄した。

標高300m 緑深い山間に豪奢な城館が
見え隠れし調和する文化的景観の美しさから
1995(平成7)年 
「シントラの文化的景観」の名で
世界遺産に登録された。

現在 シントラの市街地には
約27,000人が居住しているが、
市全域では、37万人を超えるという。

 

 

 

 

 王宮の右手 尖塔がシントラ市庁舎

 歴史ある街にふさわしい市庁舎にしている。

 

 

 


ポルトガル紀行141 ロカ岬3 到達証明書    

2019-08-07 | ポルトガル紀行

 

 

 

日本では「御朱印帳」が人気になっているが

ここでは「最西端の到達証明書」だ。

 

証明書を入手するには見学の前に

観光案内所で申し込まなければならない。

申込書に氏名記入し

発行手数料 11€を必要とする。

 

発行された証明書には

古典的な飾り文字の名前と日付が書き込まれ

“ろう印”が押されている。

 


ポルトガル紀行140 ロカ岬2 ここに地終わり海始まる    

2019-08-06 | ポルトガル紀行

 

 

ロカ岬 北緯38度47分 西経9度30分 
高さ140mの丘に 十字架の塔が建つ。

  

 

その碑には ポルトガルの
詩人ルイス・デ・カモンイスが詠んだ

叙情詩「ウズ・ルジアダス」(1572年出版)の一節
「ここに地終わり、海始まる」が刻まれている。

この一節が詠うように

ロカ岬はロシアの岬から始まった
広大なユーラシア大陸の西の果て
その先は青色した大西洋が広がる。

 

カモンイスについては
オビドスでも触れたが

「ポルトガルの宝」と称賛されているが

1549年に初の海外軍役として
アフリカ・セウタに赴いたが
ムーア人との戦闘で右眼の視力を失った。

またインド航路発見者
ヴァスコ・ダ・ガマの従兄弟でもある。

 

 


ポルトガル紀行139 ロカ岬1     

2019-08-05 | ポルトガル紀行

 

 

 

オビドスから約130km ロカ岬へ

 

ロカ岬は
北緯38度47分、西経9度30分


ユーラシア大陸の最西端 
大西洋に突き出た断崖から
大海を望む位置にある。


「ここに地終わり、海始まる」の
石碑が物語るように

ロシアの岬から始まった広大な
ユーラシア大陸はここまで。

その先は青く広がる大西洋だ。

岬から離れたところには
18世紀建造の灯台が建つ。

 

日本の最西端は 
沖縄県・与那国島だそうだが

過日 国土地理院がその地点が
260m先になったと
発表しニュースになったが。

その地点は 北緯24度27分05秒
 東経122度55分57秒に変わった。

 

 

                     
 遠く望むロカ岬


ポルトガル紀行138 オビドス12 昼食・オムレツ     

2019-08-04 | ポルトガル紀行

 

 

 

オビドスでの 昼食は各自で摂ることになった。

狭い町ではあるが レストラン等は多い。


それゆえ どの店にするか迷うほどだ。 

結局 当方と他の人達も ガイドさんの後に続き

ディレイタ通り 中ほどにある

ファミリーレストランへ 

 

各自まちまちのオーダーであったが

当方はシンプルに ポルトガル風オムレツを 

これがおいしくボリュームたっぷりで満足でした。

 

このレストラン ガイドブックでは

十指内に入る人気であった。
 

 

 


 店内からの展望

 


ポルトガル紀行137 オビドス11 水道橋     

2019-08-03 | ポルトガル紀行

 

 

 

オビドスの町へ向かう全長3kmになる水道橋

城壁と対をなして絵になる。

1570年頃 カタリナ王妃によって建設され

かつて城内のサンタ・マリア広場に

あった泉に水を供給していた。

 

カタリナ王妃は 狂女ファナの四女で

神聖ローマ皇帝カール5世の妹でもあるが

ポルトガル王ジョアン3世の妃となり

建設費を捻出するために

オビドス周辺にあった王妃名義の

土地を売却し 建設したという。

 

 

  現在 水道橋は城壁の手前で止まっている。

 


ポルトガル紀行136 オビドス10 国際チョコレート祭り     

2019-08-02 | ポルトガル紀行

 

 

 

オビドスでは 毎年3月 

国際チョコレートフェスティバルが

開催されている。

2002年に第1回が開催された

新しい祭りだが

村おこしのイベントとして

1人のオビドス在住のアメリカ人によって

企画されたのが最初で


年々規模を拡大しながら町全体を

巻き込んだものへ発展している。

チョコレートを材料にした料理教室や

プロの菓子職人が参加するコンテスト

また チョコレートで作られた彫刻などもあって

中世の佇まいを色濃く残した町全体が

数日間チョコレートの香りで包まれるそうだ。

 

 

 

城内 ステージや小屋が見える所

旧練兵場の広場が 中心会場になるため


我々が訪れたときは 

その準備が進行中であった。