先日息子から電話がかかってきまして「俺、俺、○○」で始まったそうです
○○が無ければ本人かどうか疑ってしまいそうですから、嫌な世の中です
さて彼は生まれて始めて他所で暮らすので、本人の夢ではあったけれど同時に文化的ショックはあったらしい。
親から見れば「可愛い子には旅をさせろ」ですが男親と女親で、或いは人によって温度差みたいな違いはあるようです。
私に関しても私の親は「旅をさせろ・・・」だったでしょうが、言葉は同じでも時代が違うと言うか、条件がまるで違って来ています。
10分くらい電話で話しても日本円で200円程度だそうです。
それもレンタルの携帯電話で出来る・・・昔なら国内でも田舎に電話をかけるなら10円玉を一杯用意して公衆電話でかけたものなのに・・・彼の母親(女房殿)など「そういう値段なら毎週日曜日には家に電話して」
『オイオイ、そんなことで良いのか?』母親は子離れしにくいらしい
話をするだけで体調とかを察することが出来るかも知れないし、言葉でしか手助けは出来ないから電話での会話は大事かもしれないが、でもアドバイスし過ぎ!
彼の一番ショックだったのはやはり国民性の違いだったみたいです
「言いたいことははっきり言う」・・・このことは当然のこととはいえ日本とはかなり違うみたいですね。
逆に自分を主張できる権利もあるみたいなことですが、馴れないと落ち着かないらしい
何も言わなくても周りが察してくれる文化とは違う・・・まあ「旅をしている」訳です
ホームステイ先にも驚いたようです
彼は育ったのが親子4人の典型的な核家族だし、アホな子ほど可愛いが2代も続いているし・・・
それで、行った先が9人の大家族だから洗面とかシャワーにもルールがある
日本で言う長風呂はみんなの迷惑だし、水の使い方だって違う
こちらみたいに「湯水」のようには使えない
さてさてどうなる事やらと思っていたのですが何とか1ヶ月が経ちました
ホームステイ先を出てピソとか言う共同生活に引越したらしい・・・食生活など心配ですが、エネルギーで乗り切るのも若いうちの経験でしょう。
先日の電話では「サッカーのユニフォーム、パンツなど一式とスパイクを送ってくれ」・・・これは一人ではやれないでしょうから、町や、周りの人に慣れたのでしょうね。
ところで電話ですが、私は出る気がしない・・・声が聞きたくないというのとも違うのですが
自分の若い頃と余りにも違うので私自身が戸惑っているのです
私などは東海地方から首都圏の地域差でしかなかったけれど、手紙は勿論家に電話もしない。(近いからだろうか?)
「金送れ」もやらなかったくらいだから・・・
酷い時は2年くらい音信普通、、、当然その間送金も無いのですが、そんな学生時代を送っていたので、直ぐに家に電話をしてくる心理がどうも今ひとつ理解できない親なのです。
まあ、親としては連絡無しでは辛いでしょうが、『余り簡単に頼ってくるな』という感じでしょうね。
そこのところが母親とは違うのでしょうか。
尤も個人差はあるかもしれません
私などは高校を卒業して故郷を離れるのは既定のコースだったし、何だか伸び伸びした気分でもあった。
別に家も故郷も嫌いなわけではないのだけれど・・・そうですね糸が切れたタコみたいな性格なんでしょうね。
ともあれ、昔東海地方の田舎と関東を結ぶ電話の通話料の方が、今の地球の裏側のヨーロッパと日本の間の電話料より高い。
移動そのものは1日かかりですが、声だけなら直ぐ傍みたい
これで「旅をさせた」ことになるのだろうか???
まあ後は本人しだいということでしょう。
ところではっきり物を言うということに関して、今の若い世代では大分様子が違ってきているようにも感じられる節もあるので、本当に国民性だろうかと疑う場面も無いわけではない・・・家の息子も最近の若い世代ですから、個人差が大きいのかもしれない。
特に業界によってはかなり「エッ?と驚かされる」・・・その所属する団体だけだろうか?窓口業務ではそう感じることがある。(あまり詳しくは話せませんが)
ともかく一般的に、若い人も年寄りに遠慮などしないでものを言うようにはなってきている。
誤解されるといけないですが、そのこと自体が悪いことでは無い。
ただ、その裏側と言うか底と言うか・・・
例えば「年令に関係なく同じ権利がある」みたいなもの
それとか、若い人でも「いろんな情報を持っているから、自分の方がよく知っている」と言う自負みたいなもの
自分の要求を通すための駆け引き的に押してくる・・・
私の若いころも生意気な若僧だったかも知れないが、それとは少し違う
「亀の甲より年の功」みたいな年輪は軽視される傾向にはあるでしょうね。
これが囲碁の場合、年令には関係ない世界
どんなに若くてもプロ棋士なら、アマにとっては「先生」なわけで、昔指導を受けた若くて美しい中国棋士の場合などは「老師!!(ラオシ)」。
この辺りは囲碁では普通の感覚です
ところが同じアマ同士の場合年令など関係なく検討するのですが、、、検討の際に「○○ダ」と言い切ることにためらいを感じてしまうのです。
死活とか寄せの大きさでは数学的に答えは出せるとしても、好みだとか複数の選択肢などもあるはず。
私は気が弱いし棋力も弱いためもあり、「○○・・・と思う」になる。
だから同じくらいの棋力の人に、余りに断定的な物言いをされるとそのこと自体が驚き。
『この人は自分の考えに凄い自信があるのだな』『どうしてそこまで言い切れるのかな?』と一種白け状態。
「異文化」みたいなものを感じてしまうのですが、これは私の心が狭いと言う事でもある・・・
○○が無ければ本人かどうか疑ってしまいそうですから、嫌な世の中です
さて彼は生まれて始めて他所で暮らすので、本人の夢ではあったけれど同時に文化的ショックはあったらしい。
親から見れば「可愛い子には旅をさせろ」ですが男親と女親で、或いは人によって温度差みたいな違いはあるようです。
私に関しても私の親は「旅をさせろ・・・」だったでしょうが、言葉は同じでも時代が違うと言うか、条件がまるで違って来ています。
10分くらい電話で話しても日本円で200円程度だそうです。
それもレンタルの携帯電話で出来る・・・昔なら国内でも田舎に電話をかけるなら10円玉を一杯用意して公衆電話でかけたものなのに・・・彼の母親(女房殿)など「そういう値段なら毎週日曜日には家に電話して」
『オイオイ、そんなことで良いのか?』母親は子離れしにくいらしい
話をするだけで体調とかを察することが出来るかも知れないし、言葉でしか手助けは出来ないから電話での会話は大事かもしれないが、でもアドバイスし過ぎ!
彼の一番ショックだったのはやはり国民性の違いだったみたいです
「言いたいことははっきり言う」・・・このことは当然のこととはいえ日本とはかなり違うみたいですね。
逆に自分を主張できる権利もあるみたいなことですが、馴れないと落ち着かないらしい
何も言わなくても周りが察してくれる文化とは違う・・・まあ「旅をしている」訳です
ホームステイ先にも驚いたようです
彼は育ったのが親子4人の典型的な核家族だし、アホな子ほど可愛いが2代も続いているし・・・
それで、行った先が9人の大家族だから洗面とかシャワーにもルールがある
日本で言う長風呂はみんなの迷惑だし、水の使い方だって違う
こちらみたいに「湯水」のようには使えない
さてさてどうなる事やらと思っていたのですが何とか1ヶ月が経ちました
ホームステイ先を出てピソとか言う共同生活に引越したらしい・・・食生活など心配ですが、エネルギーで乗り切るのも若いうちの経験でしょう。
先日の電話では「サッカーのユニフォーム、パンツなど一式とスパイクを送ってくれ」・・・これは一人ではやれないでしょうから、町や、周りの人に慣れたのでしょうね。
ところで電話ですが、私は出る気がしない・・・声が聞きたくないというのとも違うのですが
自分の若い頃と余りにも違うので私自身が戸惑っているのです
私などは東海地方から首都圏の地域差でしかなかったけれど、手紙は勿論家に電話もしない。(近いからだろうか?)
「金送れ」もやらなかったくらいだから・・・
酷い時は2年くらい音信普通、、、当然その間送金も無いのですが、そんな学生時代を送っていたので、直ぐに家に電話をしてくる心理がどうも今ひとつ理解できない親なのです。
まあ、親としては連絡無しでは辛いでしょうが、『余り簡単に頼ってくるな』という感じでしょうね。
そこのところが母親とは違うのでしょうか。
尤も個人差はあるかもしれません
私などは高校を卒業して故郷を離れるのは既定のコースだったし、何だか伸び伸びした気分でもあった。
別に家も故郷も嫌いなわけではないのだけれど・・・そうですね糸が切れたタコみたいな性格なんでしょうね。
ともあれ、昔東海地方の田舎と関東を結ぶ電話の通話料の方が、今の地球の裏側のヨーロッパと日本の間の電話料より高い。
移動そのものは1日かかりですが、声だけなら直ぐ傍みたい
これで「旅をさせた」ことになるのだろうか???
まあ後は本人しだいということでしょう。
ところではっきり物を言うということに関して、今の若い世代では大分様子が違ってきているようにも感じられる節もあるので、本当に国民性だろうかと疑う場面も無いわけではない・・・家の息子も最近の若い世代ですから、個人差が大きいのかもしれない。
特に業界によってはかなり「エッ?と驚かされる」・・・その所属する団体だけだろうか?窓口業務ではそう感じることがある。(あまり詳しくは話せませんが)
ともかく一般的に、若い人も年寄りに遠慮などしないでものを言うようにはなってきている。
誤解されるといけないですが、そのこと自体が悪いことでは無い。
ただ、その裏側と言うか底と言うか・・・
例えば「年令に関係なく同じ権利がある」みたいなもの
それとか、若い人でも「いろんな情報を持っているから、自分の方がよく知っている」と言う自負みたいなもの
自分の要求を通すための駆け引き的に押してくる・・・
私の若いころも生意気な若僧だったかも知れないが、それとは少し違う
「亀の甲より年の功」みたいな年輪は軽視される傾向にはあるでしょうね。
これが囲碁の場合、年令には関係ない世界
どんなに若くてもプロ棋士なら、アマにとっては「先生」なわけで、昔指導を受けた若くて美しい中国棋士の場合などは「老師!!(ラオシ)」。
この辺りは囲碁では普通の感覚です
ところが同じアマ同士の場合年令など関係なく検討するのですが、、、検討の際に「○○ダ」と言い切ることにためらいを感じてしまうのです。
死活とか寄せの大きさでは数学的に答えは出せるとしても、好みだとか複数の選択肢などもあるはず。
私は気が弱いし棋力も弱いためもあり、「○○・・・と思う」になる。
だから同じくらいの棋力の人に、余りに断定的な物言いをされるとそのこと自体が驚き。
『この人は自分の考えに凄い自信があるのだな』『どうしてそこまで言い切れるのかな?』と一種白け状態。
「異文化」みたいなものを感じてしまうのですが、これは私の心が狭いと言う事でもある・・・
