先日来落語のことが頭に浮かびます。
落語だけではなくて、寄席・講釈場などでの話芸というか・・・落語・講談・浪曲、それに漫談、物真似(声帯模写)、朗読などなどです。
これは子供時代の家庭での娯楽というか、食事をする部屋にラジオの存在が大きかったのです。
地方出身ですから寄席も講釈場も無いですから、昔なら浪曲の地方巡業ぐらいですし、これは子供には行きにくい。
生で落語を鑑賞したのはずっと後になって、市の公民館の催しですから話芸好きといっても、ラジオかTVを通してです。
小学校3年の時に我が家にTVが来ましたが、それまでは大きめな真空管式のラジオが茶箪笥の上にあった。
ラジオですから音と声で何かを伝えるので、こういう話芸の番組が多かった
当時は戦後10年程度の時代ですから、「尋ね人の時間」などという番組もありまして、私はなぜかこの番組が嫌いではなかったです。
「昭和20年の7月頃、ハルピンの○○町に住んでいた△△さん御一家の消息を御存知の方・・・是非お知らせ下さい」
このような問いかけが淡々と延々と続く番組です。
楽しいなどという言うことは無かったのですが、これを聞くことが義務みたいな感じだったかも知れません。
放送が流れている時、母は縫い物とか家事をしながら聞いていたはず
私は5,6才頃にも10才近くの時も聞いていたような記憶があります
家にも、親戚にも中国東北方面に行っていた人は居なかったのですが・・・
ともかく、ずっと後になって、残留孤児のニュースがあった時にはこういう記憶が蘇りました。
自分が生まれる前にこういう事が起きていたということを刻み込まれていたと言うと大げさでしょうか
ともあれ、知識とか喋り方とかラジオから来るものが多かったはず。
判らない言葉とか表現を直ぐに近くの大人に聞いたものですから、その頃の呼び名が「何故何故の○チャン」でした
もう少し後になって母の使いが多くなると、お金の勘定に達者になって「勘定○チャン」でしたが・・・
TVも初期の時代は「家族団欒」とか「お茶の間」などという言葉が生きている時代でしたし、食事をする部屋の中心に据えられていた。
番組も舞台中継とか、「話芸」などを見せるものが多かったですから、ラジオ時代と大きく変わったという気はしなかったです。
本当は目で見えるということは劇的な変化ですが、番組を提供する側も発展途上だったのでしょう。
ともあれラジオで話芸を聞くのが好きでした
講談なら一龍斎とか神田の流派で軍談物やら世話もの、、、そう講談というほかに講釈という言葉もあったですから、「為になる話」みたいなものも多かった。
浪曲、浪速節というのですか?、これは土地柄で広沢寅蔵の次郎長物、他の名人の「佐渡情話」、「壷坂霊験記」などが記憶にあります。
落語が一番好きで、小さな頃は新作も古典も何でも好きでした
新作では「おばあちゃんシリーズ」で”私の青空”や、柳亭痴楽とか
「リュウテイ痴楽は良い男、サノ良い男、長谷川一夫や錦之介、それよりずーっと良い男・・・痴楽綴り方教室」何ていうのを真似をしまして、町内のバス旅行の車中でやったことがありましたっけ。
落語好きが原点でしょうね
娘が小さな頃は、夜9時からは寝付かせ為に添い寝をして「落語」をよく聞かせました。(古典落語の本を買ってあったし・・・)
読み聞かせということではもう一つありますね
今でもラジオ番組にあるかも知れませんが、昼前に「朗読の時間」
「私の本棚、今日はモンゴメリー著、村岡花子訳赤毛のアン第○○回、朗読は白坂道子」・・・これも今でも記憶に残っているのですから
私は娘に「赤毛のアン」「大草原の小さな家シリーズ」・・・
落語に戻って将来は「落語家」になりたいと思ったことがありました。
イヤ、成れたらいいなという程度の憧れみたいなものですが
それが何時だったか、「それは難しいゾ」って思うようになりました。
何かの番組で、ある落語家の江戸弁の切れのよさを褒めていた。
「落語はこうでなくてはいけない」みたいな論調でしたか・・・ということは地方在住としては初めから資格がないみたいな感じです
最近は上方落語もよく聞きます・・・よく分からないものの、同じ関西弁でもいろいろ使い分けているみたいなので、芯の部分で江戸弁なり上方言葉が必要なんでしょうね。
そんなことで落語家の道は入り口に行く前で回れ右です
後年、囲碁センターで御爺ちゃんの仲良しコンビが居ました。
二人ともMさんなので、一人をMOさんもう一人をMUさんとしておきます
お二人とも高齢でしたので、既にお亡くなりになっていますが、二人の対局の光景、中でもMOさんの声を思い出すことがあります。
最近では「落語」>「江戸弁」>MOさんなんて言う連想
年令の割には(失礼)綺麗な声というか発声でした
切れの良い江戸弁でしたから、「こういう発声だけでなく口調・・・自分が落語家を目指さなくて正解」だったと思ったものです。
両Mさんは棋力としては、当時の私に多子局ですから級クラスですが、囲碁を楽しむことでは年輪がある。
MUさんのほうはひたすら打ち続けるタイプですが、MOさんは時々休憩しながら仲間とのおしゃべりを楽しむタイプ。
MOさんたちは私などに比べたらはるかに先輩に当たるわけですが、喋る言葉、口調で彼らの生きてきた時代などを感じたのです
それは碁会所などでよく耳にする言葉ですがMOさんが話すと少し違うのです
「何にもならない、裏の柿の木」
「弱った魚は目でわかる」
これは普通・・・・まあこういうことを合いの手に碁を打つのですがMOさんは一味違うのです。
「何にもならない、背戸の柿の木」
「弱った魚は目で知れる」 と、なります
たいした違いは無いですか?
イエ、私はこういうフレーズがスルッと出てくるのを聞いて心密かに感動していたのです。
「瀬戸ってそういう意味だったのか」と実感できましたし、「知れる」と一言でスパッと言い切る感じがすっきりしていて、「わかる」という表現が野暮ったい気がしたものです 。
落語だけではなくて、寄席・講釈場などでの話芸というか・・・落語・講談・浪曲、それに漫談、物真似(声帯模写)、朗読などなどです。
これは子供時代の家庭での娯楽というか、食事をする部屋にラジオの存在が大きかったのです。
地方出身ですから寄席も講釈場も無いですから、昔なら浪曲の地方巡業ぐらいですし、これは子供には行きにくい。
生で落語を鑑賞したのはずっと後になって、市の公民館の催しですから話芸好きといっても、ラジオかTVを通してです。
小学校3年の時に我が家にTVが来ましたが、それまでは大きめな真空管式のラジオが茶箪笥の上にあった。
ラジオですから音と声で何かを伝えるので、こういう話芸の番組が多かった
当時は戦後10年程度の時代ですから、「尋ね人の時間」などという番組もありまして、私はなぜかこの番組が嫌いではなかったです。
「昭和20年の7月頃、ハルピンの○○町に住んでいた△△さん御一家の消息を御存知の方・・・是非お知らせ下さい」
このような問いかけが淡々と延々と続く番組です。
楽しいなどという言うことは無かったのですが、これを聞くことが義務みたいな感じだったかも知れません。
放送が流れている時、母は縫い物とか家事をしながら聞いていたはず
私は5,6才頃にも10才近くの時も聞いていたような記憶があります
家にも、親戚にも中国東北方面に行っていた人は居なかったのですが・・・
ともかく、ずっと後になって、残留孤児のニュースがあった時にはこういう記憶が蘇りました。
自分が生まれる前にこういう事が起きていたということを刻み込まれていたと言うと大げさでしょうか
ともあれ、知識とか喋り方とかラジオから来るものが多かったはず。
判らない言葉とか表現を直ぐに近くの大人に聞いたものですから、その頃の呼び名が「何故何故の○チャン」でした
もう少し後になって母の使いが多くなると、お金の勘定に達者になって「勘定○チャン」でしたが・・・
TVも初期の時代は「家族団欒」とか「お茶の間」などという言葉が生きている時代でしたし、食事をする部屋の中心に据えられていた。
番組も舞台中継とか、「話芸」などを見せるものが多かったですから、ラジオ時代と大きく変わったという気はしなかったです。
本当は目で見えるということは劇的な変化ですが、番組を提供する側も発展途上だったのでしょう。
ともあれラジオで話芸を聞くのが好きでした
講談なら一龍斎とか神田の流派で軍談物やら世話もの、、、そう講談というほかに講釈という言葉もあったですから、「為になる話」みたいなものも多かった。
浪曲、浪速節というのですか?、これは土地柄で広沢寅蔵の次郎長物、他の名人の「佐渡情話」、「壷坂霊験記」などが記憶にあります。
落語が一番好きで、小さな頃は新作も古典も何でも好きでした
新作では「おばあちゃんシリーズ」で”私の青空”や、柳亭痴楽とか
「リュウテイ痴楽は良い男、サノ良い男、長谷川一夫や錦之介、それよりずーっと良い男・・・痴楽綴り方教室」何ていうのを真似をしまして、町内のバス旅行の車中でやったことがありましたっけ。
落語好きが原点でしょうね
娘が小さな頃は、夜9時からは寝付かせ為に添い寝をして「落語」をよく聞かせました。(古典落語の本を買ってあったし・・・)
読み聞かせということではもう一つありますね
今でもラジオ番組にあるかも知れませんが、昼前に「朗読の時間」
「私の本棚、今日はモンゴメリー著、村岡花子訳赤毛のアン第○○回、朗読は白坂道子」・・・これも今でも記憶に残っているのですから
私は娘に「赤毛のアン」「大草原の小さな家シリーズ」・・・
落語に戻って将来は「落語家」になりたいと思ったことがありました。
イヤ、成れたらいいなという程度の憧れみたいなものですが
それが何時だったか、「それは難しいゾ」って思うようになりました。
何かの番組で、ある落語家の江戸弁の切れのよさを褒めていた。
「落語はこうでなくてはいけない」みたいな論調でしたか・・・ということは地方在住としては初めから資格がないみたいな感じです
最近は上方落語もよく聞きます・・・よく分からないものの、同じ関西弁でもいろいろ使い分けているみたいなので、芯の部分で江戸弁なり上方言葉が必要なんでしょうね。
そんなことで落語家の道は入り口に行く前で回れ右です
後年、囲碁センターで御爺ちゃんの仲良しコンビが居ました。
二人ともMさんなので、一人をMOさんもう一人をMUさんとしておきます
お二人とも高齢でしたので、既にお亡くなりになっていますが、二人の対局の光景、中でもMOさんの声を思い出すことがあります。
最近では「落語」>「江戸弁」>MOさんなんて言う連想
年令の割には(失礼)綺麗な声というか発声でした
切れの良い江戸弁でしたから、「こういう発声だけでなく口調・・・自分が落語家を目指さなくて正解」だったと思ったものです。
両Mさんは棋力としては、当時の私に多子局ですから級クラスですが、囲碁を楽しむことでは年輪がある。
MUさんのほうはひたすら打ち続けるタイプですが、MOさんは時々休憩しながら仲間とのおしゃべりを楽しむタイプ。
MOさんたちは私などに比べたらはるかに先輩に当たるわけですが、喋る言葉、口調で彼らの生きてきた時代などを感じたのです
それは碁会所などでよく耳にする言葉ですがMOさんが話すと少し違うのです
「何にもならない、裏の柿の木」
「弱った魚は目でわかる」
これは普通・・・・まあこういうことを合いの手に碁を打つのですがMOさんは一味違うのです。
「何にもならない、背戸の柿の木」
「弱った魚は目で知れる」 と、なります
たいした違いは無いですか?
イエ、私はこういうフレーズがスルッと出てくるのを聞いて心密かに感動していたのです。
「瀬戸ってそういう意味だったのか」と実感できましたし、「知れる」と一言でスパッと言い切る感じがすっきりしていて、「わかる」という表現が野暮ったい気がしたものです 。
