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女の一生 1部 キクの場合

2005-04-21 19:36:00 | 本と雑誌
罰当たりなことに、私はこれと言った信仰を持たない。
遠藤周作さんの「女の一生 1部 キクの場合」を何年ぶりかで読んだ。
遠藤さんはクリスチャンでした。

幕末の長崎。
物語はキクという農家の娘と隠れ切支丹のお百姓の若者、清吉との運命的な出会いで始まる。
キクは活発で一途な情熱的な娘であった。
幕府はまだ信仰の自由を認めず、長崎の隠れ切支丹を弾圧しようと流刑に処した。

過酷な改宗を迫る拷問が清吉たちを待っていた。
キクは独りで清吉の苦しみを少しでも軽くして貰おうと、流刑地の役人、伊藤の言うままに身を任せ、苦界に落ちる。
金を作るために体を売り、身を汚してまでも清吉の身を案じた。

どんなに凄惨な拷問に合おうと屈しなかった人たちの信仰って何なのだろう。
私なら改宗すると言うだろう。
そして、密かにクリスチャンであればいいではないか。
神が存在するとしたら、それをお許しになるのではないのか。

役人たちのどんな説得にも耳を貸さない強情な男がいた。
「責め苦を受けて体を痛めて帰れば、母のない子供たちも嘆き苦しむであろう。そのことを考えてみるがよい」
役人の言葉に男は返事をする。
「御言葉、有難うござります。ばってん、たとえ生身の痛めつけられましょうとも、心ば失うとに比べれたら、何でもございませぬ。そげん思うております」
役人は男のその言葉に言いようのない感動さえ覚えた。匹夫もその志を捨てぬのが彼の心を動かしたのだった。

信仰というのは人間をそこまで強くするのかしら。

キクの一途な清吉への愛もまた、神の愛に近いのではないかしら。
全てを投げ打って真っ直ぐに自分の愛しい人のために生きるキクの姿はまるで聖母マリアのようです。

清吉がまだ、長崎の牢に囚われていた時、キクは代筆してもらった手紙を送る。
「難儀でありなさる。お前さまの顔ば見とうて牢の近くまで参じましたけど、このことがかないませぬ。
今、大浦の南蛮寺におります。お前さまのため願ばかけております。」

その手紙を見た時、火箭(ひや)のように清吉の頭から足の先に一人の娘の情熱が貫いた。

この表現の美しいこと。
ここだけは何年も前に読んだ本なのに、鮮明に記憶に残っていました。

キクは貧農の娘で、切支丹の教えなど知りもしないが、小さな教会のマリアの像に愚痴を言い、罵り、恨み、願った。
それが祈りであることも知らずに。

流刑された人々を取り締まる小者役人の伊藤がいる。
人間の中には善と悪、獣性が潜んでいる。
そう、人間は弱い者なのだ。

以下、結末に触れています。
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時代は明治と変わり、清吉は解放されたが。。
何年も後、清吉は忘れもしない自分たちを責め苛んだ伊藤に会う。

伊藤はキクが短い一生をどう終えたか、涙ながらに清吉に許しを請う。
「もうよか。伊藤さん。おキクさんはあんたに苦しめられたばってん、あんたば別のところに連れていったとたい。
そいだけでもあん人の一生は、無駄じゃなかった・・・・無駄じゃなかった」

本:女の一生 1部 キクの場合