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プルートで朝食を BREAKFAST ON PLUTO

2007-02-20 16:37:51 | ヨーロッパ映画/イギリス・フランス (2

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監督 ニール・ジョーダン
出演 キリアン・マーフィー(キトゥン) リーアム・ニーソン(神父)
     ルーズ・ネッガ(チャーリー)ローレンス・キンラン(アーウィン)
2005年、イギリス

70年代イギリス、IRA(北アイルランドからイギリス軍撤廃と完全独立を求めてテロ活動を行う組織)のテロ活動が活性化する中、愛を求めて懸命に生きるキトゥンの母親探しが始まる。

アイルランドの小さな町、赤ん坊パトリックは、母親に教会の前に置き去りにされ近所の一家の養子として育てられる。幼い頃からドレスや化粧に興味を持ち、周りからは“変わり者”のレッテルを貼られる。彼は養子先からも追い出されるように実の母を探すためロンドンへと向かうのだが…。女の子の心を持つ一人の青年の波乱の人生を軽妙なテンポで綴った作品。

イギリスの政治背景をほとんど知らなくても、映画を見る上では困らなかった。
「プルート」とは冥王星のことなんだそう。

ニール・ジョーダン監督の作品は『クライング・ゲーム』を見ました。

映画を見た人は結末を他人に言うなという宣伝法が新鮮でしたね。
やはり性同一障害の男性と、優しいテロリストの不思議な恋の物語で、心に残る映画でした。
カエルとサソリの寓話が面白かった。

『プルートで朝食』は『クライング』より軽やかな感じです。

一見、こんなに不幸な生い立ちで、しかも、人とは違う性を持つキトゥンは不幸に見える。
たとえ、彼の笑顔が泣かないでいる唯一の方法だとしても。

でも、どんなにどん底状態にあっても彼は自分自身を否定しないし、希望を失わない。
明るく純真な彼の魂はおじさまたちに愛と癒しさえ与えているようだ。

手品師との思いやりにあふれた大人の会話は胸に沁みる。
私は女じゃないの。
知っている。

キトゥンはシリアスを好まない。
彼には政治やテロより、生きること、’幻の女’産みの母を捜すことが大事。
キトゥンはこの時代のイギリスの歴史の狂言回しのような役割も果たしているようだ。

留置場で散々な目に遭っても、留置場に置いてとたのむキトゥン。
世の中はそれほどにキトゥンにとっては生きづらいところなのだ。

おとぎ話のお姫様のように、崖っぷちに立った時、キトゥンには誰かの助けの手が伸びてくるのが面白い。
キトゥンは女性よりも女性なのだ。
柳の木のよう弱弱しいけれど、しなやかで強い。

お話が36章で構成されているのがテンポのよさになっている。

キトゥンとチャーリーの女同士の親友みたいな関係がいい。
キトゥンも彼女の存在に救われたと思う。

キリアン・マーフィーという俳優を初めて見たが、肌が薄く、透けるようで、繊細な顔立ちと蒼い瞳が印象的。
そんなに年齢は若くなさそう。
でも、映画では男の子(高校生から)を演じています。
男の子なんだけど、だんだん女の子に見えてくるから凄い。
演技派なんだと思う。

彼の70年代のファッションも懐かしくて可愛い。

◆母さんを探したら、父さんを見つけた。◆

ここから結末に触れています。

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父親は神父らしく、とんだ告解室で、「懺悔」を始める。笑

キトゥンはどんどん美しくなっていく。
母親は探し当てたが、彼女の幸せに波風をたたせるようなことはしない。
母は再婚してできた男の子(キトゥンには弟)を自分と同じパトリックと名付けている。涙

キトゥンはこの時、母親を許して大人になったのだろう。
キトゥンはこの時、初めてそっと涙を流した。
素晴らしい場面です。

最後に病院の庭をチャーリーと歩く時の全てが晴れ晴れと美しいこと。
空も、緑もキトゥンも!

キトゥンはふたり目を妊娠した母と偶然出会う。
話すこともなく、ふたりは離れていく。
ここもまた、心打ついい場面です。

キトゥンは最早、どこから見ても大人の女性!である。


墨攻

2007-02-06 15:43:41 | 中国映画 (19)

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監督: ジェイコブ・C・L・チャン
原作: 酒見賢一
出演: アンディ・ラウ(革離) アン・ソンギ(巷淹中)
     ワン・チーウェン(粱王) ファン・ビンビン(逸悦)
     ウー・チーロン(子団) 
2006年、中国=日本=香港=韓国

>>秦の始皇帝が中国全土を束ねる前の戦国時代。
趙と燕の国境にある粱城は、趙によって攻撃されようとしていた。10万の趙軍に対し、梁城の全住民はわずか4000人。頼みの綱は墨家の救援部隊だったが、間に合いそうもなく、粱王は降伏を決断する。墨家の革離(かくり)がたった1人で駆けつけたのは、その直後だった。

戦乱の世で「非攻」(侵略しない)を掲げ、しかし弱者を守るためには戦闘のプロとなった思想集団・墨家。
彼らはまた「兼愛」(自分のように他人を愛する。博愛に近い?)という思想を持っていた。

思ったよりも、精神世界に重きをおいた真面目な反戦映画だった。
戦後、日本は「非攻」を決めた。

中国でもあまりよく知られていない墨家について、日本人が小説にしたというのも面白いなと思う。

映画の見どころはふたつ。
戦いの圧倒的な迫力ある場面と革離の苦悩。

10万の趙軍に対し、梁城の全住民はわずか4000人。
梁王は怠惰で、戦意も失いがち。

そんなところへ、要請があればどこへでも無償で助っ人として出向く弱い者を守る思想集団、墨家の革離が単身、やってくる。
革離は守りに対しては知略に長けた軍師だ。

篭城という言葉、10万の兵の人海戦術に、見るものはワクワクする。
革離は兵士を強化し、城の守りを固め、作を練る。
一ヶ月、持ちこたえれば敵はあきらめるだろう。

本格的な戦闘場面は真の迫力があり、油の大壷、飛行船、水圧爆弾、奇想天外な陽動作戦に目をみはる。

革離はヒーローではない。
粗末な身なりで、見返りを期待せず、禅僧みたいである。

ただ、墨子の教えどおりに。
他の墨家たちは賛同しなかった粱城を、ひとりで守りにきただけなのだ。

彼は敵味方の死の苦悶を目の当たりにして苦悩する。

ちょっと疑問に思ったこと。革離はこれが初陣ではありませんよね?

自分のやっていることは間違っているのか?
多く殺したほうが勝ち。
だが、人が苦しみ、血を流し、死ぬことに変わりはないではないか。

逸悦の言葉:
あなたはいつも正解を求める。
この世に正解などない。
私は例え、間違いでもあなたのそばにいたい。。

原作にない逸悦の存在で、革離の人間らしさが垣間見える。

アンディ・ラウがヒーロー色を払拭して、禁欲僧のような革離を真摯に演じている。

墨家の思想にももちろん矛盾、弱点はある。

いつの時代も戦争とは不条理である。
不条理のなかで、非攻は貫けても、兼愛を示せるか。

それでも革離は愛をしめさんとする。
しかし、彼には思いもよらぬことが存在した。
人間の嫉妬と、虚栄心、権勢欲。

これが、命がけで守り抜いた粱国を疑心暗鬼の地獄と変えてしまう。

ここから結末に触れています。

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梁国は勝ち残ったが、これを勝ちというのかどうか、私にはわからない。
空しさが残る。

意地の塊となった趙軍を率いる巷淹中は革離の「これ以上、戦っても死人が増えるだけ。撤退を」の願いを聞き入れる。

満足の笑みを浮かべて、嫉妬と権勢欲の鬼、粱王の矢を受ける。
韓国の大俳優、アン・ソンギの懐の深さが素晴らしい。

アジアの頭脳と資金だけで、この映画ができたということは一映画ファンとして嬉しい。
黒澤監督の意見も聞きたいものである。

厳しい声が聞こえそうだが。。

*

*

◆題字は書道家でもあるアンディ・ラウの書。

◆「墨守」という言葉は現代も辞書に残っていて、墨家の存在が歴史上の事実であることを証明している。

《中国で、思想家の墨子が、宋の城を楚(そ)の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」公輸の故事から》自己の習慣や主張などを、かたく守って変えないこと


列車に乗った男 L' HOMME DU TRAIN

2007-02-04 07:22:34 | ヨーロッパ映画/イギリス・フランス (2

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監督:パトリス・ルコント
脚本:クロード・クロッツ
出演:ジャン・ロシュフォール(マネスキエ) 
    ジョニー・アリディー(ミラン) 
    ジャン=フランソワ・ステブナン(ルイジ)
2002年 フランス

その列車は、あなたを、叶わなかった人生の終着駅へと旅立たせてくれる。

>>列車に一人乗る寡黙な中年の男、ミラン。シーズン外れのリゾート地駅で降りた彼は、そこで初老の男マネスキエと出逢い、その男の暮らす古い屋敷へと招かれる。マネスキエのおしゃべりに少しうんざりしながらも、ミランはその静かな暮らしにどこか惹かれていた・・・。
生まれてこのかた街から出たことのない孤独なマネスキエもまた・・

久しぶりのフランス映画。
フランス語の響きはやはりいいなあと思う。
パトリス・ルコント監督と言えば私にとっては「官能」のイメージが強いのだけど、年齢的にこういうテーマの映画を撮るようになったのかなと思う。

元教師のマネスキエのとめどないおしゃべりは、どんなに彼が孤独かを表している。
ミランは人には言えない稼業の旅ガラス。

マネスキエはふと、自分とは違う人種のミランの様子に惹かれ、古い屋敷の一部屋を提供する。

4日間だけ、正反対の生き方をするふたりの男の人生が交差し、ふたりはもうひとつの果たせなかった人生について思いを巡らす。

ジャン・ロシュフォールと言えば『髪結いの亭主』の印象が強い。
この映画では少年のまま、老いてしまったかのような初老の男だ。

少し哀れで、愛嬌があってかわいくもある。

人生の傍観者でいたかった。。

映画を見ていて、ジョニー・アリディーが出てこないと思ったら、ミランが彼だった。

そう、髪を黒くしていたせいもあるけど、彼ももう中年(初老?)になっているのを忘れてた。。
当時のアイドル、シルビィ・バルタンと結婚!のニュースは結構電撃的だったが。
彼のその後は知らなかったから。

渋いアウトローが似合う俳優になっていた。

ミランは室内ばきに憧れていた。
マネスキエは自由で刺激的な外の世界に。

マネスキエ:「僕は刺繍以外の良家の子女の教養は備えているんだ」笑える。
ミランが降りた駅、フランスの小さなどこかの街が素敵。
寂れていて、でも、静かでこじんまり、可愛らしくて綺麗。

フランスに行くなら、パリよりもこんな小さな郊外の街がいい。

30年、通ったレストランで、マネスキエは勇気を振り絞って騒ぐ男たちに注意をするが、なんのことはない彼の教え子だった。

人生を変えるのは先になった。

時間が止まったような、美しい骨董品のような屋敷に住み、教師を勤め上げ、結婚するチャンスも逸した誠実なマネスキエ。

ミランは彼にもっと自信を持てと言う。

ふたりの心は急速に近づいていく。
互いのなかに老いた自分が見えるのだろう。
合わせ鏡。

マネスキエは心臓の手術を控えていた。
手術の朝、ミランはマネスキエの朝食を作った。

その日はミランにとっても人生の分岐点、重要な日だった。

ここから結末に触れています。
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こういうかたちの終わりになるとは想像しなかった。

観客はマネスキエがミランに家の鍵を渡すのを見る。

あれはふたりが末期に見ただったのか。

ミランのピアノを弾く嬉しそうな顔。
マネスキエは颯爽と列車に乗り込む。

私は思う。
ふたりは死んで、もうひとつの人生を生きるんだろう。

悲しくはない、不思議に穏やかなラストだった。