goo blog サービス終了のお知らせ 

あいりのCinema cafe

只今gooブログにお引っ越し(工事中)

イノセントワールド -天下無賊-

2007-06-16 05:49:52 | 中国映画 (19)

Image

英題 A world uithout thieves

監督・脚本 フォン・シャオガン
出演 アンディ・ラウ(ワン・ポー) レネ・リウ(ワン・リー )
    グォ・ヨウ(窃盗団の頭目フー・リー)
    リー・ビンビン(シャオイエ)ワン・バオチアン(シャーケン)

2004年、中国

汚れない世界で
永遠の愛を知った

戦いの中で運命が変わるのを、僕は気づいた。

現代の童話
「天下無賊」とはこの世に泥棒などいないという意味なんだって。

>>詐欺やスリで世間を渡り歩く恋人同士のワン・ポーとワン・リーだが、チベットの高原地帯で二人は仲たがいをし、怒ったワン・リーは車を降りてしまう。そこでワン・リーは、出稼ぎに来ている若者シャーケンと出会う。その後、彼女は列車の始発駅で、貯めた大金を持って故郷に帰ろうとするシャーケンに再会するが、そこへワン・ポーもやって来た。彼はシャーケンの金に狙いをつけるが、同じ列車には窃盗集団も乗り合わせていた…。

本作は2005年正月の中国公開では、同時期公開の『カンフーハッスル』をしのぐ大ヒットになったそうです。

久しぶりの香港映画?(実は中国映画)と、なにげに見に行ったのだけど、これが水準以上に面白くて。
1日1回きり上映、大した宣伝もなしなんて、勿体無い~。

そこいらの洋画も真っ青に面白かった。
平凡なラブストーリーと、勘違いしちゃ損というもの。

色彩やテンポいい話運びも、シーンの切り替えも新鮮なものがあって、洗練されている。
ヨーロッパのサスペンス映画を見ているような錯覚をおこしそう。笑

中国映画に新しい風を感じて、喜ぶべきだな。

チベットで、寺の彩色の修複の仕事をする青年は、大地にひれ付して仏に祈るワン・リー(レネ・リウ)を見て、目を奪われる。
青年の名はシャーケン。
このレネ・リウが美しい。

この時、青年の持つ筆から金色の絵の具がひとしずく、大地に落ちる。
これが、後に印象的な場面につながる演出が憎い。

チベットに出稼ぎに来ている、バカがつくくらいイノセントな天涯孤独な青年(意外に頑固)は稼いだ大金(全財産・結婚資金)を手元に持っていることを駅の雑踏のなかで、口にしてしまう。
列車に乗り合わせた狼たちの目が光る。

疾走する列車、閉鎖された空間で繰り広げられるスリのプロと窃盗団の攻防戦、意地の張り合い。
列車は轟然と大陸を走りに走り続ける。
ゲームからも、疾走する列車からも降りることはできない。

大陸縦断列車。ここはやはり、大陸。
列車内は人生の縮図。庶民の生活の熱気や匂いがこちらにもムンムン伝わってくる。

こういう人々のエネルギー溢れる生活感は中国、地元の監督だからこそ出せるんだろうな。

でも、列車の扉一枚隔てた向こうは別世界。
華やかな退廃の夜がひらけている。
悪人たちの技の競い合いはラテン系だったかな?軽快な曲に合わせて流れるよう。

○○○リでの闘いに目を奪われる。プロの手にかかったら、こんなものも強力な武器になる。

純朴青年は全く人を疑わず、だんだん、彼に肩入れしたくなってくる。
彼の人を信じる清い心を傷つけるな!!!
たとえ、それがバカげていようと。

せちがらいこの世の中に、こんな人がいたら貴重よ。
いかにも、大陸の奥地にいそうな純朴な青年シャーケン役をワン・バオチアンが自然に、リアルに演じている。

ワン・リーはある切ない願いから悪事から足を洗おうとし、青年を守ろうとする。
ポーはそのせいで、のっぴきならない事態へと巻き込まれていく。
あの人(リー)は信心深い人だ。
青年は直感を信じて疑わない。

孤児育ちの青年は仲間が故郷に帰る時もチベットに残って働いた。
狼たちを話し相手に。(ウルウル)

彼が狼と別れる凍てつく「蒼い」場面が幻想的でなんとも美しい。
車窓に流れる壮大な景色に熱い浪漫を感じる。
途中の夜の停車駅のたたずまいにも詩情をかきたてられる。

さて、この列車には強盗団逮捕のための警察組織も送り込まれていた。
こうして三つ巴の闘いは始まる。

大人たちの必死の努力で、純朴青年は大金があっちへいったり、こっちへいったりしているのも、何も知らない。
それは大人たちの心に残る”希望”や”良心”なのかもしれない。

さて青年の心(大金)は誰の手に!?

ここから結末に触れています。

*
*
*
*
*
*

リーは妊娠していた。

こうしてポーと古狸フー・リーの最後の一騎打ちが始まる。
リー「待ってるわ、置き去りにしないでね」

殺しにも手をそめたフー・リーは極悪なことでは一枚上手であった。

ポーは最後の力を振り絞って、青年シャーケンの元に金を返してやる。
青年に、生まれてくるであろう自分は目にすることのない子を重ねて・・
真っ当に育ってくれ・・・

何も知らずに眠りこけるシャーケンの頬に、ポツリと血のひとしずく。

携帯の画面。

リー、シャーケンは大丈夫。待っていてくれ・・の文字が悲しい。

アンディ・ラウと言えば、イメージは壮絶な死。
この世に未練を残して、自分に何が起こったのか信じられない、死が受け入れられない眼。
これ、お約束ですね~。
いつも思うのだけど、この人の首から肩への線が美しい。

雨の日、しゃれたレストランで、(ここ、どこ?北京かな。綺麗です)リーは警官にポーが逝ったことを聞かされる。
また、この警官がエエ人で。
彼女の目は涙で光って、むせびながらも、でも、食べものにむしゃぶりつくことを止めない。

生きて、生きて、ポーの子供を産む!
強い中国女性の意志が彼女の姿に見える。
泣けます。

閑話休題っていうかおまけ:

アンディ・ラウもお茶目なカツラを被って、どこにでもいそう?なスリに化けてる。(笑)
何やってもアンディとは言わせない!彼の心意気やね~。^^

このお話は童話なのだから。
ポーは死なせなくてもよかったんじゃないかなと思う。
それこそ、よくあるエンディングになってしまう。

死んだと見せかけて、得意の手品で生還なんてどうでしょう?
悲劇よりも、そのほうがセンスよくない?

あの、ひとりぼっちの青年を純粋培養しながら(笑)広々とした草原で、ポーたち親子もみんな一緒に暮らす幸せな姿を見たかった。

私はひとりそんな幻想を見る・・


墨攻

2007-02-06 15:43:41 | 中国映画 (19)

Img2_1170094459

監督: ジェイコブ・C・L・チャン
原作: 酒見賢一
出演: アンディ・ラウ(革離) アン・ソンギ(巷淹中)
     ワン・チーウェン(粱王) ファン・ビンビン(逸悦)
     ウー・チーロン(子団) 
2006年、中国=日本=香港=韓国

>>秦の始皇帝が中国全土を束ねる前の戦国時代。
趙と燕の国境にある粱城は、趙によって攻撃されようとしていた。10万の趙軍に対し、梁城の全住民はわずか4000人。頼みの綱は墨家の救援部隊だったが、間に合いそうもなく、粱王は降伏を決断する。墨家の革離(かくり)がたった1人で駆けつけたのは、その直後だった。

戦乱の世で「非攻」(侵略しない)を掲げ、しかし弱者を守るためには戦闘のプロとなった思想集団・墨家。
彼らはまた「兼愛」(自分のように他人を愛する。博愛に近い?)という思想を持っていた。

思ったよりも、精神世界に重きをおいた真面目な反戦映画だった。
戦後、日本は「非攻」を決めた。

中国でもあまりよく知られていない墨家について、日本人が小説にしたというのも面白いなと思う。

映画の見どころはふたつ。
戦いの圧倒的な迫力ある場面と革離の苦悩。

10万の趙軍に対し、梁城の全住民はわずか4000人。
梁王は怠惰で、戦意も失いがち。

そんなところへ、要請があればどこへでも無償で助っ人として出向く弱い者を守る思想集団、墨家の革離が単身、やってくる。
革離は守りに対しては知略に長けた軍師だ。

篭城という言葉、10万の兵の人海戦術に、見るものはワクワクする。
革離は兵士を強化し、城の守りを固め、作を練る。
一ヶ月、持ちこたえれば敵はあきらめるだろう。

本格的な戦闘場面は真の迫力があり、油の大壷、飛行船、水圧爆弾、奇想天外な陽動作戦に目をみはる。

革離はヒーローではない。
粗末な身なりで、見返りを期待せず、禅僧みたいである。

ただ、墨子の教えどおりに。
他の墨家たちは賛同しなかった粱城を、ひとりで守りにきただけなのだ。

彼は敵味方の死の苦悶を目の当たりにして苦悩する。

ちょっと疑問に思ったこと。革離はこれが初陣ではありませんよね?

自分のやっていることは間違っているのか?
多く殺したほうが勝ち。
だが、人が苦しみ、血を流し、死ぬことに変わりはないではないか。

逸悦の言葉:
あなたはいつも正解を求める。
この世に正解などない。
私は例え、間違いでもあなたのそばにいたい。。

原作にない逸悦の存在で、革離の人間らしさが垣間見える。

アンディ・ラウがヒーロー色を払拭して、禁欲僧のような革離を真摯に演じている。

墨家の思想にももちろん矛盾、弱点はある。

いつの時代も戦争とは不条理である。
不条理のなかで、非攻は貫けても、兼愛を示せるか。

それでも革離は愛をしめさんとする。
しかし、彼には思いもよらぬことが存在した。
人間の嫉妬と、虚栄心、権勢欲。

これが、命がけで守り抜いた粱国を疑心暗鬼の地獄と変えてしまう。

ここから結末に触れています。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

梁国は勝ち残ったが、これを勝ちというのかどうか、私にはわからない。
空しさが残る。

意地の塊となった趙軍を率いる巷淹中は革離の「これ以上、戦っても死人が増えるだけ。撤退を」の願いを聞き入れる。

満足の笑みを浮かべて、嫉妬と権勢欲の鬼、粱王の矢を受ける。
韓国の大俳優、アン・ソンギの懐の深さが素晴らしい。

アジアの頭脳と資金だけで、この映画ができたということは一映画ファンとして嬉しい。
黒澤監督の意見も聞きたいものである。

厳しい声が聞こえそうだが。。

*

*

◆題字は書道家でもあるアンディ・ラウの書。

◆「墨守」という言葉は現代も辞書に残っていて、墨家の存在が歴史上の事実であることを証明している。

《中国で、思想家の墨子が、宋の城を楚(そ)の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」公輸の故事から》自己の習慣や主張などを、かたく守って変えないこと


パープル・バタフライ 紫胡蝶

2006-12-07 18:07:37 | 中国映画 (19)

240_3200163

監督 脚本 ロー・イエ
出演 チャン・ツィイー(シンシア/ディン・ヒュイ) 
    リウ・イエ(スードゥー)
    仲村トオル(伊丹英彦)リー・ピンピン(イーリン) 
2003年/中国=フランス

神戸では公開されなかった、作品を今頃、見ました。

1931年、上海。
叶わない
愛の夢を見た。

時代に引き裂かれた、三角関係の、いや、四角関係の男女の悲劇の物語。

>>1928年、満州。
まだあどけない、女学生らしいシンシアは若い日本人の伊丹と恋仲だったが、時代は日中戦争の緊迫した状況にあった。
伊丹は兵役につくために帰国、実らぬ恋と諦めたシンシアは伊丹を駅の物陰から見送った。
その後、抗日組織の一員だった兄はシンシアの目の前で日本人に殺されてしまう。

自ら殺人者に復讐せんばかりのチャン・ツィイーの悲しみの演技に注目です。

3年、それは人を変えるに十分な歳月か。
シンシアはディン・ヒュイと名を変え、冷酷なテロ組織の女闘志となっていた。
素顔で、もつれたおさげ髪、浅黒い顔の女学生から一変、妖艶な顔まで見せるチャン・ツィイー。
あの、あどけなさの残る少女の面影は最早ない。涙

赤いルージュに煙草が似合うが。
しきりに煙草を吸う彼女は幸せそうには見えない。

リウ・イエはスパイの殺し合いに巻き込まれる哀れな男を悲しみ、恨み、怒り、狂気を表情で演技して素晴らしいです。

哀れなスードゥーは駅で、あわてて殺し屋の上着(胸に蝶の形のバッチの付いた)を間違えて着て降りてしまった。

チャン・ツィイーのこれまた熱演がなかったら、彼のひとり舞台だったでしょう。

イーリンを演じたリー・ピンピンは初めて見たけど、透明感があって、西洋人形のように美しい。
中国って、才能ある美しい女優さんがまだまだいるようです。

映画は台詞も説明もあまりありません。
意図された演出でしょう。
最初の何分かは無音で、デッキの故障かと思ってしまった。

伊丹が召集で帰国したのは見ている間は分かりませんでした。
一瞬の場面も多く、かなり集中の必要な映画です。
その代わり、映像がかもし出す雰囲気と俳優の表情は堪能できる。

仲村トオルの相変わらずの無表情は気になりますが。^^

ここから結末に触れています。

*******************************************************

見どころは抵抗運動とは何の関係もないイーリンが射殺される場面です。
シンシアが彼女を撃ったようにも見えたのですが。
誰の銃弾が中ったのかはわからない。
酷いです。

伊丹と再開したシンシア。
でも、お互い身分が変わってスパイ同士、疑心暗鬼です。

伊丹が任務は終ったから、一緒に日本に帰ろうと耳元で告げられるシンシアの顔。
自分に示された愛は真実だったのだ・・その嬉しさは涙となって頬をつたう。
チャン・ツィイーの表情の変化に胸を射ぬかれます。

でも、運命を狂わされたふたりには思いがけない悲劇が待ち受けていた。

最後に挿入される日本軍による、中国人大虐殺の実録場面は正視できなかった。

戦争は人を狂気に、
人間性を奪う。

シンシアの「何のために闘うの?」が哀れです。

パープルバタフライ・・それは抗日組織の名称で、バッジだったのだ。


芙蓉鎮 Hibiscss Town

2006-09-26 07:23:45 | 中国映画 (19)

Fuyoutin

監督:謝晋 シェ・チン
出演:劉暁慶 リュウ・シャオチン(胡玉音)
    姜文 チアン・ウェン(秦書田)
    鄭在石(谷燕山)徐松子(李国香)
    祝土彬(王秋赦)
1987年 中国
文化大革命の激動の時代。
庶民は偶然に権力を持った人間に虐げられ、それでも、明日に希望を持って、生きて、生きて、生き抜く。

>>文革の嵐が吹く1963年春。
湖南省の南端にある小さな町・芙蓉鎮では米豆腐を売る働き者で若い胡玉音(劉暁慶)の店は繁盛していた。
米豆腐は安くて美味しい。
お客の来そうにない国営食堂の女店主・李国香(徐松子)はこれをにがにがしく思っていた。

街きってのインテリでありながら右派の烙印を押され〈ウスノロ〉と呼ばれる秦書田も胡玉音が気になる様子。

李国香は底意地が悪く、胡玉音に嫉妬しているだけなのだ。

李国香は解放戦争を戦いぬいた米穀管理所の主任・谷燕山(鄭在石)に米の特配をたのむが、聞いてもらえず、胡玉音には米豆腐の原材料の屑米をまわしているのが気に入らない。
屑米は元々捨てるものなのに。

政治工作班長に昇格した李国香はこの時とばかり胡玉音を文革の敵、ブルジョア資本主義者と責め、ささやかな新築の家を取り上げた。
胡玉音の夫も殺されてしまった。

玉音は屑米を丁寧に挽いて、鍋の底に穴が開くほど働いてきた。誰かを搾取して得たお金ではない。

権力を持つ価値のない者が権力を持つことは恐ろしい。

積年の恨みか谷燕山まで弾劾する。
所長の身分も剥奪され、往来で、酔って荒れる谷燕山の声を聞き、秦書田は呟く。

「まだ、(彼の)心は死んでいない」

たとえ尊厳を傷つけられても、人間の心は簡単には死なない。感動します。

罪人扱いの胡玉音は秦書田と同じ道路掃除に身分を落とされる。
心の広い秦書田は失意の胡玉音の面倒をよくみた。

やがて、二人の心は通じ、二人っきりの結婚式に谷燕山がそっと祝いにくる。
もとはと言えば屑米のとばっちりが原因で谷燕山は失脚させられたのに。
互いに疑心暗鬼のなか、谷燕山は人間として立派だと思う。

けれど、結局、李国香の画策もあり、秦書田は10年の刑、胡玉音には3年の刑がいい渡される。

秦書田は子を宿した妻に言う。

「生きるんだ!豚のように生きるんだ!どんなことがあっても生きるんだ!」

はっと、目が覚める場面です。

秦書田はウスノロと呼ばれても、いつも飄々と腰を低くして逆らわず、決して自分を卑下せず、自分を見失わない。
結局、こういう人が生きる術に長け、強いのだと思う。

さて、以前、1994年製作の『生きる・活着』という映画をビデオで見ました。
『芙蓉鎮』はそれより7年前の1987年の製作です。
まだ、コン・リーはデビューせず、劉暁慶が人気のあった頃の映画だそうです。

どちらの映画も文化革命時の庶民の受難を描いています。

姜文は当時24歳。若くて身のこなしも軽くて綺麗です。
演技派です。ユーモラスでもあります。

ここから結末に触れています。

≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒≒

ひとりになった身重の胡玉音を街の人は人目をはばかりながらそっと助ける。
谷燕山も難産に苦しむ彼女を病院に運ぶ。

1979年、悪夢のような文革がようやく終わり、最早、中年の秦書田は赦され妻子の元に帰る。
途中、党の幹部になった李国香とすれ違い、彼女が結婚する(虚栄心からの嘘?)と聞く。

「庶民的なよい家庭を作ってください。庶民をいじめないで」

李国香の手先となり、庶民を苦しめた無教養の王(ワン)という男。
王は時代についていけずに気がふれ、裸足でドラを鳴らして歩く。
そんな王に秦書田は米豆腐を食べさせてやります。

これが人生というものでしょうか。皮肉です。


山の郵便配達 /那山 那人 那狗 (劇場)

2006-07-05 07:52:22 | 中国映画 (19)

Postmandd

英題:POSTMEN IN THE MOUNTAINS
監督:フォ・ジェンチイ
出演:トン・ルゥジュン/リィウ・イェ/ジャオ・シィウリ

       ゴォン・イエハン/チェン・ハオ/リ・チュンホア
1999年/中国

山の郵便配達、それは人の心を配達すること

心と心ををつなぐこと

那山 那人 那狗とはあの山、あの人、あの犬という意味です。

うさぎ追いしあの山~♪

1999年にこの映画を劇場で見ました。
改めて、息子役がリュウ・イエだったことに気づく。
まだ、少年の面影がある。

年月は映画の内容を忘れさせていたけれど、今回、この映画を見て、多くのことを感じた。
映画って心の成長?経験?によって感じ方も深くなるのかしら、そんなことを考えた。

1980年代の中国の山間部
棚田が並び、自然は美しすぎるくらいだけど、一日40キロを歩き、何日もかかる郵便配達など私には想像もつかず気が遠くなる思いがする。

父親はこの辛い仕事を息子にやらせることに迷いはないのだろうか。
私なら息子を不憫に思う。
仕事のキツさは誰よりも父親が一番知っているだろう。

でも、その仕事がどんなに大切か、次第に映画を見るものにも分かってくる。
盲目の老婆がずっと待ち続ける姿はやり切れないが、同時に美しい。

過酷な労働のせいか、父親は年齢よりもずっと年老いて見える。

心は足取りよりずっと重い。
でも、やがては仕事は喜びになる。
希望が人の心を豊かにする。

嬉しげに息子の背に負われて、
そして、息子の幼い日を思い出し、堪えきれずに父はそっと泣く。
胸がいっぱいになる彼の気持ちが伝わってくる。

仕事のため留守勝ちで、妻も息子にもさびしい思いをさせた。
でも、それは全て家族のためだった。家族の絆がそこにはある。

現代では大抵は父から子へと仕事、生きること、のバトンタッチをする場面はこうはっきりとは経験できないことが多い。
父親や息子はこの映画の意味を深くを感じるのではないかな。
私は母親の気持ちが理解できました。

なにも辛い仕事を選ばなくても。でも、それには父親の訳があるのですね。

やっと、父子の心が通じた瞬間。
父親の重荷(生きること)は息子へと肩代わりされたのだ。

なによりも彼には若さがある!

その肩代わりされたものは重いかもしれない。
この先、歩みは遅くても時代は変わるだろう。

配達も息子のやり方に変わっていくのだろう。
変わらなければ、彼はやり遂げられるだろうか、とふと思う。

息子の配達の旅にはラジオがお供なのが唯一、文化的で面白い。

山の娘とは結婚しない。
ずっと故郷を想いながら暮らすことになるから。母さんのように。。
辛いね。

息子の眠る傍らに添い寝した父の顔が至福の喜びに満ちる。
幸せ感に突き上げられるような素晴らしい場面だ。
それでも、生きることは美しいと思った。

ついに息子が一人で出かける日が来た。
父親の相棒だった犬(一人息子には兄弟にも等しい)をうながして息子と一緒に行かせる。
行け!息子を頼むぞ!

キラキラと輝くような希望が見えた。