『ファウスト』の第一部でゲーテは、道化師に次のような台詞を言わせている。
「こんな芝居を一つ出そうじゃありませんか。
なにしろ充実した人間生活に手を突っ込みなさい。
だれでもそれを経験していながら、ただ無意識なんです。
そいつを掴まえさえすれば、面白いものが出てきますよ。
雑然たる絵のなかにちょいとはっきりした所を入れ、
間違いだらけのなかに、一点真理の光を点じる。
そうすると最上のお酒が醸されて、
それが全世界の人を元気づけ、啓発するのです」[i]
次に、仕事=労苦、遊び=安楽といったステレオタイプ的な捉え方から出発する、私たちにとって自明のこととなっている日常生活とその中で経験している社会に少しスポットをあててみたい。現象学的社会学を構想したシュッツは、社会学の研究の対象者である行為者が日常生活の中で経験している社会を捉えようとした。シュッツが捉えようとした社会、私たちが日常生活で経験している社会とは、私たちが「今ここ」で経験している社会に他ならない。ところが、私たちが「今ここ」で経験している社会は、私たち自身にとってあまりにも当たり前のものであるために、かえって自分自身ではそれに気づかなくなっている。「今ここ」で常に当たり前のものとして経験されていながら、自分ではそれに気づいていない日常生活で経験するこの社会[ii]は、「社会的世界」であると言える。
日常生活に照準を合わせて人間とその世界に注目した山岸健は、平凡な日常生活―このありふれた言葉こそ社会学の出発点となる、[iii]と述べている。OLという立場の視点に立つとき、「平凡な日常生活」というのはきわめて重要な言葉である。OLといえば、一般事務、一般事務に携わるOLの毎日はきわめて平凡、何の変化もなく同じことの繰り返しでつまらない、といった一般的なイメージが付きまとうからだ。だが、「なんじ自身を知れ」という言葉がある。日常生活のいたるところで、私たちは、絶えず人間と向き合う。私たちは、日常的に私たち自身と対面するのである。[iv] 日常的な社会的世界においてこそ、私たちは存在する。先ず、私たちは個別の生活史を持っていることを、山岸の次のような記述から説明したい。
誰もが人びとのなかで生きている。誰もが人びととともに生きてきた。人それぞれの生活史と人生があった。<人間>と<世界>というそれぞれの言葉を切り離すことはできない。人びとはさまざまな仕方で社会生活を営んできたのである。誰にも<平凡な日常生活>があった。人生を旅していない人はいない。私たちはなによりも人生の旅人なのである。旅する人間homo viator(ガブリエル・マルセル)なのだ。私たちにとっては日常生活の場面、場面や光景が深い意味を持っているのである。一日というものを安易に考えるわけにはいかないのだ。平凡な日常生活trivial round of daily life をごくありふれた、つまらない、単調な生活と見ることはできないのである。見方によっては、一日、一日はたしかに似ている。ほとんど同じではないか、と言う人もいるだろうが、似ているようでも、一日、一日は異なっている。人々の顔がそれぞれ異なっているように。人それぞれの人生も似たようなものだ、といえばそれまでだが、私たちの人生も生活史も間違いなく個別的なのだ。ふたつとして同じ人生はない。ひとつ屋根の下で暮らしていても、生活史はそれぞれに異なっているのである。私たちはたがいに個人としてこの世に生まれ、つねに個人として人びとのなかで、人びととともに生きてきているが、社会生活や共同生活ほど誰にとっても日常的なものはない。人びとはたがいに交わりながら、声をかけ合いながら、手に手を取り合って、たがいに身を寄せ合うような状態で生きてきたのである。もちろん歩くのはこの私であり、水を飲むのもこの私、睡眠をとるのも私自身であって、さまざまな衣服や服装に自分の身を包むのはまさにこの私なのだから、私たちの誰もが自分の生を生きており、絶対的とも言うべき孤独のなかで生きていることを疑うことはできない。私たちは身体的には互いに切り離された状態で生きている。確かに個別的存在であり、個人なのだが、私たちの生活史をたどるならば、また、私たちの日常生活の場面と光景に目をむけるときには、人びとの生活が人びとのなかで営まれてきたことに誰もが気づくだろう。自明な事実だろうが、こうした日常的な事柄に注目しないわけにはいかないのである。私たちは社会生活を営んでいる。たがいに向き合いながら日常生活を営んできたのである。そこにいる人びとにほとんど気づかないこともあっただろうし、たがいに無関心、無頓着といった状態で時を過ごすこともある。私たちはまわりにいる人びとを注視しつづけているわけではない。隣り合っているのに、声をかけないことは日常的だ。電車のなかでの私、街頭での私たち。人と人との接し方、コンタクトはまことに多様だ。見知らぬ人に声をかけることもあるが、日常的とはいえないだろう。窓口や店先でのさまざまなやりとりはあるが、そうしたやりとりやコンタクトは身近な人びととの食卓を囲んでの交わりやコンタクトとは異なっているのである。互いに背を向け合っているように見える人びともいる。人々はいつも手をさしのべ合っているわけでもなさそうだ。だが、人と人との交わり、コンタクト、他者に対するさまざまな働きかけ、社会的行為、社会的行動ぬきで私たちの日常生活を語ることも理解することもできないのである。人それぞれの日常生活はそれぞれに<社会的>なのだ。[v]
山岸は、「人間とその世界」に注目した。個別的存在である私たちは、同時に社会的存在でもあるのだ。他者の存在抜きに自己の存在証明はできない。人間には、他者性と社会性、孤立性と社会性が認められるのだ。[vi] 山岸の次のような記述を引用したい。
日常生活に照準を合わせる場合、人間とその世界という地平に注目したいと思う。生活の日常性とは何か?人間と社会の関連性は、どのようなものであろうか?社会とは何か?日常生活の世界は、社会的文化的世界である。また、日常生活の世界は、時間的空間的世界に他ならない。人間に眼を向けるということは、時間と空間に注目することだ。生活する人間とは、意識する人間、行動する人間であり、他者たちのおのれをかかわらせてゆく人間でもあるといえるだろう。存在するということは、いわば生活するということだ。生活とは、他者たちのなかでの自己の存在証明なのである。足場を築くという態度で人間とその世界に眼を向けてゆきたいと思う。その世界とは、「社会的世界」である。社会的世界とは、私たちがそこに生まれ、そこで日常的に互いに行為し合うような時間的空間的世界であり、私たちに共通に与えられている世界にほかならない。こうした世界においては、様々な集団が存在しており、また各種の制度が見られる。この世界は、意味・価値・規範によってコントロールされている。[vii] 山岸は日常生活における他者と自分という軸を強調する。引き続き、山岸の記述に沿って、日常生活を次のようにまとめてみたい。
日常生活とはなにか、という問いに答えることは、決して容易ではない。習慣づけられた手順・慣例・行動のパターン化、あるいは時間及び空間との恒常化された秩序づけられた対応にも、日常性を見ることができる。先の山岸の記述にもあったように、私たちは、毎日を同じように生きるわけではなく、一日一日を新たに生きるのである。この私によって生きられた時間・空間は、私の社会的経験として蓄積され、私自身の生活史に組み込まれてゆく。私たちは、時間と空間から逃れることはできない。私たちの生活の舞台である日常的世界は、私たちに共通に与えられた時間的空間的世界である。私たちは、己を中心として、私たちの回りにある様々なものを私との位置関係において捉えることができる。それぞれ異なる地点に位置づけられている他者との対応を通じて、私たちは社会を意識したり、経験したりする。やがて共通に与えられた時間的空間的世界を独自の社会として捉える。社会はそれぞれの人々の意識の世界に位置づけられた主観的リアリティとしても存在するようになるのである。他者とのコミュニケーションを通じて私たちのselfは形作られる。selfを形作るためには他者の存在が必要なのである。私たちは、他者が存在する日常的世界に身を乗り出しながら生きている。日常生活は、私たちが他者と協力しながら、人間の世界を構築し、さらに私たち自身の自己実現を図るためにフィールドに他ならない。[viii] 日常生活の中で私たちはかけがえのない一人の人間として生きる。日常生活は共同生活の中での位置確認の活動だといえる。「ひと」とは日常性の主体であり、誰ででもあると共に誰ででもないような人物だといったのは、ハイデッガーである。私たちは、日常生活において行動の主体であるのだ。行動的主体としての私たちは、日常生活において常に私たち自身と対面する。日常生活は、私たちの自己形成の場なのだ。多様なスタイルで社会的世界と関係づけながら、特定の他者との関係において私たちは日常生活の中でselfを形成してゆく。
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引用文献
[i] ゲーテ著、相良守峯訳『ファウスト』(第一部)、18-19頁、岩波文庫、1958年。
[ii] 浜日出夫「社会学理論と“知の反省”」『三色旗 2000年1月号』慶応義塾大学出版会。
[iii] 山岸健編著『日常生活と社会理論』序章、「顔と手」、慶応通信、昭和62年。
[iv] 山岸健『日常生活の社会学』2頁、日本放送出版協会、1978年。
[v] 山岸健編著『日常生活の舞台と光景[社会学の視点]』5-6頁、聖文社、1990年。
[vi] 山岸、『日常生活の社会学』、95頁。
[vii] 山岸、『日常生活の社会学』、2-3頁。
[viii] 山岸、『日常生活の社会学』、59-165頁。