たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

大草原の小さな家への旅_ミネソタ州ウォルナット・グローヴ_芝土の家

2019年03月05日 19時41分42秒 | 「大草原の小さな家」への旅
思いつめ過ぎてもいけないので気分転換に旅の思い出し日記。

芝土の家、ちゃんとした家は夏涼しく冬あったかく、日本の土壁の家に似ていると思いました。暮らしたいとは思いませんが家具類がちゃんとそろっていれば普通に暮らせなくはないかなと・・・。

「大草原の小さな家」を原書で読むセミナーで松本侑子先生からいただいたハードコピーからの引用です。


「シリーズの第一巻は『大きな森の小さな家』。ウィスコンシン州ぺピンの深い森に生まれ育った5歳のローラの目を通して、インガルス家の春夏秋冬が生き生きと描かれていました。

 ローラが六つになると、父さんは西部への移住を決意します。それが、第2巻『大草原の小さな家』の始まりです。大きな森には開拓者が増えたため、父さんは野生動物のいる未開の沃野を求めたのです。

 移住には、もう一つ、理由がありました。リンカーン大統領が、1862年に定めた法律です。開拓者が西部の広大な土地を開墾して、5年間定住すると、自分の農地になったのです。

 一家は幌馬車に全財産をつんでぺピンを発ち、冬の凍ったピシシッピ河を渡りました。アメリカ北部から南のメキシコ湾へ流れる、全長6000Kmをこえる大河です。

 19世紀の当時は、今のような橋はありません。氷におおわれた川面を、馬車で渡ります。もし氷が割れたら、深い川底へ・・・。

 一家は、無事にわたり終えます。東部のウィスコンシン州から、河をこえて、西部に入ったのです。

 幌馬車は、果てしない大草原を、一日に30Kmずつ進み、ついに1000Km、南にあるカンザス州インディペンデンスに着きました。

 父さんは、川ぞいの木を切り倒し、丸太の家を建てます。平原を耕して麦と野菜を育て、豊かな実りの季節を迎えます。ところが政府はこの一帯を、ネイティブ・インディアンの居住区としていたのです。収穫の直前、一家は、開墾した大草原の小さな家と農地を後にします。

もともと北米には、多くの部族のインディアンが住んでいました。しかし白人の入植者によって辺境へ追いやられ、さらに政府が一定の居住区に閉じこめた、という背景があります。

 大草原を去った一家は、北へ戻り、ミネソタ州ウォルナット・グローブ(クルミの森)に近い開墾地に、落ち着きます。ここはTVドラマの舞台となった有名な町です。

 一家の住まいは、プラム・クリークという川の土手を掘った横穴でした。屋根と表の壁は、芝土です。

 芝土とは、芝の根がからんだ土を、煉瓦のように四角く切り出したもので、積み上げて家を作ります。壁の厚みは60㎝もあり、冬も暖かかったのです。

 森のない開墾地では、まずは土手の横穴や、芝土の家に暮らし、畑作がうまくいって現金収入が見込めるようになってから、木材を買い、家を建てたのです。

 7歳になったローラは、ウォルナット・グローブの学校に通い、学ぶ楽しさを知ります。

 父さんの畑では、小麦が青々と育っていました。豊作を見込んで材木を買って家を新築し、母さんには料理用ストーブも贈りました。ところがイナゴの大軍が押し寄せ、麦を食べ尽くしたのです。


 無一文になり、借金を抱えた父さんは言います。「絶対にへこたれないぞ。必ずなんとかする。どんなことをしても、やり抜くぞ」

 父さんは遠くへ出稼ぎに行きます。ローラは、母さんを助けて、留守の農場を守り、少しずつ成長していきます。

 どんなこんなにもへこたれず、前をむいて歩いていく。アメリカを開拓した農民たちの強さ、明るさに、感動の涙と勇気がわきあがる物語です。」














 2013年の旅でした。かなり無理しましたがこの機会を逃したら旅することはできなかったので行ってよかったと思います。日本とは比較にならないほど広く、今は車社会のアメリカ。こんな幌馬車に家財道具一式と命を乗せて旅を広大な土地を旅したのかとびっくりの幌馬車の写真は過去の記事に載せています。よかったらのぞいてください。

 荷物を軽くしてまた飛び立ちたい・・・。

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