たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポートー社会学史Ⅱ

2023年09月30日 12時36分28秒 | 日記

課題-
 コミュニティ・ライフと近隣関係について述べよ。

 コミュニティからイメージされるのは、大地に根をおろした人間の生活の空間的広がりである。1) コミュニティを共同生活のエリアとして理解したのはマッキーヴァーであり、それはアソシエーションに対立する集団類型の概念として、関心という独自の概念から説明されている。コミュニティの第一の要件としてマッキーヴァーは地域性を考えた。それはコミュニティを「村とか町あるいは地方や国とかもっと広い範囲の共同生活のいずれかの領域を指す」2)と規定していることでわかる。しかし、それだけではコミュニティは形成されていない。人と人との関係が地域性を媒介することによって共同関心が生まれ、コミュニティの形成をもたらすのである。マッキーヴァーは、全ての社会関係は心的諸関係であり、心の関係であると考えた。相互に結合しようとする人々の意志を通してのみ、社会関係は社会的現実として存在する。その源泉は、”関心”である。動機がなければ心的諸関係は成立しない。関心をもつ故に人々は互いに意志して関係を取り結ぶのである。その時コミュニティは創り出される。関心は人々の意志として表現され、共同生活の中でのみ実現できる。コミュニティは関心を実現するために存在するのである。こうした人々の意志たる関心に基づいた社会関係が存在するところに社会は成立する。社会の基礎は、人々の心が常に創り出す特有のタイプの関係や相互行為にある。私たちは社会関係の中に生まれ、社会関係の中で成長していく。「人はすべて互いに取り結ぶ社会関係のために、ひとつの統一体に結合される」3)のであり、コミュニティは精神的統一体である、とマッキーヴァーは言っている。しかし、それは一つの巨大な心ではない。あくまでもコミュニティは複数の心の連合であり、相互に関係し合う人々の心の活動によって創られるのである。

 これに対してアソシエーションは、コミュニティの内部において特定の目的を達成するためにつくられた集団であり、特殊な機能のみが満たされる。アソシエーションはコミュニティの下位集団に位置づけられる。コミュニティはどの最大のアソシエーションよりも広く自由なものであり、アソシエーションでは完全に充足されないもっと重大な共同生活なのである。私たちのアイデンティティの形成に関わる基本的な部分は、各成員が明確な目的をもって接触する部分的なアソシエーションではなく、人間の本質に根ざした統合的なコミュニティにおいて養われる。

 彼のコミュニティ論において重要なのは、個人と社会は対立するものではない、ということである。「コミュニティは多数の生命と意識の中心から成るのであり、団体的統一のなかに埋没することなく、団体目的のために自己の目的が見失われることもない、真に自律的個々人から成っている」4)のであり、社会関係は個別性と社会性の両面を同時に持ち合わせる私たち人間の個々人のパーソナリティの発現なのである。したがって、社会関係を包含する社会は私たちのパーソナリティの内に在るものであり、社会は相互関係によってパーソナリティを形成していく個々人なのである。

 個人と社会との関係について、さらにマッキーヴァーはコミュニティの質はその成員である個人の質に委ねられている、と言っている。彼が考えるコミュニティの発達の過程は、共同生活がより完全に実現されるようコミュニティの諸機構が整合される過程のことであり、整合は成員である個人の発達によって測定される。コミュニティを創る個人の発達がコミュニティの発達であり、したがって、個人の発達こそが社会機構の発達を評価する基準となる。その個々人のパーソナリティの発達は、マッキーヴァーによれば社会性と個性の二重の発達を示す。彼のいう”社会化”とは、私たちが当然のように考えている既存の社会の価値や観念、慣例をパーソナリティの中に取り入れ社会環境に適応していくことではなく、「人間があらゆる潜在能力を発揮するに足るだけの深みと、広がりのあるコミュニティの目的に完全に一致させることを意味する。」5) そうした社会化が進めば、私たちの社会的関係はより複雑かつ広範囲になり、一段と仲間との関係は発達する。そこに個性も同一歩調で発達する。彼のいう”個性化”とは、真に自律的個人であるということである。「より自立的存在に、すなわち固有の価値や真価があるものとして承認し承認される。自己指導的で、自己決定的な、一段と独自なパーソナリティになることを意味」5)し、社会化することによって個性化はより深まる。したがって、「社会化と個性は、社会化と個性化の過程に対応する性質をもっているので、社会化と個性化は同一歩調で発達する。」5) 自己決定能力・主導性・責任感を伴った個性のみが細やで深みのある社会関係を創り出し維持することができるのである。私たちは、個性の発達のためには社会を必要とするのであり、個性と社会性は相互依存的に発達する。コミュニティにおいて共同生活を営む力は、個々人の個性と社会性によるものであり、私たちのパーソナリティは個性と社会性が相まって決定する。真の社会は個性の発達をもたらし、真に自律的な個性は、自己の天賦の能力を発揮する機会を社会に求め、社会の中で自己実現の機会を見出す。自律性は、社会においてこそ意味をもつものであり、社会的諸関係を抜きにした自己実現は無意味である。

 しかし、現代社会においてマッキーヴァーがコミュニティの要件とした地域性が共同関係を生み出す度合いは減少し、コミュニティの自然発生的な基盤は失われつつある。人々が強力する必要性がなくなったからである。現代社会の大きな特徴として分業による合理化・機械化・自動化が挙げられる。とりわけ、彼がコミュニティとして理解した都市には現代社会の特徴が顕著にみられる。人口の集中により見知らぬ者同士が近接して住む都市では地域的近接が生み出す相互行為と共同関心は減少している。近接に対する心配り・相互理解・相互援助・日々の人々の触れあいなどが希薄になっているのである。都市においては、かつて人々が共同で解決してきた生活上の共同問題が行政ないしは公共のサービスに委ねられている。また、特に近年は外食産業、ブライダル産業などの発達によって専門的サービスも受けられるようになり、近隣の相互扶助がなくとも冠婚葬祭を行うことができる。

 このように都市では密着した人間関係を結ばなくとも、生きていくのに必要な物質的な部分は満たされるのである。にもかかわらず、ゲマインシャフトを求める私たちにコミュニティは必要である。その根底には私たち人間は社会的動物であるという考え方がある。私たちのselfは他者とのコミュニケーションを通じて形成されていく。selfがあってコミュニケーションがあるわけではない。他者のまなざし・態度・モノの見方などが個人に内在化されて、個人のアイデンティティはつくられるのである。人間は社会の内に存在する。が、同時に社会は人間の内に存在する。社会が人間の内にあるということは、役割や言語・知識、それに照準集団など、社会的に与えられているものを、他者との交流を通じて経験し、やがてそれらを独自のものとして捉え、私たちの思考や行動を枠づけたり、方向づけたりするのだと理解することができる。社会は個人に内在化されていくのである。私たちは生まれた時から何らかの集団に属し、同時にいくつかの集団のメンバーとして、様々な役割を果たしながら生きている。集団の中で社会性と孤立性をコントロールしながら、主体性を維持すると共に、他者との相互査証を通じて、アイデンティティを創っていこうとする。個人と個人は別個であるものの、様々な関係を取り結びながら声をかけ合ったり、手を差しのべあったりしながら生きている。個別的社会的存在である私たちは、自己の位置確認と存在証明のためには他者の存在が必要なのである。日常の生活世界のレベルから社会を捉えようとする現象学的社会学の立場からは「私たちが社会を経験することはまず第一に、日常生活において、他者たちを経験することである」6)と言っている。シュッツによれば日常の生活世界は次のようである。「私の活動する諸行為によって、私は、外的世界とかみ合うのであり、私は、外的世界に変化を与えるのである。私の活動によってひきおこされたものではあるけれども、これらの諸変化は、私自身と他者たちによって、ともに、そのうちにおいてそれらが生じたところの私の活動する諸行為とは独立し、この世界のうちで発生したものとして経験されうるし、また検証される。私は、この世界とその諸対象を、他者たちと分かち合っている。つまり、他者たちと私は、諸目的および諸手段を共有しているのである。(略) 私は、多様な社会的行為と諸関係のうちにおいて、他者たちとともに活動する。」こうした他者との関係性において自己実現が試みられる日常生活は、コミュニティで営まれる。私たち人間は、その本質と存在性においてコミュニティに関わっているのである。そして、マッキーヴァーが言っているように、私たちの自己実現は社会においてこそ有意味なのである。

 今日、とりわけ都市では、人々の固有な性格が見失われやすい。フロムは、現代に生きる人間を「自ら意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形」7)と言っている。人間の存在の断片化・抽象化・自己喪失は、家族をコミュニティとして理解することが困難になってきていることとも相俟って現代社会の大きな問題の一つである。現代において、日常生活の舞台であるコミュニティにおける人間関係を見直すことは、人間の存在そのものをみつめ直すという意味において、重要な意義をもつものではないだろうか。

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=参考文献=

山岸健『社会的世界の探究-社会学の視野』(慶応通信出版会)

山岸健『社会学の文脈と位相-人間・生活・都市・芸術・服装・身体』(慶応通信出版会)

山岸健『日常生活の社会学』(NHKブックス)

山岸健『人間的世界と空間の諸様相』(文教書院)

山岸美穂・山岸健『音の風景とは何か』(NHKブックス)

R・M・マッキーヴァー著・中久郎/松本通晴監訳『コミュニティ』(ミネルヴァ書房)

船津衛編著『現代社会論の展開』(北樹出版)

富永健一『社会学原理』(岩波書店)


平成12年に書いたレポート、評価はB。
講師評は、「近隣関係について、もう少しつっこんで議論ができればよかったと思います。」でした。

遠い記憶の彼方ですが、最初に提出したものは不合格となり、再提出したレポートようです。











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