課題:明治から現在に至る日本の学校教育・スポーツについて述べなさい。
明治初期、学制の公布により、体育は「体操」という名称で、学校の授業にとり入れられる。しかし、当初は指導者や施設の欠如もあって、計画的に体育の授業が実施される状態ではなかった。身体は人間生活の一部として自然に発育してゆくものであり、手を加える必要はないということから、知育偏重主義の教育となり、体育の価値はなおざりにされていたのである。アメリカ人によって紹介された普通体操に、多少の修正を加えたのみで行われていた。
明治19年、小学校から大学までの学校制度が、統一された。体育の授業においては、兵式体操をとり入れて、普通体操とともに主教材として制度化され、展開されることとなった。
しかし、明治終期になると、スェーデン系体操を導入しようという動きが生じて、学校体育が再検討された。その結果、大正2年に、わが国はじめての「学校体操教授要目」が公布された。これによって、体育は、普通体操にかわって採用されたスェーデン体操と、教練として整理された兵式体操の、二本立てで行われることになった。遊戯・武道などの教材も指導されることになっていたが、あくまでも副次的なものであった。
第一次大戦後、わが国は次第に全体主義的となり、体育においても、軍国主義化が強化されていった。国家主義・民族主義的体育が盛んになり、大正14年に「陸軍現役将校学校配属令」が公布された。これは、中等学校以上の学校に現役将校が配属されるもので、体育の面は多分に割かれることとなった。大正14年の「教練教授要目」や大正15年の「青年訓練所令」なども、体育が重大な変革を来たさざるをえなくなったことを示している。「体操教授要目」の第一次改正が大正15年に行なわれ、教材の領域は、体操・教練・遊戯および競技・剣道および柔道となって拡大された。さらに、昭和11年の第二次改正で、教材はさらに拡大され、指導方法の近代化がすすめられた。
わが国の体育の軍事化は、昭和17年以後の「体錬科教授要目」の制定、つまり「体操科」から「体錬科」へと改められたことにより、最終段階を迎えることになった。国民学校の体錬科は体操と武道、中等学校以上は教練・体操・武道の三科となり、軍事色の強いものであった。
わが国の近代スポーツは、明治10年に野球、32年にラグビー、36年頃にサッカー、39年にホッケーというように、在留外国人や帰国留学生によって紹介された。中期には高等教育機関のなかで運動会や体育会が組織化され、学内・対校競技会が華やかに開催されるようになった。明治45年のオリンピックへの初参加、大正6年の極東大会の日本開催は、国民のスポーツに対する関心を高めた。大正3年にバレーボール、バスケットボールが本格的に紹介されるなど、大正時代は各種スポーツが急速に普及発達していった。
昭和時代に入ると、高等教育機関の課外活動としてのスポーツが盛んとなった。そして、一部の愛好者に独占されがちとなったスポーツは、第二次大戦まで学生中心であった。わが国では、スポーツが地域社会に根をおろすことができなかったのである。
体育の軍事化とともに、課外活動としてのスポーツも外国名のスポーツは日本名に変えられ、その実施に軍の干渉をうけた。そして日中戦争から太平洋戦争へと全体主義・軍国主義化が進むなかで、学校体育・スポーツは国家総動員体制のもとで、国家に強く統制された。昭和18年以後は、戦争の末期的状況のなかでしだいに消滅していった。
戦後、学校体育は遊戯・スポーツが教材の中心となり、戦前まで重視されていた徒手体操・器械体操は、指導内容の一部として取り扱われることとなった。
スポーツは、年を追って復活し、オリンピックの開催国になるなど、対外的にも国際復帰している。
しかし、学校における課外活動としてのスポーツの種目は増えているが参加者は減少している。また、これまでみたきたように、わが国の体育・スポーツは学校を中心に行われてきた。社会人では、スポーツをみる関心は増えたが自分でやることはあまりない。今後は社会全般に、体育・スポーツを振興する必要がある。
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昭和61年に書いたレポート、評価はA、
講師評は「良好な内容です」でした。