たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

【令和6年能登半島地震】孤立地域への物資輸送(自衛隊/中部方面隊/災害派遣)

2024年01月08日 19時22分41秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年1月8日陸上自衛隊中部方面隊チェンネル、

【令和6年能登半島地震】孤立地域への物資輸送(自衛隊/中部方面隊/災害派遣) (youtube.com)

「令和6年能登半島地震 

災害派遣活動を実施中です。

孤立地域へ、徒歩で物資を輸送しております。」

 

 救援活動に従事している方々は命がけでがんばってくれています。感謝しかありません。

 こんな時に外務大臣がウクライナへいってぽんと53億円プレゼントするこの国の指揮官たち、どうなっているのでしょうか。ウクライナへのプレゼントはすでに一兆円をこえているそうですが、お金の使い方がおかしすぎませんか。

 

2024年1月8日朝日新聞、

「初動を甘く見た」首相批判も 能登地震1週間、被害の全容つかめず [能登半島地震]:朝日新聞デジタル (asahi.com)

「8日に発生から1週間を迎える能登半島地震は、いまだに被害の全容が見えない。安否不明の人は約200人に上り、物資を届けるのが難しい孤立集落も多数残る。政府と自治体が手探りの対応を続ける中、浮かび上がった課題とは――。

 能登半島では、新たな被害が刻々と明らかになっている。岸田文雄首相は7日午前放送のNHKの番組で、厳しい表情で語った。「大きな地震が断続的に続き、大きな道路のみならず、中山間地にある中小の道路も次々と寸断されていく。物資の搬入一つとっても、大変困難な状況が続いている」

地震発生直後の1日夕、首相は官邸幹部らに「これはひどい災害になるんじゃないか」と語っていた。だが、道路や通信インフラが破壊され、状況はなかなか分からなかった。日没直前というタイミングに加え、集落が点在する半島という地理的な特性が障壁になり、被害の深刻さの一端が見えてきたのは、同日午後10時を回ってからだ。

「住宅の倒壊が多数あり、道路も寸断され重機も入らない。金沢市からの輸送も無理だ」「過去にない広範囲の被災だ。電気・水も止まっている。携帯電話もつながらない」

 石川県の輪島、珠洲両市長から電話で聞き取った首相は、初会合を開いたばかりだった特定災害対策本部を一転、非常災害対策本部に格上げするように指示し、自らが本部長に就いた。官邸幹部は「初めは被害の程度がわからず、役所も非常災害対策本部にする段階ではないと言っていた」と話す。」

 


寒い避難所で感染対策の換気は本当に必要なのか?

2024年01月08日 15時54分52秒 | 気になるニュースあれこれ

(2) Xユーザーの森田洋之@コミュニティードクター/医療経済ジャーナリスト/「医療」から暮らしを守る医師/音楽家さん: 「「寒い避難所で感染対策の換気は本当に必要なのか?」 について24分間お話しました。 専門家でさえ意外と忘れがちな免疫学の基本からお話していますので、ぜひお時間のあるときに聞いてみてください。 https://t.co/DudN9rvQ1v」 / X (twitter.com)

「「寒い避難所で感染対策の換気は本当に必要なのか?」 について24分間お話しました。 専門家でさえ意外と忘れがちな免疫学の基本からお話していますので、ぜひお時間のあるときに聞いてみてください。」

 

2024年1月8日中日新聞、

【能登半島地震】輪島市「低体温症で死亡」の説明を訂正 死因確認できない:北陸中日新聞Web (chunichi.co.jp)

「石川県輪島市は8日午前、市内の避難所に避難していた被災者が低体温症で1人が死亡したとの発表について、死因が低体温症か確認できていないと訂正した。坂口茂市長が7日の記者会見で明らかにしていたが、市が説明を改めた。
 市の担当者は「(死亡者が)冷たかったとの情報があり、その中で低体温症で亡くなったという(市長の)発言になった」と説明した。死因については「医師の判断が確認できていない」としている。」

 
2024年1月7日中日劇場、
 
 
「石川県輪島市の坂口茂市長は7日、能登半島地震で、市内の避難所に避難していた被災者1人が死亡していたと明らかにした。
 
 避難所で9人がノロウイルス、新型コロナウイルスに2人が感染したことも発表した。それぞれ同じ避難所にいた。病院で手当てを受けた後、隔離したという。」
 

 


「甘え」を考える①

2024年01月08日 10時46分40秒 | グリーフケア

「甘え(amae」について

(乳幼児精神保健学会誌Vol.23 2010年3月号より)

「1.何故、「甘え」なのか?

 2008年、土居健郎先生は世界乳幼児精神保健学会のReneSpitz賞を受けた。このことは何を意味するのか。土居先生が実際に従事した「心」の臨床は主に成人を対象としたものである。元来、大人の臨床から生じた「甘え」理論が小児の現場に何処まで役に立つか。正直のところ、私は懐疑的であった。実際に「甘え」概念を不用意に実践に持ち込むと良い結果をもたらさない。甘えという言葉はプレグナントなだけに先入観に満ちている。甘えに内在する困難に気づくには長く厳しい自己分析を要する。それこそが土居先生が行ったことだった。

 先日、佐賀で行われた子供の「甘え」に関する研究会にお招きいただき、子供の現場で働く方たちと接する機会を得た。実践で甘えについて苦労されている姿を、私は目の当たりにした。そして土居先生の「甘え」理論について私の知るところを伝える義務が私にはあるのかも知れないと初めて感じた。

 その研究会では幾つか印象に残るケース報告があった。残念ながら詳細なメモを残していないので覚束ない記憶で紹介することにする。それは他の子供たちとの関係に問題を抱えた幼稚園児に関する報告であった。実際に母は十分、子供を抱いてあげることができない。しかし、ここで担当の先生が着眼したエピソードが興味深かった。

  その幼稚園では園児が持ってくるお弁当には大抵は竹で作った仕切りがある。それが母の細やかな愛情であった。しかし、他の子の仕切りはプラスティックなのに、この子の仕切りだけは本物の竹だった。この子の母は母子関係に問題を持ちながらも他の母よりも繊細な気遣いを見せていたのである。繊細で、しかもやさしい観察であった。この先生ならば母との信頼関係を気づけるであろう。私はそう思った。

 この短いエピソードには、「やさしさ」と「繊細さ」、「信頼」といった甘えの中核問題が総て含まれている。この小論を読み終えた時、読者はこの点を理解してくれると期待する。

 

2.子供と甘え

1)甘えの自明性が失われた時代

 子供は甘えるもの。これは何時の時代も、誰でもが知っている自明な真実である。子供と大人の関係は自然な甘えで結ばれている。その中で子供はおのずと成長して社会に巣立つ。そのように親たちが信じている間は、大人たちは子供の甘えを前にして揺らぐことはなかった。その社会は子供の甘えを受け止める力を持っていた。

 ところが近年、大人たち、つまり、子供を受け止めるべき大人たちが甘えに対する確かな感性を失いつつある。家族制度の崩壊という社会現象のなかで、社会が子供の甘えを受け止める能力を失いつつある。甘えの属性である「やさしさ」、「あたたかさ」、「懐かしさ」、「思いやり」が社会から失われつつある。土居先生流にいえば、甘えの自明性が社会から失われたのである。そして子供に直接、接する大人たちが子供の甘えに、どう接して良いか分からなくなった。

2)大人の甘え、子供の甘え

 元来、土居先生の業績は大人の神経症の治療から始まった、遠い昔に甘えなどは卒業したと思っている大人の心の裏に、本人さえ気付くことなく甘えの真理が隠されている。「甘えたくとも甘えられない」という心的葛藤が存在する。ただし、それを患者自身は気付いてはいない。むしろ、本人は「甘えてなんかいない」と思いこんでいる。甘えと恥は一体なのだ。本人が甘えに気づいていないのであるから、治療者との話し合いで内なる甘えに気付くことが大事となる。つまり、自己洞察が重要な治療的契機となる。「私は甘えていた。」治療して初めてそう語り得る。

 しかし、同じ甘えでも乳幼児では事情は異なる。子供が甘えることが自然なのは誰でもしている。「甘えられない子」、「甘える子」。形は異なっても子供は甘える。多彩な甘えをどう理解したらよいか。問は子供からではなくて、子供の甘えを受け止める立場に居る大人から生ずる。子供を抱きしめたらよいのか。厳しく躾けたらよいか。どのようにしたら甘えてくれるのか。そこから問は広がっていく。

 そもそも甘えとは何か。やさしく抱きとめるべきか、厳しく仕付けるべきか。生じる問は膨大な育児書の遍歴そのままである。甘えの禁止と受容の繰り返しである。受容と禁止のどちらが正しいのか。実は、答は別のところにある。甘えそのものが受容と禁止の両価性から成り立っている。それが土居先生の「甘え」理論である。つまり、子供の甘えについては、彼らと関わる大人の側の先入観こそが問われるのである。子供と接する大人が、どこまで自分の内にある甘えを洞察しているか。それが問われるのである。

 このために改めて土居先生の「甘え」理論が注目され、先生に学んだ私に出番が廻ってきたらしい。私はもちろん土居先生ではないから彼の代弁はできない。しかし、先生の語りについて私の理解するところを紹介する責任があるということらしい。

 先ずは論旨を追いやすいように4つのテーゼに単純化して論を進める。

テーゼⅠ;人間は本来、「甘える」ものである

 甘えるのは子供だけではない。大人も甘える。人間は本来、甘えるのだ。甘えは人と人を結び付けるに不可欠なものだからだ。土居先生はそう言いきる。次のようなエピソードがある。

 土居先生が甘えに注目したとき、多くの欧米人が関心を寄せた。その一人が問うた。「日本人は依存的だということか」と。土居先生は答えた。「人は甘えるのだ。貴方たちは一見、人にこそ甘えないかも知れない。しかし、勲章をもらい賞状をもらって喜んでいるではないか。あなたたちは自分達が神に選ばれ愛された民族だと言うではないか。それが依存欲求でなく何なのか」。

 大人の甘えは恥と表裏一体であるが、母子が一体になっている姿は美しくやさしい。「やさしさ」、「繊細さ」は甘えの属性である。子が母に甘えるとき、実は母が子に甘えているようでもある。そのとき母子は対等で相互的である。それが一体化の欲求である。それは欲求であるから、人の心の一番、深いところにある。それは人知を超えた内なる自然の摂理である。甘えは対象との一体化である。人と人をつなぐニワカであり結び目である。人に不可欠な基本欲求である。

 こうして土居先生は一体化の欲求を表す便利な言葉が日本にはあると気付く。「甘え」である。人の心を考えるときに「甘え」という言葉が役に立つ。一体化の欲求は「甘え」の欲求と名づけられた。母子には「素直な甘え」がある。甘えの原型がある。そして、1)「素直な甘え」は今の良き母子関係を育て、2)「素直な甘え」は子供の健全な成長を促し、3)「素直な甘え」は将来の健全な人格形成を促す、と期待された。そこで土居先生は問う。「素直な甘え」とは何なのか。」