(乳幼児精神保健学会誌Vol.23 2010年3月号より)
「1.何故、「甘え」なのか?
2008年、土居健郎先生は世界乳幼児精神保健学会のReneSpitz賞を受けた。このことは何を意味するのか。土居先生が実際に従事した「心」の臨床は主に成人を対象としたものである。元来、大人の臨床から生じた「甘え」理論が小児の現場に何処まで役に立つか。正直のところ、私は懐疑的であった。実際に「甘え」概念を不用意に実践に持ち込むと良い結果をもたらさない。甘えという言葉はプレグナントなだけに先入観に満ちている。甘えに内在する困難に気づくには長く厳しい自己分析を要する。それこそが土居先生が行ったことだった。
先日、佐賀で行われた子供の「甘え」に関する研究会にお招きいただき、子供の現場で働く方たちと接する機会を得た。実践で甘えについて苦労されている姿を、私は目の当たりにした。そして土居先生の「甘え」理論について私の知るところを伝える義務が私にはあるのかも知れないと初めて感じた。
その研究会では幾つか印象に残るケース報告があった。残念ながら詳細なメモを残していないので覚束ない記憶で紹介することにする。それは他の子供たちとの関係に問題を抱えた幼稚園児に関する報告であった。実際に母は十分、子供を抱いてあげることができない。しかし、ここで担当の先生が着眼したエピソードが興味深かった。
その幼稚園では園児が持ってくるお弁当には大抵は竹で作った仕切りがある。それが母の細やかな愛情であった。しかし、他の子の仕切りはプラスティックなのに、この子の仕切りだけは本物の竹だった。この子の母は母子関係に問題を持ちながらも他の母よりも繊細な気遣いを見せていたのである。繊細で、しかもやさしい観察であった。この先生ならば母との信頼関係を気づけるであろう。私はそう思った。
この短いエピソードには、「やさしさ」と「繊細さ」、「信頼」といった甘えの中核問題が総て含まれている。この小論を読み終えた時、読者はこの点を理解してくれると期待する。
2.子供と甘え
1)甘えの自明性が失われた時代
子供は甘えるもの。これは何時の時代も、誰でもが知っている自明な真実である。子供と大人の関係は自然な甘えで結ばれている。その中で子供はおのずと成長して社会に巣立つ。そのように親たちが信じている間は、大人たちは子供の甘えを前にして揺らぐことはなかった。その社会は子供の甘えを受け止める力を持っていた。
ところが近年、大人たち、つまり、子供を受け止めるべき大人たちが甘えに対する確かな感性を失いつつある。家族制度の崩壊という社会現象のなかで、社会が子供の甘えを受け止める能力を失いつつある。甘えの属性である「やさしさ」、「あたたかさ」、「懐かしさ」、「思いやり」が社会から失われつつある。土居先生流にいえば、甘えの自明性が社会から失われたのである。そして子供に直接、接する大人たちが子供の甘えに、どう接して良いか分からなくなった。
2)大人の甘え、子供の甘え
元来、土居先生の業績は大人の神経症の治療から始まった、遠い昔に甘えなどは卒業したと思っている大人の心の裏に、本人さえ気付くことなく甘えの真理が隠されている。「甘えたくとも甘えられない」という心的葛藤が存在する。ただし、それを患者自身は気付いてはいない。むしろ、本人は「甘えてなんかいない」と思いこんでいる。甘えと恥は一体なのだ。本人が甘えに気づいていないのであるから、治療者との話し合いで内なる甘えに気付くことが大事となる。つまり、自己洞察が重要な治療的契機となる。「私は甘えていた。」治療して初めてそう語り得る。
しかし、同じ甘えでも乳幼児では事情は異なる。子供が甘えることが自然なのは誰でもしている。「甘えられない子」、「甘える子」。形は異なっても子供は甘える。多彩な甘えをどう理解したらよいか。問は子供からではなくて、子供の甘えを受け止める立場に居る大人から生ずる。子供を抱きしめたらよいのか。厳しく躾けたらよいか。どのようにしたら甘えてくれるのか。そこから問は広がっていく。
そもそも甘えとは何か。やさしく抱きとめるべきか、厳しく仕付けるべきか。生じる問は膨大な育児書の遍歴そのままである。甘えの禁止と受容の繰り返しである。受容と禁止のどちらが正しいのか。実は、答は別のところにある。甘えそのものが受容と禁止の両価性から成り立っている。それが土居先生の「甘え」理論である。つまり、子供の甘えについては、彼らと関わる大人の側の先入観こそが問われるのである。子供と接する大人が、どこまで自分の内にある甘えを洞察しているか。それが問われるのである。
このために改めて土居先生の「甘え」理論が注目され、先生に学んだ私に出番が廻ってきたらしい。私はもちろん土居先生ではないから彼の代弁はできない。しかし、先生の語りについて私の理解するところを紹介する責任があるということらしい。
先ずは論旨を追いやすいように4つのテーゼに単純化して論を進める。
テーゼⅠ;人間は本来、「甘える」ものである
甘えるのは子供だけではない。大人も甘える。人間は本来、甘えるのだ。甘えは人と人を結び付けるに不可欠なものだからだ。土居先生はそう言いきる。次のようなエピソードがある。
土居先生が甘えに注目したとき、多くの欧米人が関心を寄せた。その一人が問うた。「日本人は依存的だということか」と。土居先生は答えた。「人は甘えるのだ。貴方たちは一見、人にこそ甘えないかも知れない。しかし、勲章をもらい賞状をもらって喜んでいるではないか。あなたたちは自分達が神に選ばれ愛された民族だと言うではないか。それが依存欲求でなく何なのか」。
大人の甘えは恥と表裏一体であるが、母子が一体になっている姿は美しくやさしい。「やさしさ」、「繊細さ」は甘えの属性である。子が母に甘えるとき、実は母が子に甘えているようでもある。そのとき母子は対等で相互的である。それが一体化の欲求である。それは欲求であるから、人の心の一番、深いところにある。それは人知を超えた内なる自然の摂理である。甘えは対象との一体化である。人と人をつなぐニワカであり結び目である。人に不可欠な基本欲求である。
こうして土居先生は一体化の欲求を表す便利な言葉が日本にはあると気付く。「甘え」である。人の心を考えるときに「甘え」という言葉が役に立つ。一体化の欲求は「甘え」の欲求と名づけられた。母子には「素直な甘え」がある。甘えの原型がある。そして、1)「素直な甘え」は今の良き母子関係を育て、2)「素直な甘え」は子供の健全な成長を促し、3)「素直な甘え」は将来の健全な人格形成を促す、と期待された。そこで土居先生は問う。「素直な甘え」とは何なのか。」