たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『光源氏の一生』より-「光源氏の死-雲がくれ」

2023年06月20日 20時42分07秒 | 本あれこれ

『光源氏の一生』より-「光源氏の死-紫の上の死」

 

「ぷつりと糸が切れたように-

 紫の上をはかない煙にしてしまってから、光源氏の送り迎えたさびしい日々については、本書の始まりのところに述べました。一周忌をすごしたら、世を捨てて仏門にはいり、紫の上の冥福を祈り、自分自身の来世のしあわせをも祈ろうと、光源氏は心にきめていたようです。

 しかし、源氏物語の作者は、紫の上のなくなった年の、翌一年を、一巻の物語に仕上げて、それで物語をぷつりと切ってしまいました。

 源氏物語には、光源氏の、紫の上の死後の一年の記述があるだけで、その出家についても、その死についても、一言半句、書いていないのです。

 ただ、物語が、光源氏のなきあとにまで、筆が進んでいったから、そのことにわずかに触れているところがあって、ーすなわち光源氏は、嵯峨にかくれ住んで、仏門にはいり、二、三年の後になくなった、とあります。そういう、あとになってからのうわさ話によって、おぼろげながら、その後の動静がわかるだけです。」

 

「八年間の空白-

 光源氏の一生を説いてきた源氏物語は、まえに述べた「幻」の巻で、ぷつんと糸が切れたように、光源氏を主人公とした物語が終わりを告げ、つぎの巻は、改めて始まる「匂宮」の巻です。そしてこの二つの巻のあいだには、八年の歳月が流れており、その、なんの記述もない八年のあいだに、光源氏をはじめとして、他氏の頭目であった到仕(ちじ)の大臣-役を退いた大臣。太政大臣にまで登って退いた、柏木の父ーさらに、やはり太政大臣に登った黒髭など、みな世を去っていきました。

 つまり、この八年間に、世の中は、すっかり親しくなり、次の世代の人々が活躍する時世となっていました。そこから、この物語は新しく展開していくのですが、それはもはや「光かくれたまいし後」のことで、光源氏の一生とは、かかわりがありません。」

 

「神の死は語らない-

 せっかく生まれたときからの、50年にわたる一生をこまかく語ってきて、その一生のとじ目を語らないのは、なんとなくしり切れとんぼだと思います。

 これについては、もと「雲隠」という名の巻が六巻あって、その八年間の空白をうめていたのだ、という説があります。しかしたしかに見たという説も、どうも信用できません。光源氏の死を説いた説があってもいいはずだという考えと、六巻をたすと、源氏物語がちょうど60巻になって、経巻の数がひとしくなるので、そういう巻々が実在したようにいう説が生まれたのでしょう。あった巻がなくなったというよりも、もともとなかったとみる方が正しいと思います。

 そうすると、作者は、光源氏の死については語らなかった、ということになります。

 日本の国の古い神々の物語では、神の死を説きません。神はこの世に現れて、自分のつとめを果すと、もとの世界に帰っていきます。神は、いる世界を殊にしているだけで、けっして死ぬのではないのです。この考え方が、ここで役にたつように思います。」

 

「光源氏の死もまた-

 この世に現われた、もっとも理想的な男性である光源氏は、もっとも神に近い人物ともいえるでしょう。そういう人物には、死ということはないのです。少なくとも、そういう人物の、死についてはだれも伝えないのです。

 ただこの人間の世を去って、雲のかなたにかくれたにすぎないのです。ただし源氏物語は、人間の世界を扱ったのですから、光源氏を最後にかぐや姫のように扱って、天上に帰ってもらったりするわけにはいきません。そこで作者は、なんにも触れず、ただ死については語らない、という態度をとったのです。

「雲隠」の巻とは、そうした作者が、はじめから書かずに、存在していない巻に名づけた巻の名だったのでしょう。」

(池田弥三郎『光源氏の一生』昭和29年4月1日第一刷発行、講談社現代新書、236-239頁より)

 

 

 

 

 


鎮痛剤は体にこたえる

2023年06月20日 13時47分49秒 | 日記

 痛みを麻痺させている麻薬に副作用がないなんて、そんなことあるわけないだろに、暑いんだか寒いんだかわからない、湿度の高いもやっとしたこの気候は鎮痛剤をのまないではいられなくなった体に非常にこたえます。今のところまだなんとか一錠でもちこたえています。いつまでとこまで歩き続けられるのか。昨日総合病院から電話があり、医師の都合で予約を7月10日からあとにずらしてほしいとのこと。一応7月24日に変更しました。本当は行きたくない、手術をするつもりはないので行く意味はないと思う、でもどうすることもできないし、経過観察のために行くしかないという気持ち。電話口で言ってもどうしようもないですが伝えました。生まれる前からの脱臼。なす術ないです。タイミングを逸したら手術なんてもうできない。コロナで医療ひっ迫など起こっていなかったことが次々と明らかになってきているのに、コロナ患者でベッド満杯なんてどこまで本当だったのか。6回目の接種もとまならいし、もう医療など信じることはできません。健康保険料の決定通知がきたので昨年度の収入はパートの5万円ほどだけだったことを区役所に伝えなければならないし、生きて行くためには必要な手続きをするのがとても億劫。役所も行きたくない、そんなことは言っていられないのでなんとか動くしかありません。今日は忘れて久しぶりに東京、事故にあうこともなく途中で倒れることもなく無事に往復できるでしょうか。今ワクチンを接種できるのは65歳以上の高齢者と5歳から11歳の子どもだけなのか。だから必死に子どもに打てと言っているんだ。においの強い人に遭遇しなければいいが。毎日おかしな風が吹いているし、救急車のサイレンが何度も聞こえるし、この国はもうとっくに詰んでいてどこをどう考えても未来は真っ暗なのだと思うと絶望的過ぎて落ち着きませんが束の間なんとか現実を忘れるように、まだ行きたいと思える場所があるのでなんとか無事に往復しなければと思う次第、不安神経症に打ち勝って無事に往復できますように・・・。

 


いまだに子どもへの接種勧奨を続ける日本小児科学会

2023年06月20日 00時00分28秒 | 気になるニュースあれこれ

WHOもさすがにもうヤバいと尻込みしている子どもへのコロナワクチンをいまだに打て打てどんどんと煽る日本小児科学会と垂れ流しのNHK。どっちも相当ヤバい。

 

新型コロナワクチン「すべての小児に接種推奨」日本小児科学会 | NHK | 新型コロナ ワクチン(日本国内)

「新型コロナワクチンの子どもへの接種について、日本小児科学会は対策が緩和されて多くの子どもが感染することが予想されるなどとして、引き続き「すべての小児に接種を推奨する」という考え方を示しました。重症化を防ぐ手段としてワクチン接種は重要だとしています。

日本小児科学会は、新型コロナの感染症法上の位置づけが5類に移行したことや、WHO=世界保健機関がことし3月「生後6か月から17歳の健康な小児へのワクチン接種は優先順位が低く、国ごとの状況を踏まえて検討すべきだ」としたことを受け、接種の意義について改めて検討しました。

学会がまとめた考え方によりますと、WHOは子どもに対する接種は有効かつ安全としているほか、複数の研究報告で、発症予防や重症化予防の効果が確認されているなどとしています。

その一方、国内では未感染の子どもが多いとみられ、感染すると、まれに急性脳症や心筋炎を発症し、後遺症が残ったり死亡したりするケースもあるとしています。

そのうえで、学会は対策の緩和で多くの子どもが感染することが予想され、接種は重症化を防ぐ手段として重要だとして、引き続き「すべての小児に接種を推奨する」としました。


学会の理事で新潟大学の齋藤昭彦教授は「感染すると持病がなくても重症化する可能性はある。健康な子どもたちもワクチンを接種し重症化を防ぐ対策をすることが重要だ」と話しています。」