『光源氏の一生』より-「光源氏の死-もののけのこと」
「危篤を伝えられて五年-
紫の上は、もののけのために、ひどい病気にかかり、その後は病気がちの毎日をすごしていました。かねてから出家の望みをもっていたのですが、光源氏はそれをどうしても許しませんでした。
平安朝のころは、妻が、そういつまでも、妻の座にどっしりとすわっていることは、宗教的にもきらわれ、いい時機をみて、髪をそいで、在家のまま、仏門にはいってしまったり、よそへ移ってしまったりするのが普通でした。光源氏は、紫の上の希望はよくわかっていたのですが、どうしてもこの世ながらに紫の上と別れることがつらかったからでした。
紫の上がひどく苦しんで、もうだめだといううわさがとんだのは、光源氏が47歳のときのことでしたから、ことしはあれからもう五年目になります。今では紫の上もすっかり衰えてしまいました。ことしは春のころから、ことに衰えが目だってきていましたが、夏がすぎ、さわやかな秋がくると、ややもちなおしました。」
「萩の露のこぼれるようにー
紫の上は、ぱっとするようなあざやかな印象の方でしたが、今はすっかりやせてしまって、そのごようすがまたなんともいえないほどに、美しいのでした。
置くと見るほどぞはかなき。ともすれば、
風に乱るる 萩の上露
秋の色の深くなっていく庭先を見ながら、こういう歌を口ずさみました。萩に置いたとみる露が、たちまち風に乱れて、散り落ちてしまう、そんなはかなさが、なにか人生をも象徴しているようでした。
紫の上は、この萩の上露のはかなさを歌ったのを最期として、露が消えていくように、なんの苦しみもなく、なくなってしまいました。光源氏51歳の、秋、8月14日の晩のこと。紫の上は、40歳をすぎたばかりでした。
光源氏は、せめて生前に、望みどおりに仏道にはいらせてやらなかったことが心がかりでしたので、今となってから、命じて、髪をおろさせるのでした。しかし、涙にくれまどうているので、おせわは、いっさい夕霧がしました。」
「見あきぬ美しさ-
夕霧は、台風の荒れた朝、樺桜の咲きこぼたような紫の上の立ち姿を望見して以来、あれきり、紫の上を見ることはありませんでした。光源氏も用心深く、紫の上もまた、そんな不用意なことのない人でした。
しかし今見なければ、もう永久にそのお姿はむなしくなってしまいます。夕霧は、かたわらに、放心したようになっている光源氏にはかまわずに、几帳のかたびらをひき上げて、お姿を見ようとしました。ほのぼのと明けていく朝の光ではじゅうぶんでないので、ともし火を近くにかかげて、じっとそのお顔を見つめました。いくら見ても見あきない美しさで、やすらかに眠っているようなお顔でした。
その日のうちに、葬儀がとり行われました。
はるばると広い野原に、びっしりと立って、別れを惜しむ人々の群れが、どこまでもつづいていました。」
「消えてかえらぬ煙にー
葵の上を死なしてしまったときも、ずいぶんつらかったという記憶はありますが、それでもあのときの月の顔ははっきりと覚えています。今は8月15日の暁だというのに、月の姿さえ目にはいらぬほどに、涙にくれている光源氏でした。
紫の上のなきがらを焼く煙は、だれのばあいとも同じように、やがて空にのぼて、はるかの空に消えていきました。
紫の上におくれて、あと幾年生きる身であろうかと思うにつけ、この悲しみのまぎれに、仏門にはいるかねての思いをとげようか、とも思うのでしたが、しかしまた、今そうしては、いかにも心弱いとの非難をうけるでしょう。せめて、一周忌がすぎてからと思うにつけて、ふたたび胸がせきあげてくるのでした。
さすがの光源氏といえども、世の常の別離のことわりからは、のがれられませんでした。」
(池田弥三郎『光源氏の一生』昭和29年4月1日第一刷発行、講談社現代新書、232-235頁より)