昨夜お隣は日本戦じゃないのに夜またサッカー観戦していたみたいで1時過ぎまでドタバタ、人が出入りしてドアがドタンバタンと。仕事で心身共に疲れているわたしにはこたえます。学生なんてさいあく、チャラ坊たちはチャラ坊専用のマンションなど用意してそこに集めるべし。ほんと迷惑なり。ついにオッサンがクレームをつけた気配。昨夜1時過ぎも今朝もバタバタと声がきこえました。その後どうなったかわかりません。とにかくわたしは、部屋が気になれど帝国劇場からスパへと逃げてきました。眠れるかどうかわかりませんが休養が必要。着替えや充電器、それにこんなことになるとは思わなかったので今までまだプログラムを購入していなかったらすっごい荷物で、なんか毎日仕事で関わっているヘンな人たちみたいにみえてしまいます。決してそうではない、ちがうんですよ、わけがあってこんなヘンな人になっているんです。というわけで1時半を回ってから就寝、寝過ごしそうになりましたがなんとか間に合った『モーツァルト』。憲ちゃんアマデに会えたよ~♪。
昨年7月帝国劇場の客席で偶然会えたけど舞台の憲ちゃんは『スクルージ』以来。背がひゅっと大きくなっていておとなっぽいアマデでした。憲ちゃん小学校5年生、爽介君小学校4年生。子どもの一年の違いはすごく大きいですね。まだ小さい体で目力で精一杯気迫を感じさせるアマデを演じた爽介君に対して、憲ちゃんは落ち着いていました。無邪気で自由奔放なゆんヴォルフガングに対してぞくっとするほど冷ややかなまなざしを終始注いでいるようにみえました。ずっと冷ややかだったアマデが最後死を悟ったヴォルフガングに自分がずっと曲を書き続けてきた羽ペンを差し出すとき、慈愛に満ちているようにみえました。ヴォルフガングをいとおしくみつめているようにみえました。わかりませんが今日そんなふうにみえました。二人は最後一心同体。お互いを受け入れ合って逝ったようにみえました。ゆんヴォルフガングの、「おれが死ねばおまえも死ぬんだって」いう台詞が、今日はなかった? そんなことはない? ゆんヴォルフガングは最期に笑顔をみせるんだよね、最期アマデを憎んでないの。アマデをいとおしく思いながら受け入れたようにみえるの。ゆんヴォルフガングと爽介君アマデとはまたちがう組み合わせの化学反応。憲ちゃんすごいよ。兄ちゃんもすごいけど憲ちゃんの役者魂もほんとにすごい。
これが正解という見方はありませんが、五回目にしてようやくわかってきました。一幕最後、アマデは羽ペンのインクがなくなるとヴォルフガングの腕に羽ペンを刺してヴォルフガングの血を泉として曲を書き続けたのだと。インクがなくなったときの、羽ペンをなんどもなんども振って、インクがないのか?っていう表情のアマデの鬼気迫る感じがすごかった。冷ややかな表情と仕草が一幕最後の緊迫感をぐっと高めていました。自分の影から逃れてが歌われる中でのヴォルフガングとアマデの対決は毎回とりはだ。
一幕、ママが亡くなった時ろうそくの灯りみたいにいのちが消えたのにの世の中はなにも変わらず日常が続くことを知り絶望した人生に絶望したヴォルフガング。二幕、パパが亡くなってさらに深く絶望し、「残酷な人生、ゆがんだ世の中」と歌うヴォルフガングに対して、才能から逃れることなんて許さないぞ!と言わんばかりに、後しから首をがっとつかむアマデ。「おまえのせいだ」「おまえが家族をこわしたんだ」とぶつかるヴォルフガング。絶望したヴォルフガングの背中を押すように現れて歌うヴァルトシュテッテン男爵夫人の「星から降る金」(たーたんの星金は今日も絶品、とろけるような柔らかい慈愛に満ちていました。)背中を押されて立ち上がるヴォルフガング。パパに似た仮面の男が依頼したレクイエムの作曲。「自分の力で書くのです」。やっと気づいたのですが最後にはじめてヴォルフガングは自分ひとりの手で曲をかこうとするのですね。それまで曲を書き続けていたのは天才と言われたおなさい頃の自分の分身アマデ。ここではじめてアマデは筆を休め作曲するヴォルフガングを見つめ続けています。レクイエムをかいては破り、かいては破りを三回繰り返したヴォルフガング。ついに書き上げることができないまま音楽の泉は尽き死を悟ったゆんヴォルフガングは、最後の最後笑顔をみせてアマデが差し出した羽ペンを自ら胸に刺して命果てます。なんかとりはだと涙。短い人生、危なっかしい人生だったけど、ヴォルフガングは精一杯生きたし、シカネーダーが言ったとおり、後世の人々に愛され続ける曲を書いたんだよね。コロレド大司教から解雇されたことを絶望ではなく始まりと喜んで権力者のためではなく市井の人々のために曲をかいたんだよね。神様から与えられた役割を全うしたんだよね。こうして今わたしたちはモーツァルトの曲に馴染んでこうしてミュージカル化されるほどの人生を送ったんだよね。自分の曲を待ってくれている人たちがいるっていう時のゆんヴォルフガングの表情は希望に満ちていました。そんな自由闊達なところがゆんヴォルフガング。決してうまくはなくって、まだまだ発展途上だと思いますが、そこが危なっかしいヴォルフガングと相まってよかったりするのです。
人生の節目節目で折れそうになりながらも助けの手が差し延べられると無邪気に喜びと希望に満ちた表情ではしゃぐヴォルフガングとは裏腹に、ザルツブルクでヴォルフガングの行く末を案じながら心を痛めるパパとナンネールの姿が一回一回描かれているのもせつなかったです。『モーツァルト』は家族の葛藤の物語でもあるんですよね。家族ってむずかしい。
ヴォルフガングとアマデの傍らに置かれた宝石箱を開けたときのナンネールの表情が気になります。そこになにをみたのか。幼い日の栄光か。皇帝からいただいた宝石箱をヴォルフガングが手に取ると、返せ!と怒りの表情をみせるアマデ。台詞なしで目力と仕草だけで表現。すごいよね。ついに宝石箱を自ら開けることはできなかったヴォルフガング。宝石箱はアマデだけのものだったという残酷さ。でもゆんヴォルフガングは希望を感じさせてくれました。
カーテンコールはみんな待っていました。最後ゆんヴォルフガングと憲ちゃんアマデが登場して上手から下手へと小走りしてそれぞれにお辞儀。最後真ん中で、ゆんヴォルフガングのマイクを使って「本日はありがとうございました」と可愛らしい声の憲ちゃんアマデに客席はとろけそうになって終演。爽介君もそうでしたが、カーテンコールでは市村パパとふたり最後幕が降りるときまでしゃがんで一生懸命に手を振ってくれるのかわいいよね。緊張感から解き放たれた子どもの笑顔はなにものにも代えがたいほどに純でかわいい。その隣で冷静なゆんヴォルフガング。ふたりの組み合わせがかわいいよね、ほんと。最後ほっといやされるのが幸せなり。
今日は荷物あるしこうしてスパにいかねばのプレッシャーで日比谷を十分に味わえないまま去らねばならなかったですが今度の土日また日比谷だからいいの。今度は宝塚。帝国劇場は二週間前に味わったしいいの。地下で食事してお手洗いに行こうとしたら福永悠二さんお見かけしました。美しいお顔立ちでした。声かけたかったですが自分に余裕なさすぎました。コンスタンチェは2014年からたまたまずっと平野綾さん。どんどんパワーアップ。圧倒的な楽曲のミュージカルは毎回とりはだ。色々な見方ができます。ままだ書きたいことは尽きませんがこれから食事してお風呂で体をほぐして眠れるかどうかわかりませんが横になって休みます。せまいスリーピングペース一応確保しました。明日の朝無事に出勤できるのか、全くわかりません。黒のパンツは今日半日はいたのでヨレヨレですが仕方ありません。明日から30度の日々。明日が無事に迎えられ過ぎていくのか、帰ったら部屋はどんなことになっているのか全くわかりません。なんとか無事に生き延びられますように・・・。
憲ちゃんアマデに会えた幸せな日曜日でした。
昨年7月帝国劇場の客席で偶然会えたけど舞台の憲ちゃんは『スクルージ』以来。背がひゅっと大きくなっていておとなっぽいアマデでした。憲ちゃん小学校5年生、爽介君小学校4年生。子どもの一年の違いはすごく大きいですね。まだ小さい体で目力で精一杯気迫を感じさせるアマデを演じた爽介君に対して、憲ちゃんは落ち着いていました。無邪気で自由奔放なゆんヴォルフガングに対してぞくっとするほど冷ややかなまなざしを終始注いでいるようにみえました。ずっと冷ややかだったアマデが最後死を悟ったヴォルフガングに自分がずっと曲を書き続けてきた羽ペンを差し出すとき、慈愛に満ちているようにみえました。ヴォルフガングをいとおしくみつめているようにみえました。わかりませんが今日そんなふうにみえました。二人は最後一心同体。お互いを受け入れ合って逝ったようにみえました。ゆんヴォルフガングの、「おれが死ねばおまえも死ぬんだって」いう台詞が、今日はなかった? そんなことはない? ゆんヴォルフガングは最期に笑顔をみせるんだよね、最期アマデを憎んでないの。アマデをいとおしく思いながら受け入れたようにみえるの。ゆんヴォルフガングと爽介君アマデとはまたちがう組み合わせの化学反応。憲ちゃんすごいよ。兄ちゃんもすごいけど憲ちゃんの役者魂もほんとにすごい。
これが正解という見方はありませんが、五回目にしてようやくわかってきました。一幕最後、アマデは羽ペンのインクがなくなるとヴォルフガングの腕に羽ペンを刺してヴォルフガングの血を泉として曲を書き続けたのだと。インクがなくなったときの、羽ペンをなんどもなんども振って、インクがないのか?っていう表情のアマデの鬼気迫る感じがすごかった。冷ややかな表情と仕草が一幕最後の緊迫感をぐっと高めていました。自分の影から逃れてが歌われる中でのヴォルフガングとアマデの対決は毎回とりはだ。
一幕、ママが亡くなった時ろうそくの灯りみたいにいのちが消えたのにの世の中はなにも変わらず日常が続くことを知り絶望した人生に絶望したヴォルフガング。二幕、パパが亡くなってさらに深く絶望し、「残酷な人生、ゆがんだ世の中」と歌うヴォルフガングに対して、才能から逃れることなんて許さないぞ!と言わんばかりに、後しから首をがっとつかむアマデ。「おまえのせいだ」「おまえが家族をこわしたんだ」とぶつかるヴォルフガング。絶望したヴォルフガングの背中を押すように現れて歌うヴァルトシュテッテン男爵夫人の「星から降る金」(たーたんの星金は今日も絶品、とろけるような柔らかい慈愛に満ちていました。)背中を押されて立ち上がるヴォルフガング。パパに似た仮面の男が依頼したレクイエムの作曲。「自分の力で書くのです」。やっと気づいたのですが最後にはじめてヴォルフガングは自分ひとりの手で曲をかこうとするのですね。それまで曲を書き続けていたのは天才と言われたおなさい頃の自分の分身アマデ。ここではじめてアマデは筆を休め作曲するヴォルフガングを見つめ続けています。レクイエムをかいては破り、かいては破りを三回繰り返したヴォルフガング。ついに書き上げることができないまま音楽の泉は尽き死を悟ったゆんヴォルフガングは、最後の最後笑顔をみせてアマデが差し出した羽ペンを自ら胸に刺して命果てます。なんかとりはだと涙。短い人生、危なっかしい人生だったけど、ヴォルフガングは精一杯生きたし、シカネーダーが言ったとおり、後世の人々に愛され続ける曲を書いたんだよね。コロレド大司教から解雇されたことを絶望ではなく始まりと喜んで権力者のためではなく市井の人々のために曲をかいたんだよね。神様から与えられた役割を全うしたんだよね。こうして今わたしたちはモーツァルトの曲に馴染んでこうしてミュージカル化されるほどの人生を送ったんだよね。自分の曲を待ってくれている人たちがいるっていう時のゆんヴォルフガングの表情は希望に満ちていました。そんな自由闊達なところがゆんヴォルフガング。決してうまくはなくって、まだまだ発展途上だと思いますが、そこが危なっかしいヴォルフガングと相まってよかったりするのです。
人生の節目節目で折れそうになりながらも助けの手が差し延べられると無邪気に喜びと希望に満ちた表情ではしゃぐヴォルフガングとは裏腹に、ザルツブルクでヴォルフガングの行く末を案じながら心を痛めるパパとナンネールの姿が一回一回描かれているのもせつなかったです。『モーツァルト』は家族の葛藤の物語でもあるんですよね。家族ってむずかしい。
ヴォルフガングとアマデの傍らに置かれた宝石箱を開けたときのナンネールの表情が気になります。そこになにをみたのか。幼い日の栄光か。皇帝からいただいた宝石箱をヴォルフガングが手に取ると、返せ!と怒りの表情をみせるアマデ。台詞なしで目力と仕草だけで表現。すごいよね。ついに宝石箱を自ら開けることはできなかったヴォルフガング。宝石箱はアマデだけのものだったという残酷さ。でもゆんヴォルフガングは希望を感じさせてくれました。
カーテンコールはみんな待っていました。最後ゆんヴォルフガングと憲ちゃんアマデが登場して上手から下手へと小走りしてそれぞれにお辞儀。最後真ん中で、ゆんヴォルフガングのマイクを使って「本日はありがとうございました」と可愛らしい声の憲ちゃんアマデに客席はとろけそうになって終演。爽介君もそうでしたが、カーテンコールでは市村パパとふたり最後幕が降りるときまでしゃがんで一生懸命に手を振ってくれるのかわいいよね。緊張感から解き放たれた子どもの笑顔はなにものにも代えがたいほどに純でかわいい。その隣で冷静なゆんヴォルフガング。ふたりの組み合わせがかわいいよね、ほんと。最後ほっといやされるのが幸せなり。
今日は荷物あるしこうしてスパにいかねばのプレッシャーで日比谷を十分に味わえないまま去らねばならなかったですが今度の土日また日比谷だからいいの。今度は宝塚。帝国劇場は二週間前に味わったしいいの。地下で食事してお手洗いに行こうとしたら福永悠二さんお見かけしました。美しいお顔立ちでした。声かけたかったですが自分に余裕なさすぎました。コンスタンチェは2014年からたまたまずっと平野綾さん。どんどんパワーアップ。圧倒的な楽曲のミュージカルは毎回とりはだ。色々な見方ができます。ままだ書きたいことは尽きませんがこれから食事してお風呂で体をほぐして眠れるかどうかわかりませんが横になって休みます。せまいスリーピングペース一応確保しました。明日の朝無事に出勤できるのか、全くわかりません。黒のパンツは今日半日はいたのでヨレヨレですが仕方ありません。明日から30度の日々。明日が無事に迎えられ過ぎていくのか、帰ったら部屋はどんなことになっているのか全くわかりません。なんとか無事に生き延びられますように・・・。
憲ちゃんアマデに会えた幸せな日曜日でした。