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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

祈り続ける

2014年01月19日 12時14分08秒 | 祈り
「2012年2月某日 18時36分新幹線の駅にて

母が突然逝ってしまったらしい。
クリニックに先ず連絡したら警察か消防を呼んでくれということで警察を呼んだら死因が特定できないということで連れて行ってしまったらしい。それ以上のことは今わからないのでどう受けとめればいいのかもわからない。
統合失調症で向精神薬をのみつづけてきたということはどうなのだろう。
大きく影響しているのだろうか。
あまりにもあっ気なく、突然の幕切れで落ち着かない。
またしても試練の局面だ。
なにをどう考えればいいのかわからないが尊厳は守りたい。
まだ実感がないし、週末であまり眠っていないところへまたもや突然のことなので正直かなりきつい。立ち向かうしかない。」



「2012年2月某日

今日は祝日、友引、外は晴れて陽射しがあるところはあたたかい。こうして今母の通夜を待っている。不思議な感覚だ。あれほど心の負荷をずっと長い間感じ続けて、背負い続けていつ終わるかわからないが後数年続くものと思っていた。急に幕が下りた。
あまりにも突然であっ気なく、どうしていいのかわからない自分がいる。

母にとってどんな人生だったのか。
それは母が引き受けることだ。」



「2012年2月某日

郷里は夕方から雪になった。すごく寒い。
母の葬儀を終えて今新幹線の中。あまりにもあっ気ない突然の幕切れで実感がない。
自分をどうしたらいいのかわからない。
あれほど憎んだり、恨んだり、もがきにもがいてきた日々。
私たち家族のことを結局私はどう受けとめればいいのだろう。
母と妹が教えてくれたことをしっかりと受けとめ、自分を信じてこのまま進むしかない。
それにしてもそれにしても、不意打ちをまたもやくらった。
人に迷惑かけたくない。
病院には行きたくない。
その意志を見事に貫いて逝ってしまった。
最後に少し苦しんだのかもしれない。
顔と手を強く打ちつけたあとがあった。Y君は救急車を呼べばよかったと悔やんで自分を責めている。それでチューブをつながれたりするのは母の本意ではなかったのだろう。あっという間に逝ってしまった。自分が張り切って建てた家で、家にいたいとがんばり続けて本当にそのとおりになって、それでよかったのかもしれない。
やさしい息子に世話してもらって、社会的ストレスを受けることなく過ごして、病気になったことでMちゃんの自死をまともに背負わなくてすんだし、母にとってはよかったのかもしれない。
それは母だけが知っていることだ。母の分は母が背負う。
それが人の一生なんだ。子供として私とY君は真面目にやって逃げなかった。
責任は果たせたと思う。がんばって78年間生きて幸せな人生だったと思いたい。

父の急逝から一年半。
気づいたら両親がいなくなっていた。
子供の頃こんな時がくるなんて考えたことなかった。
親が死んじゃうなんて・・・。

時は過ぎゆく。
やりたいことをやっていこう。
人生は短い。
あっという間だ。」



不意におとずれた母とのお別れから、もうすぐ丸二年になろうとしている。
納骨も終わり、父・母・妹の三人で眠りについているのだが、今だ実感がない。
信じられないというのが正直なところだ。


母に病気の症状が現われるようになった頃、わたしにもきつい言葉の数々が向けられたので
辛かったことを今も体がおぼえている。それは病気がそうさせていたのだと今だから思えるが
その頃は精神医学の知識が皆無でなにがおこったのかわけがわからなかった。
ただこのまま一緒にいては自分がわけわからなくなりそうだ、そんな感じが漠然とだがあった。
だから逃げた。
妹も一緒に連れていくべきだったのか、そう考えるときりがないのでやめよう。


母との最後の会話は前年の11月。
学会が郷里の近くであったので出席するために帰省していた。
お別れする時、「お母ちゃん人に迷惑かけんように一生懸命がんばっとるけど、
最後はたのむね」というものだった。
母のなかで何か予感があったのか・・・。
その時初めて心を病むことの奥深さに気づかされた。
そういうことだったのか。
母は母の世界の中で、毎日一生懸命に生きてきているんだ。
自分はずっと大いなる思い違いをしていたことに気づかされた。


今はただ安らかであれと祈りながら、私が一生懸命に生きる。
きっと転換期なんだ。ずっと迷っていたのが向こうからやってきた。
そう思えばいい。
不安だらけ、心細さとのたたかいだがふんばれ、わたし。
きっと望む方向に自ずと導かれていくと信じよう。信じるしかない。