明日からまた仕事が始まり、週末まで書けなくなってしまうので続きますが今日も書いていこうと思います。
このようなブログを読んでくださり、ありがとうございます。
昨日は久しぶりに、眼科でコンタクトの検診を終えた後スパに行って5時間近くこもっていました。休みの間部屋にいる時間が長かったのでささやかな息抜きの時間になりました。
毎年お正月休みの間に一度はスパに行っています。
2007年のお正月は、1月末の国家試験を前にお風呂に入った後食事をしながらも、過去問題など必死に頭に叩き込んでいたことを思い出しました。休みなのに休みじゃないような、がむしゃらでした。試験の10日ぐらい前には職場で具合が悪くなってしまって、それでも国家試験の受験を控えていることはひとことも言わずに仕事もこなした。その時はただただ必死だった。専門職の協は退会するけれど終わりではない。これほどまで頑張ったことがわたしにとってどんな意味があるのか、きっとわかる時がくると信じ続けたいと思います。
また重くなりますが、私自身の日記を読み返します。
「1995年1月21日(土)
一晩中、夢を観続けていたようで、なんだか疲れてまだぼうっとしている。
まあ、いつものことといえばそれまでだが・・・。
Mちゃんに会ったような気がする。
もう夢でしか会えないのか・・・・
17日には、関西で大きな地震があって神戸は壊滅状態でー
世の中が不安定な時には天変地異も不思議と起こる。経済的・物質的な豊かさばかりが求められてきて、なにか大事なものを忘れている。そんなことへの自然からの警告のような気がしてならない。
いつも神経質に気にしてばかりいては暮らしていけないけどね、なるようにしかならないんだからサ。
相変わらず夜型の生活を続けてしまっていて、いけないなあと思いつつ、ついつい・・・。
引っ越しを決めてしまった、こんな安易でいいのかなあと思うぐらいかんたんに・・・。
古いし、間取りは今とたいして変わらないのだが、2階の角部屋、下は大家さんだし、隣が一部屋あるだけだし、エアコン付き、日当たりも悪くない、今の状況よりは落ち着いて眠れそうだ。
春に向けて新しい気持ちでがんばろうと思う。
これで仕事がみつかればいうことはない。
気楽な心持ちでいた方が物事って上手くいくのかなー」
こうして読み返してみると、わたしよくここまでやってきたなあと自分で思います。
わたし自身のことではないですが、どうしても次のことも書いておきたいと思います。
中井久夫著『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録』より
「1995年1月17日午前5時46分から
最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の5秒間で起こった圧死だという。
行政の対応が遅れた理由は簡単である。幹部は、多くは郊外の自宅に眠っていた。つまり一私人であった。私もそうであった。昼間に起こっていたら公務員は持ち場にいてシナリオは多少かわっていたであろう。後に私は何度もこのことを頭の中で反芻することになる。博多行「ひかり」の初発は6時12分に新大阪駅を出発していたはずであった。現場通過は6時20何分かである。」
「東日本大震災において、300km/h走行で停止するのに2分近くを要する東北新幹線で大きな脱線が1件もなかったのも、幸運にすぎない。「早期地震警報システム」が有効に機能し、P波を検知して緊急停止させた。東日本大震災は、複数の巨大地震が順に連動したものだったので、本震が新幹線に達したのは、最初のP波検知から2分以上後だった。」
(スマートまちづくりフォーラムイン水戸、H24.2.11 次の大震災への鉄道の備え ㈱ライトレール 阿部等著より抜粋)
私の住まいのすぐ近くを毎日、新幹線が走り抜けていきます。
その音はいつの間にか騒音ではなく、わたしに安心感を与えてくれるものになりました。
新幹線が元気に走り抜ける平和な日々が続くことを祈り続けながら、明日からまた大混雑の中にもまれます。
週末、秋のプリンス・エドワード島への旅の続きを書ければと思っています。
このようなブログを読んでくださり、ありがとうございます。
昨日は久しぶりに、眼科でコンタクトの検診を終えた後スパに行って5時間近くこもっていました。休みの間部屋にいる時間が長かったのでささやかな息抜きの時間になりました。
毎年お正月休みの間に一度はスパに行っています。
2007年のお正月は、1月末の国家試験を前にお風呂に入った後食事をしながらも、過去問題など必死に頭に叩き込んでいたことを思い出しました。休みなのに休みじゃないような、がむしゃらでした。試験の10日ぐらい前には職場で具合が悪くなってしまって、それでも国家試験の受験を控えていることはひとことも言わずに仕事もこなした。その時はただただ必死だった。専門職の協は退会するけれど終わりではない。これほどまで頑張ったことがわたしにとってどんな意味があるのか、きっとわかる時がくると信じ続けたいと思います。
また重くなりますが、私自身の日記を読み返します。
「1995年1月21日(土)
一晩中、夢を観続けていたようで、なんだか疲れてまだぼうっとしている。
まあ、いつものことといえばそれまでだが・・・。
Mちゃんに会ったような気がする。
もう夢でしか会えないのか・・・・
17日には、関西で大きな地震があって神戸は壊滅状態でー
世の中が不安定な時には天変地異も不思議と起こる。経済的・物質的な豊かさばかりが求められてきて、なにか大事なものを忘れている。そんなことへの自然からの警告のような気がしてならない。
いつも神経質に気にしてばかりいては暮らしていけないけどね、なるようにしかならないんだからサ。
相変わらず夜型の生活を続けてしまっていて、いけないなあと思いつつ、ついつい・・・。
引っ越しを決めてしまった、こんな安易でいいのかなあと思うぐらいかんたんに・・・。
古いし、間取りは今とたいして変わらないのだが、2階の角部屋、下は大家さんだし、隣が一部屋あるだけだし、エアコン付き、日当たりも悪くない、今の状況よりは落ち着いて眠れそうだ。
春に向けて新しい気持ちでがんばろうと思う。
これで仕事がみつかればいうことはない。
気楽な心持ちでいた方が物事って上手くいくのかなー」
こうして読み返してみると、わたしよくここまでやってきたなあと自分で思います。
わたし自身のことではないですが、どうしても次のことも書いておきたいと思います。
中井久夫著『災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録』より
「1995年1月17日午前5時46分から
最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の5秒間で起こった圧死だという。
行政の対応が遅れた理由は簡単である。幹部は、多くは郊外の自宅に眠っていた。つまり一私人であった。私もそうであった。昼間に起こっていたら公務員は持ち場にいてシナリオは多少かわっていたであろう。後に私は何度もこのことを頭の中で反芻することになる。博多行「ひかり」の初発は6時12分に新大阪駅を出発していたはずであった。現場通過は6時20何分かである。」
「東日本大震災において、300km/h走行で停止するのに2分近くを要する東北新幹線で大きな脱線が1件もなかったのも、幸運にすぎない。「早期地震警報システム」が有効に機能し、P波を検知して緊急停止させた。東日本大震災は、複数の巨大地震が順に連動したものだったので、本震が新幹線に達したのは、最初のP波検知から2分以上後だった。」
(スマートまちづくりフォーラムイン水戸、H24.2.11 次の大震災への鉄道の備え ㈱ライトレール 阿部等著より抜粋)
私の住まいのすぐ近くを毎日、新幹線が走り抜けていきます。
その音はいつの間にか騒音ではなく、わたしに安心感を与えてくれるものになりました。
新幹線が元気に走り抜ける平和な日々が続くことを祈り続けながら、明日からまた大混雑の中にもまれます。
週末、秋のプリンス・エドワード島への旅の続きを書ければと思っています。