映画「バービー」の主人公の髪形を「キノコ雲」に加工したSNS画像が波紋を呼び、日米間の原爆に対する認識の違いが改めて浮き彫りになりました。底流に平和への思いが込められた作品でも、そもそも日米では視点が違うのです。映画史をひもとくと、そんなギャップを乗り越えた挑戦的な作品もありました。【相原斎】

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 1945年7月16日のアメリカ山岳部戦時標準時の5時29分45秒、トリニティ実験における「ガジェット」が爆発。その0.025秒後の火球をハイスピードカメラによって撮影された写真がこちら。地平線に沿った黒点は樹木と思われます。この爆発でTNT(トリニトロトルエン)換算約19キロトンのエネルギーが放出され、爆心地には放射能を帯びたガラス質の石からなる、深さ3m直径330mのクレーターが残されたとのこと。 GETTY IMAGES

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 着せ替え人形を主人公にした「バービー」と、原爆開発者の半生を描いた「オッペンハイマー」が、くしくも米国で同時公開となったことが騒動のきっかけとなりました。注目作を「2本立て」で観賞する映画ファンが多く、バービーの髪形をキノコ雲に加工した画像などが次々にSNSに投稿されたのです。日本からすれば無神経な行為に映り、腹立たしい思いや悲しい思いをされた方も少なくないと思います。一方で、戦後間もない頃からキノコ雲のポップアートを当たり前のように目にしていた米国人にとっては、陥りやすい「画像加工」であったことも確かです。一連の投稿は日本からの批判を受けて削除され、配給元が謝罪する事態となりました。

 「バービー」は、「レディ・バード」(17年)で高評価を得たグレタ・ガーウィグ監督がメガホンを取った意欲的な作品です。女性が主人公の「人形世界」からやってきたバービーの目を通し、いびつな男社会の現実を浮き彫りにしています。

 クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」も、原爆開発者の苦悩を通して反戦反核の色濃い作品です。ロサンゼルス在住の千歳香奈子通信員によれば「若者向けの作品が多いサマーシーズンには似つかわしくない3時間超えの伝記映画にもかかわらず、異例のヒットになっています」。

 本来良心的で質の高い2作品の公開日がたまたま重なったことで、日米の認識の違いが改めて浮き彫りになったのです。

 「オッペンハイマー」には広島、長崎への原爆投下とその後の惨劇を描くシーンがありません。ノーラン監督の一種の配慮かもしれませんが、これが日米の視点の違いを端的に示しているように思います。

 今村昌平監督(06年、79歳没)の「黒い雨」(89年)は、対照的に原爆投下後の放射性降下物(フォールアウト)が題材です。公開当時、主演した田中好子(11年、55歳没)にインタビューする機会がありました。

田中好子は神妙な表情でインタビューに応えた(89年3月18日の紙面から)

 

 キャンディーズの解散で「スーちゃん」から女優に転身してちょうど10年。ほっそりとした外見に大きな瞳がよけいキラキラと目立ったことを覚えています。ロケ地岡山県の山村で半年間の「合宿撮影」を経て、体重はアイドル時代より8キロ落ちて「39キロになりました」と明かしました。

 劇中、田中演じる娘は、被爆した一家3人の中でただ1人原爆症の兆候が表れません。しかし、数年後のある日、ふろ場で黒髪がごっそりと抜け落ちてしまいます。どこかあきらめたような薄笑いの演技が記憶に残りました。

 「原爆が原因で、周囲がみんな死んでいく。1人で幸せになれない。むしろ、みんなの仲間になった方が…。そんな不思議な笑いなんですよね」

 田中は主人公の気持ちをそんな風に解釈したそうです。両親は東京・足立区で釣具店を営んでいましたが、戦時中、海軍工廠(こうしょう)に徴用されていた父親には悲しい経験と複雑な思いがあったようです。

 「撮影中の話をしたら、父が『これでお前にも一億玉砕の意味が少しは分かるだろう』って。確かに感じるところがありましたね」

 スーちゃん時代のイメージが残っていたこともあって、しみじみとした思い出話は意外でもあり、日本に根差した原爆や戦争への思いを改めて実感しました。

 戦勝国の米国で、反核の思いを伝えようとするなら、「オッペンハイマー」のような理性的な語り口が必要とされるのは想像に難くありません。対照的に、唯一の被爆国である日本の映画には、語り継がれる体験が感性として染み込んでいるのだと思います。

「ザ・デイ・アフター」の公開当時のポスター

 

 米中部のカンザスシティーを舞台に、米ソ核戦争勃発を想定した「ザ・デイ・アフター」(84年)では、核兵器の影響が科学的データに基づいて描かれています。「客観」に徹したニュース映像のようなカメラワークで、「30分以内にソ連のミサイルが飛来」という現実を受け止められない市民の表情が印象的でした。

 対して、新藤兼人監督の「原爆の子」(52年)を始め、「はだしのゲン」(76年、中沢啓治原作、山田典吾監督)「父と暮らせば」(04年、井上ひさし原作、黒木和雄監督)などの作品には、ダイレクトに心を揺さぶられてきました。 

 日米間の拭いがたいギャップを乗り越え、独特の視点から原爆の恐ろしさを印象づけて映画史に異彩を放っているのが「太陽を盗んだ男」(79年)です。

 この3年前に「青春の殺人者」を撮って一躍スター監督となった長谷川和彦監督(77)が、米国の脚本家レナード・シュナイダー(06年、62歳没)と共同で脚本を執筆したことで、米国的とも言えるちょっと突き放したような視点が生まれたのだと思います。

 中学校の理科の教師が原爆を作って政府を脅迫。その最初の要求は「プロ野球のナイター中継を打ち切らずに最後まで放送しろ」。大胆なストーリーには「ハリウッド的アイデア」が感じられます。

 一方で母親が原爆投下2日後の広島市に入り、胎内被爆している長谷川監督は、後にトークショーで「オレはおふくろの胎内で被爆しているのだから被害者そのものだと思うよ。ただその前に原爆なんてものを作ったり、落としたりする人類の一員であるわけで、そのことは避けて通れない」と、この作品に向き合う姿勢を明かしています。

 原子力発電所からプルトニウムを盗みだしてから原爆製造までの細密な描写に加え、劇中には国会議事堂や皇居前のアクションシーンもありました。そのきわどい内容は、今なら「バービー」騒動のような批判の嵐にさらされたかもしれません。ネットもSNSもなかった当時でも、資金集め、ゲリラ的撮影、そして公開決定までの間には綱渡りのような局面が何度もありました。

 ビッグスターの顔合わせが大きな原動力になったことも確かです。31歳で人気絶頂だった沢田研二が長谷川監督らの熱意に賛同して主演。脂ののりきった46歳の菅原文太(14年、81歳没)とスケジュール調整がついたのも当時としては奇跡のようなことでした。

 コンプライアンスの現代ではあり得ないゲリラ手法には運も味方しました。主人公が妊婦に扮装(ふんそう)して国会議事堂に潜入するシーンは逮捕覚悟の隠し撮りです。

「太陽を盗んだ男」の沢田研二(手前)と菅原文太(79年、東京・北の丸公園の科学技術館屋上で)

 

 沢田は後に「守衛さんは1人で『あれっ』て顔をしていたのでそのまま歩きました。撮り終わった瞬間にスタッフたちが僕を連れ出して逃げ帰ったんです」と振り返っています。

 製作費3億7000万円の半分近くが未調達のままの見切り発車でもありました。プロデューサーの山本又一朗氏(75)に改めて話を聞きました。

 「ゴジ(長谷川監督の愛称)の熱意が分かるから脚本を切るわけにはいかない。例えば皇居前の撮影には4省庁の許可が必要だったけど、どこもOKを出さない。それでも『やりますよ』と。そうしたら当時の皇宮警察のトップがささやくように『いつですか?』って。その日に連絡したら、車止めの一部がさりげなく取り払われていた。もちろんその後ろには何重ものガードがあるんですけどね。お金に関しては、確実にヒットが見込める映画を並行して作ることで乗り切ったんですね。それがいしいひさいちさんのコミック『がんばれ!!タブチくん!!』のアニメ化でした。想定以上の大ヒットとなり、続編も2本続きました。あれがなかったら、僕は億を超える負債を背負って、2度と立ち上がれなかったかもしれない」

 文字通り綱渡りの裏側がうかがえます。

 「太陽を盗んだ男」は「1970年代日本映画ベスト・テン」(18年=キネマ旬報社)で第1位となり、「オールタイム・ベスト映画遺産200」(09年=同)でも歴代7位に選出されています。

 がむしゃらとも言えるスタッフ、キャストの熱量と奇跡が重なって完成に至ったこの作品は高いエンタメ性の一方で、原子力発電所の危険性も示唆し、核の脅威を他にない視点で印象づけることになりました。

 「バービー」「オッペンハイマー」騒動が、一種ナショナリズム的批判で盛り上がってしまったことは、世界に反核の思いを伝える上で決していいことだったとは思いません。日米間にあるような視点の違いを克服して、原爆の恐ろしさを広げるためのヒントが、44年前のこの作品にあるような気がしてなりません。

 ◆相原斎(あいはら・ひとし) 

 1980年入社。文化社会部では主に映画を担当。黒澤明、大島渚、今村昌平らの撮影現場から、海外映画祭まで幅広く取材した。著書に「寅さんは生きている」「健さんを探して」など。「太陽を盗んだ男」を製作した山本又一朗氏は今では、小栗旬、綾野剛、田中圭ら多くの人気俳優を擁する芸能事務所トライストーンの会長。80年代には何度も取材する機会があり、製作不可能と思われる作品にこそ生きがいを感じる異色のプロデューサーという印象がある。そんな熱量が多くの実力派俳優を引き寄せたのかもしれない。