【社説・06.04】:長嶋さん死去/昭和を彩るスターだった
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説・06.04】:長嶋さん死去/昭和を彩るスターだった
プロ野球巨人で選手や監督として活躍した長嶋茂雄さんが3日、89歳で亡くなった。後に永久欠番となる背番号「3」を付け、チャンスに強い打撃と華麗な守備で多くのファンを魅了した。1965(昭和40)年から9年連続の日本一達成に貢献したが、この時期は高度経済成長期と重なり、戦後の日本社会に明るさをもたらした。野球界にとどまらず、昭和史そのものを彩る大スターだった。心から追悼の意を表したい。
長嶋さんは数々の記録を残した。首位打者6度、打点王は5度で、本塁打王も2度経験した。通算打率3割5厘、本塁打444本といずれも称賛に値する。だが数字以上にファンの心に刻まれたのは、グラウンドで見せた個々の名プレーだろう。ヘルメットを飛ばすほどのスイングや流れるような送球に全力を注ぎ、4番打者としても三塁手としても、ここぞという場面で輝き続けた。
引退セレモニーでの「わが巨人軍は永久に不滅です」などの名言で知られるほか、忘れ物が多いなどユーモラスなエピソードにも事欠かず、その明朗な人柄が親しまれた。
立教大時代から注目を集め、58年に巨人に入団した。デビュー戦では国鉄の金田正一投手から4打席連続三振を奪われた。ここから奮起し、1年目で本塁打王、打点王となって新人王を獲得したのが、努力家で負けず嫌いの長嶋さんらしい。
翌59年の6月25日、プロ野球で初めての天覧試合では、阪神の村山実投手から劇的なサヨナラ本塁打を放った。阪神ファンにとっては悔しい記憶となったが、球史に残る名シーンであることは間違いない。
一塁手で3番を打った王貞治さんと「ON」コンビを組んで「V9」時代を支えた。「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」の代名詞通り、巨人の黄金期をけん引すると同時に野球界、ひいてはスポーツ全体の人気を高めた。その功績は極めて大きく、国民栄誉賞や文化勲章を受けたのもうなずける。
74年の引退後は、巨人の監督を2度にわたって務め、5度のリーグ優勝と2度の日本シリーズ制覇に導いた。指導者としても一流だった。
日本代表監督に就いたものの、アテネ五輪出場権を得た後の2004年に脳梗塞で倒れ、五輪での指揮はかなわなかった。しかし厳しいリハビリを経て表舞台に戻った。21年の東京五輪開会式では王さん、巨人などに在籍した松井秀喜さんと聖火リレーに参加し、拍手を浴びた。
日本の野球選手が世界でも通用する時代になったのは、長嶋さんらが道を切り開いた結果だ。今後も多くの若い人がその後に続き、野球ファンを楽しませてもらいたい。
元稿:神戸新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2025年06月04日 06:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。