[※ 青木理さん(『サンデーモーニング』2017年11月19日)↑]
『久田将義責任編集/TABLO』(http://tablo.jp/)の記事【青木理「逆張りの思想」/週刊新潮へ記事提供 記者は他社媒体に記事を書くことを「許されない」のか】(http://tablo.jp/serialization/aoki/news003221.html)。
《すべての記者が「他メディア」に情報提供しなくなれば、私たちが多様な情報に触れる機会は激減し、この社会は相当に風通しが悪くなる…多くのメディアも現場記者間の情報提供や情報交換によって成り立ってきた側面がある…知り得た情報を、なんとか世に伝えたい。残念ながら所属メディアで伝えるのは難しくとも、他のメディアなら可能かもしれない。…たまたま特定のメディア組織に属してはいても、記者が本来奉仕すべきは、広い意味での読者や視聴者》。
『●「膿」で出来上がった政権、政党…ウルトラ差別主義者=
麻生太郎財務相の「責任」は有耶無耶に?』
《日刊スポーツの記事【玉川徹氏、テレ朝女性記者の行動「正しかった」】
…によると、《玉川氏は、取材で知り得た情報を第三者である週刊新潮に
わたした女性記者の行為について「公益通報だったんだろうと思う。
会社に上げても上に上がらない、と。本当は我々は伝えるべきメディアだから、
これはテレビ朝日で伝えなければいけなかったんだと思います。だけど
彼女はそれを伝えることができないと考えて、きっと正義感と良心から
週刊新潮に持ち込まざるを得なかったんだと思う」と私見を述べ、
「彼女がやったことは正しかった」と言い切った》》
玉川徹さん曰く《きっと正義感と良心から…》…きっとそうだと思う。青木理さんの言うように、《いずれにせよ、記者が他のメディアに情報を提供するのは必ずしも「不適切」ではない》。
『●「膿」で出来上がった政権、政党…ウルトラ差別主義者=
麻生太郎財務相の「責任」は有耶無耶に?』
『●「謝罪会見の場に、被害女性を散々おとしめた
麻生氏の姿はなかった」…ウルトラ差別者の責任は有耶無耶?』
それにしても、またしても、ウルトラ差別主義者・麻生太郎財務相の「責任」を有耶無耶にするつもりか?
東京新聞のコラム【【私説・論説室から】#MeToo余話】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2018043002000138.html)によると、《そんな中で性暴力問題に取り組むグループから、メディアで働く女性たちの被害を調べるための匿名アンケートに協力してほしいと求められた。日ごろは取材する側にいる自分が今は尋ねられる側にいる。記者になって二十五年を思い出しながら答える…。こうして社会から関心を持ってもらえる私たちはまだ恵まれているのだと思う。「はめられた」という麻生太郎財務相らの発言は、政府の掲げる「女性が輝く社会」が、いかに陳腐で空虚なものかを白日の下にさらした》。
テレ朝を攻撃し、テレ朝に責任を押し付けようとしている。またしても、ウルトラ差別主義者・麻生太郎財務相の「責任」は有耶無耶になるのかと思うと、腹立たしくて仕方ない。何度有耶無耶にすれば気が済むのだろう。
月刊誌『創』の篠田博之さんによる【月刊「創」ブログ/福田次官セクハラ事件めぐるテレ朝現場への報復攻撃という気になる展開】(http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2018/04/post-247.html)からの長い引用:
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…この上司が、現場記者のセクハラ告発を握りつぶしたかのような印象を持たれていたのだが、実態はそうでない。そもそもMさんは、セクハラの訴えを握りつぶすようなタイプとは正反対のジャーナリストだ。
このことは会見の後、業界の一部で話題になり、例えば東京新聞の望月記者はツイッターにこう投稿していた。
《福田次官のセクハラ被害を訴えたテレ朝記者の上司は、私が最も尊敬する女性だ。訴えた記者も信頼を寄せている。その上司がなぜ「記事は出せない」と言ったのか。もみ消すためではない。これまでの会社の行動からすれば、逆に潰される可能性が高いと判断したという。日本のマスメディアに共通の課題だ》
《セクハラ被害を訴えたテレ朝記者の上司は、被害を記者から聞いた際、夜のサシ飲みには「もう行かない方がいい」と助言。記者はしばらく行くのを止めていたが、森友の公文書改ざん、財務省の虚偽説明が次々と明らかになる中、取材を進めるため電話に応じ、夜の会合へ。その先で一連のセクハラ被害に遭った》
…テレ朝の社員である玉川徹さんが女性記者について「会社に言いたいんだけど、彼女が記者を続けたいと思っている限りは、記者を続けさせるように何とかしてくれと、ボクは言いたいんですよね」などと発言していた。社員が生放送の番組でこんなふうに会社上層部に意見を述べるというのは、考えて見ればすごいことだ。
…今まさにAさんやMさんに対して、テレ朝内「反安倍」一派の陰謀だなどとして個人攻撃が行われている現状で、そういう攻撃をしかけている人たちを喜ばすようなことはないように、テレ朝上層部にはお願いしたい。
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ウルトラ差別主義者・麻生太郎財務相や下村博文元文科相、財務省の矢野康治官房長ら…《セクハラを認めず、またはセクハラのどこが悪いと開き直ること自体が、セカンドセクハラ》。アベ様の政権や与党自公、《忖度》官僚ら、根幹から腐敗しきっている。
日刊スポーツのコラム【政界地獄耳/開き直ることがセカンドセクハラ】(https://www.nikkansports.com/general/column/jigokumimi/news/201804280000228.html)によると、《麻生の「はめられた」発言に、テレビ朝日アナウンサーの小川彩佳は「そういった声が予想されるから、声を上げられない。他の同じような被害に苦しんでいる人の傷口も広げた」と指摘…。つまり福田のセクハラ行為よりも麻生や下村、矢野らのセクハラを認めず、またはセクハラのどこが悪いと開き直ること自体が、セカンドセクハラだということだ。それを正論として言い続ける限り、事態は収拾などしない》。
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【http://tablo.jp/serialization/aoki/news003221.html】
青木理「逆張りの思想」
週刊新潮へ記事提供 記者は他社媒体に記事を書くことを「許されない」のか|青木理
2018年05月01日 セクハラ テレビ朝日 朝日新聞 読売新聞 財務事務次官 青木理
財務事務次官の醜悪なセクハラ問題は、さまざまな観点から論議が交わされている。そのうちここで記したいのは、被害者の女性記者が情報を「第三者」ーーすなわち『週刊新潮』に提供したのは「不適切」だったのか、という点。
これをことさら問題視する声は多く、大手メディアでは『読売新聞』が4月20日付朝刊の社説でこう書いている。
〈取材で得た情報は、自社の報道に使うのが大原則だ。
データを外部に提供した記者の行為は報道倫理上、許されない〉
女性記者が所属するテレビ朝日も、当初はこの点を「不適切であり遺憾」と報道局長が会見で述べていた。ただ、その後に社長がやはり会見で「公益目的からセクハラ被害を訴えたもので、会社としても記者の考え、心情は理解できる」と語り、軌道修正している。
とはいえ、これはあくまでも「セクハラの被害者」として『週刊新潮』に告発したことを「理解」したものであり、記者としての情報提供まで容認したとは受け取れない。
では、記者が取材で得た情報を「第三者」に提供することは「不適切」なのか。もちろんここでは「第三者」を『週刊新潮』のような「他メディア」に限定して議論を進める。
一般論としては、決して適切とはいえないと私も思う。取材された者は通常、記者が所属するメディアで報道されることを前提としているからである。
しかし、これもまた建前的な原則論であり、すべての記者が「他メディア」に情報提供しなくなれば、私たちが多様な情報に触れる機会は激減し、この社会は相当に風通しが悪くなる。
具体的に考えてみよう。たとえば、月刊誌『文藝春秋』には「赤坂太郎」という筆者による連載がある。政界の生々しい動静や裏話を赤裸々につづり、長年にわたって続いてきた同誌の名物連載でもある。いうまでもなく「赤坂太郎」はペンネーム。大手メディアの政治部記者たちが代々、寄稿したり情報提供したりすることで成り立ってきた。
あるいは、会員制という形態を取る『選択』や『FACTA』といった雑誌もある。記事の大半は無署名だが、大手メディアではなかなか報じられないディープな情報がしばしば掲載され、私も愛読している。このうち『選択』は、次のような宣伝文句を古くから掲げてきた。
〈『選択』の編集には、国内外の400人を超える第一線のジャーナリスト、
学者、作家、さらには政・財・官界人らが多数参加しています。
『選択』はマスコミ界を横断する組織によって作られています〉
ここにある〈国内外の400人を超えるジャーナリスト〉には、大手メディアの記者が多数含まれている。いや、それがほとんどといってもいいのではないか。本サイトの編集長である久田将義くんも『選択』の編集者だった経験があるから、私よりもよく分かっていると思う(笑)。
かつて一世を風靡した月刊誌『噂の真相』などもそうだったし、ほかの多くのメディアも現場記者間の情報提供や情報交換によって成り立ってきた側面がある。かくいう私も、組織メディアに属していた時代、さまざまなメディアに情報を提供したり、記事を執筆したりしてきた。逆に、他メディアの記者や編集者から情報を提供され、特ダネ記事を書いたことだって幾度もあった。
では、なぜこういうことが行われるのか。
残念な話ではあるが、それぞれのメディアには、それぞれのメディアの存立基盤や特性上、それぞれにタブー的な分野やテーマが存在する。取材先である当局や企業、大手芸能事務所、またはスポンサーや広告代理店との力関係のほか、記者クラブ制度などに由来する悪弊や所属メディアの社内事情などもある。そのようなものはすべてなくなるのがまさに理想ではあるし、タブーは打ち破るべく最大限の努力を尽くすのが重要なのは当然だが、現実にはなかなかに難しい。
そんな時、記者たちは他メディアに情報を提供する。もちろん、提供する際は取材源に不当な不利益や迷惑をかけぬよう配慮するべきだし、提供された側もそれを垂れ流しにするわけではなく、裏づけ取材を尽くす。なかには原稿料目当ての不届き者がいることを否定はしないが、他メディアに情報提供する多くの記者たちの心境はおそらく違う。
知り得た情報を、なんとか世に伝えたい。残念ながら所属メディアで伝えるのは難しくとも、他のメディアなら可能かもしれない。繰り返しになるが、それぞれのメディアにはそれぞれのしがらみがあり、こうしたことはしばしば起きる。それを一刀両断に「不適切」と封じてしまえば、情報自体が世に伝わらない。
それは今回のセクハラ問題をみても明白だろう。女性記者が『週刊新潮』に情報を提供しなければ、財務省トップのセクハラ問題そのものが表沙汰になることはなかった。
そういえば、〈データを外部に提供した記者の行為は報道倫理上、許されない〉と社説で書いた『読売』の記者から、私は何度か情報提供を受けて原稿を書いたことがある。貴重な情報を提供してくれた記者のうちの一人は、こんなふうに理由を明かして自嘲した。
「ウチは、トップが決めた社論に反するネタは書けないから」
もうひとつ、この論点をめぐっては、記者=ジャーナリストの独立性という問題もはらんでいる。たまたま特定のメディア組織に属してはいても、記者が本来奉仕すべきは、広い意味での読者や視聴者。記者たちがタブーなき核心情報を広く社会に伝えるためなら、組織の垣根を越え、もっと広く深くつながってもいい。個々の記者がもっとゲリラ的に動き回ってもいい。これを論じると長くなるので、また別の機会に書こう。
いずれにせよ、記者が他のメディアに情報を提供するのは必ずしも「不適切」ではない。(文◎青木理 連載『逆張りの思想』第六回)
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