負けに不思議の負けなし

2022-03-29 14:10:30 | 学習塾・勉強の仕方

勉強なんて(なんて、という言い方がよいかどうかはこの際別にして)、できればそれに越したことはないし、できなければできないで生きていく上で決定的な障害になるわけでもありません。

とは、私が中学生だった頃、先生に言われた言葉です。 この先生はちょっと個性的であって、他の先生のように決まりきったことをあまり言わないのが特徴でしたが、アルコール中毒であったことが自身の評価を落としていて、校長先生などもあからさまに彼を小馬鹿にしていた感じがありました。

私としては、それでも自分のスタイルを貫こうとするこの先生には一目を置いていたものです。

その彼が言った言葉の一つに、「負けるには負けるだけのわけがある」という意味のものがありました。

後に私はこれと同じ意味の言葉をニュースか何かで見ました。それは故野村克也氏の言葉でした。 野村氏が野球の試合の勝ち負けについて語った言葉の中に、「負けに不思議の負けなし」というのがあって、これを目にした時は、ぼんやりとその意味を想像したものですが、今は、この言葉が言わんとする本来の意味が私にはよくわかります。

ことは野球の試合だけではもちろんなく、「人が生きていく上での様々な局面で言えること」ではないかとさえ思います。勿論、冒頭書いた「勉強」においても。 「できなければ、それはそれでいいや」と達観というか、見方によっては開き直るような受け止めの仕方をよしとするならば、それもまた一つの生き方ではあると思います。

でも、(勉強を)やってこなかった結果として、生きていく上で直面する多くの場面で様々意に沿わない制約を強いられる時(くだいて言えば、学歴や学力の不足や違いだけで戦う前から不利益を被る理不尽さ)が、きっと人生のどこかで待っていると思うのです。 今、私は敢えてこれ(上に書いた理不尽さ)を「負け」と評しています。そして、この負けの理由は極めて単純で、そこには何の不思議もありません。理由は単に「やってこなかったから」です。

勿論異論はあるかと思います。

そもそも、そんなものは誰にでもあることであって「負け」でもなんでもないではないか、という人もいるでしょう。

中学生のある時期、私は自身そこそこ勉強が出来るということに慢心するあまり、日常のこまごまとした義務的なことをないがしろにすることも少なくなく、そういう状態でそのまま卒業していくことをきっとあの時の先生は戒める意味で言ったのだと今は思います。そんな舐めた生き方をしていくようでは、お前はきっとどこかで人生の理不尽さに直面するぞ。そして、その時になっていくら反省しても後悔しても、そうなった理由に不思議なところなど何もないんだよ。誰もせいでもない、全て自分の蒔いた種なんだ、と。


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