人と話をするとき、私(マスターK)には一定のルールがあって、常にそれを意識しています。
例えば、ら抜き言葉、語尾上げ、語尾伸ばしなどは使いません。
他にも「なのでー」とか「全然大丈夫」などといった情けない言葉は使いません。ファミレスなどで料理を運んでくる人が「こちらが●●になります」なんていうと、思わず「はじめからなっているよ!」と言ってやりたくなります。
別に恰好をつけているわけではありません。
思えば、小学3年~6年の間、担任の先生が国語の指導にとても熱心であったことが幸いしたかもしれません。
そう思うとき、私たちが対象とする年齢脳が子供たちのそれであることを特に重く意識して、ここは気を抜かず徹頭徹尾正しい日本語(の用法)を通していかなくてはならないと思う次第です。
「そんなこともわからないのか」とは、なんと不躾で好戦的な台詞かと思う方もきっとおられると思います。
でも、日々生きていると思わずそんな風に思ったり言いたくなってしまうことがあります。
そんな時、多くの場合私は昔読んだことのある次のような詩の一節を思う起こす癖が何時の頃からかつきました。
♯気持ちよい生活を送ろうと思うなら
過ぎたことにくよくよせず
滅多なことに腹を立てず
とりわけを人を憎まず
何時も現在を楽しみ
そして未来を神に任せよ
細かな言葉の用い方などは少し違うかもしれませんが、作者が言いたいことは概ねあっていると思います。
昔、JOHN LENNONのIMAGINEというLPレコードを聴いて、争いのない世界を歌い上げるJOHNの精神の一端をそこに垣間見た気がした時、同時にそのレコードの中のHow do you sleep?というタイトルの一曲で、争いのない世界を想像してごらんとい歌うその同じ人物が、かつて仲の良かった(と思われる)Paul MacCartneyをこれでもかと小馬鹿にする歌を歌うその滑稽さを見て「なんだかなあ」と思ったことがありますが。「なあんだ、かっこいいことを言いながら自分自身争いをしているじゃないか」と。
それと同じことを、自分自身もこれまた日々経験しています。つまり、良い詩を読んでいながら、腹も立てるし、人を憎むことだってあります。
救いは、そうしている自分に気づいたときにすぐさま「いかんいかん」と自らこれを諌め、結果としてこれらを「滅多にない」状態に近づけようと努力する姿勢にあるんだ、という自覚です。
いまこれを、ものごとの、それも子供の勉強の仕方などをめぐる生活上の、大切ではありますが、ごく一部分にすぎないことの本質的なところについて考えていない(ように見える)、それでいて短絡的で思慮の欠けた行き当たりばったりの態度を繰り返すことで、保護者として大切な子供と一緒に暮らすことのできる宝石のように貴重な極々短い時間の多くを結果として無駄にしている(ように見える)人の利益(と書くと如何にも即物的で卑小な感じですが)の為に、かつて自分自身にそういう過去があったという自責の念と共に、何が今の自分にできるのかという思いで書いています。
昨日は非常に忙しく、今朝目覚めても頭の中はまだ昨日の喧騒(まるで太宰の小説の「饗応夫人」のよう)が脳内に残っている、そんな状態の、いわば無意識に近い部分でコーヒーを口にしながら書きました。
これまで何人もの自称学習障害児の子供たちと出会ってきました。
それらは全て保護者がそのようにいうのであって、決して子供たちが自らそうなるるわけではありません。中にはキッチリしているというか神経質と言うか、何某かの医師の診断書を持参して「うちの子はこうなんです。こういうレベルなんです」といった例もありました。
我々はプロの医師ではないですし、ここで診断や判断を下す資格もありませんから、であればやることとして、保護者の方はこの子の近未来でこの子を
どういったレベルにもっていかせたいと考えているのかをしっかり訊いて、学習塾が出来ることを正確にそれに照らし合わせて納得をされた場合に初めてプロジェクトは動き出します。
大抵の場合は、学校の中、クラスの中で平均的なレベルの学力を何とか養成していくこと、テストの点数や成績表の評価で「これなら」と納得できるものを手にすること、一定程度または特定の志望校に子供を合格させることなどがほぼすべてのケースで目標とされるものとなりました。
結論から言えば、無茶なことを言われたり要求されたり、短兵急に結果を要求されず、月単位での努力期間をしっかり設けて、当然ですがその間サボったりリタイヤしたりしない限り、ほぼすべてのケースで事は成功裏に終わることができました。
端的な意味で目先のものを含めて「子供が勉強できない、しようとしない」ことにフォーカスして「だから学習障害」と言い切ってしまう保護者の見方も一定程度理解は出来ます。
ここでいう「勉強できない」というのは、おそらくテストの点が取れない、成績表の数値が悪い、というところで判断しているのかと思います。
もっと掘り下げれば、「テストの点が取れない」というのも、「他の子と比べた場合に」かもしれませんし、或いは昔の自分自身(保護者自身)と比べているのかもしれません。
もう少し思慮深い保護者なら、例えば子供が今中学生である場合、特定の高校を志望した時に学校の教師や塾の講師たちが「合格にはこの点数以上が必要」といって示すテストの点数に比べて言っているのかもしれません。
これらのどれであっても、大切なのは、そういった比較の正確さ、もっと言えば「理にかなった見方」であるか否かの整理です。
これは教室で実際にあったことですが、中学生の或る塾生は入会時はさすがに保護者が心配するだけのことはまああるテストの点数ではありましたが、我々はこの子と何度も何度も話を積み重ねていく中で、この子の「点数が取れない」理由のいくつかをほぼ正しく理解しましたので、それについてこの子の母親とも何度も話をして、リーズナブルな新勉強法を組立て、同じくリーズナに、近い将来のどの時点で何点、その後またどの時点で何点を取れるようにしていくか、そして最終的に県立高校の(今は厳しくても)どのレベルのところを合格目標にするかを繰り返し確認しながら以後の日々を過ごしていきました。
しかし、ここで問題が起こりました。父親の存在です。
この子の父親は、我々から言えば誤った考え方に基づいた誤った教育方針(←に勉強面において)を、母親やこちらが何度言っても決して見直そうとも修正しようともしないタイプで、しかも乱暴でした。
子供が目に見えて伸びてきている中でも「俺は(もっと)出来た」とかなんとか、自分の子供時代のしょうもない自惚れや過剰な自負からくるところの「子供の努力を頭から否定する」有様で、これでは糠に釘、暖簾に腕押しです。そして、彼の頭の中には自らの子供を、そうとは口に出して言わないまでも「学習障害児」扱いする姿勢が色濃く反映されていて、それらは例えば塾での三者面談でも、子供に向かって「テメエバカヤロウ」などといった醜い言葉の数々で容易にわかりました。
例えこの人物が子供だった頃に「出来ていた」ことが事実であったとしても、我々からすれば「だったら何?」という話です。
そんなゴタクはたとえ1万回聞かされても、今目の前に座って小さくなっている可哀そうな子供にとえっての建設的で具体的な生きた提言であなどある筈もありません。
ですから、繰り返します。
必要なこと、大切なことは、軽々に学習障害というくくりに押し込んでねげいてみせるプチ満足感に浸るのではなく、今、そしてこれから何をどうしていくかについて今一度頭をクールにして考えてみましょうよ、と。
続き。
学習障害という言葉に敏感なのは、子供が勉強嫌いであったり、成績がちっとも伸びないなどといった日常誰もがありがちな悩みをお持ちの子供の保護者、特にお母さん方ではないかと思います。それらは確かに悩みの種ではあろうかと思いますが、でも学問的な意味、或いは厳密な意味での学習障害がこれなのかというと、それらが常に一致するものではありません。時には単なるだらけた生活の問題であったりもします。
シンポジウムでは、そういった正しい考え方をする必要が繰り返し述べられていましたが、これはそのまま、いかにこの辺(勉強が出来ないという問題とその他の要素)を一緒くたに考えて右往左往している人が多いかということの裏返しでもあります。
私も、他のシンポジウム参加者の多くも、おそらくは医師でもなければ、特に医業に従事する人間ではないと思います。ですから、ここで「学習障害とは?」という命題をその方面から論じることはここではできませんし、そうする意味もありません。私たちが今考えるべきことは、言葉の上ではなく、現実の生活の中で「学習或いは勉強面で何某かの問題を抱えている子供、或いはそういう子供の保護者にとって、何をどうすればその現状を打開できるだろうか」という、まさに目の前の行動について策を練ることだと思います。その意味で、まず最初に学習障害とは何であるかという、いわば言葉の定義を正しく認識するところから始めることが大切ですよ、と言いたいわけです。
で、ここでいきなり私なりの結論ですが、この場合、「やるべきこと?そんなもの色々あってその人たち一人一人の緊急度に応じて片っ端から手をつけるもよし、取捨選択したうえで着手するもよし」です。
私の立場~学習塾~~すれば、現実的な策としてはまず3~5の取り組み方を保護者に向けて提示します。うまくいけばそれらの中の一つが当たるかもしれませんし、或いはそれらのいくつかを組み合わせる中でより良いものが見いだせるかもしれません。それはまず話を詳しく聴いてみて、そして実際に着手しないことにはわかりません。