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日々の日記など

東京都美術館 「ボストン美術館の至宝展」記念講演会『コレクターとコレクション―ボストン美術館の日本・中国美術』

2017-08-20 | 講演会
スッキリしない空模様の日曜日。
めっちゃ蒸し暑いですが、
東京都美術館で「ボストン美術館の至宝展記念講演会」
があったので、行って来ました。

1300時に講演会整理券の配布開始ですが、
1230時頃に、配布場所に到着。
最終的にはまぁまぁの行列になっていましたが、
満席までにはならなかった様です。

今日の講師は、神戸市立博物館学芸員の石沢俊さんで、
講演タイトルは、
「コレクターとコレクション―ボストン美術館の日本・中国美術」

この『ボストン美術館の至宝展』は、
東京都美術館・神戸市立博物館・名古屋ボストン美術館と
巡回する展覧会なのですが、各美術館・博物館で分担して、
展覧会のテーマの中身を企画したそうです。
今回講師の石沢さんが所属する神戸市立博物館が、
日本・中国美術を担当したので、今回の講演となったそうです。
ちなみに、東京都美術館は、西洋美術を担当。
それぞれ、得意の分野と言うのがあるんですね。

さて、講演の中身は以下の感じ。

  • 今回の『ボストン美術館の至宝展』は、コレクション、コレクターと言う観点で展覧会を構成
  • ボストンに関連する美術コレクターなどのボストニアン、ボストン市民に支えられていると言うところに、ボストン美術館の特徴がある
  • 今回の展覧会に際しては、三年ほど前にボストン美術館を現地調査。今やっと展覧会の開始となった。

    モースについて
  • いわゆるお雇い外国人で、元々は貝の専門家。大森貝塚の発見者としても有名。
  • モースは、帰国後、日本文化についての講演を行うが、その講演が、フェノロサやビゲローなどボストニアン来日のきっかけとなる
  • ボストン美術館のコレクションには、必ず誰のコレクションかわかる様にキャプションを入れるのが特徴。それだけボストニアンを大事にしていると言う事

    フェノロサとウェルドについて
  • モースの推薦でフェノロサは来日
  • ビゲローの保証と斡旋で、フェノロサは自身のコレクション売却契約をウェルドと締結。フェノロサ=ウェルド・コレクションとしてボストン美術館の寄託となる。その際、フェノロサはボストンから出さない様にとの条件を付けた。しばらくは、寄託と言う扱いだったが、1911年にボストン美術館に所有権が移り、今に至る
  • 曾我蕭白の《風仙図屏風》。描かれているのは"陳楠"と呼ばれる仙人。蕭白37才くらいの作品。蕭白の作品は40数点あるが、欧米ではアクセッションナンバーで作品を管理する。右隻左隻それぞれに付けるので、アクセッションナンバーとしては2つになるので、アクセッションナンバー的には50幾つになっている
  • 喜多川歌麿の《三味線を弾く美人図》。歌麿の肉筆画は53点が確認されているが、そのうちの一つ。美人の視線の先に5人の狂歌が書かれている。
  • 英一蝶の《月次風俗図屏風》。

    ビゲローについて
  • 元々は外科医。実家は裕福で、それを元手に日本の古美術を収集
  • 曾我蕭白の《飲中八仙図》。画中画としてお釈迦様が描かれている。飲酒と言う世俗的な行いと、お釈迦様の姿を対比させようとしたのか?実は、今回の出展に際して修理が行われた

    中国美術コレクションの補完、拡充について
  • フェノロサと五百羅漢図。1894年『大徳寺五百羅漢図展』が行われ、100幅のうち44幅を展示していて、そのうち10幅がボストン美術館に収蔵される。これは、廃仏棄釈によって荒廃した大徳寺の修理費用捻出のためとされている。ボストン美術館収蔵の10幅のうち5幅は通常の購入予算で購入されているが、残り5幅は寄付金で購入されていて門外不出になっている。肉眼では判らないが、金泥で中国からの由来が書かれている。
  • 岡倉覚三(天心)と中国日本特別基金。欧米の美術館なので欧米のキュレーターであるべきと言う岡倉の考えで、ボストン美術館では嘱託の職にしか就かなかった。岡倉は、理事会にコレクション充実のための基金設立を訴え、理事会は寄附金で1905年基金設立。その後、その資金で中国日本の美術品の充実が図られた
  • カーティスと九龍図巻。カーティス没後、基金が設立され、その基金で九龍図巻が購入される。金額に換算することはできないが、近年購入された六龍図巻は60億とも言われていて、九龍の本作品は・・・(笑)

    幻の巨大涅槃図について
  • 英一蝶の《涅槃図》は、構図などから、命尊の《仏涅槃図》の系列と見られている
  • 英一蝶の《涅槃図》には、51種類の動物が書かれている。描かれた当時は、ヒョウはトラのメスと言う認識だったので、トラとヒョウでつがいとして書かれている
  • この涅槃図の墨書には、嘉永3年に納められたと書かれているが、納められた先の吟窓院の所蔵目録には、嘉永2年の所蔵と書かれている。このずれは謎であるが、嘉永2年に大火があり吟窓院では色々燃えてしまった様である。檀家の古筆家が、吟窓院の復興を祈念してこの作品を納めているが、一先ず、嘉永2年の段階で吟窓院に納めることとし、実際に所蔵されたのは嘉永3年だったのか?

    コレクターとコレクション
  • 松村景文・岡本豊彦・東東洋の《松に鹿蝙蝠図屏風》と岸駒・呉春・東東洋の《梅に鹿鶴図屏風》は左隻右隻のペアの作品だが、《松に鹿蝙蝠図屏風》はフェノロサ=ウェルド・コレクション、《梅に鹿鶴図屏風》はウィリアム・スタージェス・ビゲロー・コレクションとコレクターが違っている。最終的にはボストン美術館に納められると言う事が念頭に、コレクターはコレクションしていたと言う事を示しているのか?

こんな感じでしょうか。
うまくテーマを区切って講演されていたので、非常にわかりやすかったです。

国立西洋美術館 アルチンボルド展関連講演会 『アルチンボルドと北イタリアの美術』

2017-07-01 | 講演会
雨。
梅雨っぽい天気なのは良いとして、
湿度も高くて、めっちゃ蒸し暑いです。
そんな土曜日の今日は、
国立西洋美術館のアルチンボルド展関連講演会に行って来ました。

国立西洋美術館の講演会も、東京都美術館と同じく、
聴講券の整理番号順の入場になったんですね。
聴講券さえもらえれば、順番なんか関係なかったのが、
国立西洋美術館の良いところだったんですが、残念です。

そう言う事になったからなのか、
12時の聴講券配布時間に対して、
11:15過ぎに到着してみると、
既に行列が形成され始めていました。
まだまだ待ち数は少なかったのですが、
このままだとやばいと思い、
そのまま行列の人に(笑)。
配布までの45分、立って待ちましたよ。
疲れたよ。

それで、上記に記した聴講券の整理番号ですが、
聴講券の端っこに、小さく記されているだけ。
これじゃぁ確認しにくいんじゃ無いですかね?
その為か、東京都美術館では「何番から何番の人」
という感じで、10番くらいずつ入場するのですが、
こちらでは、番号を一つ一つ読み上げていく方式。
もっと効率化を考えるべきですね。

さて、今日の講演会ですが、
講師は、青山学院大学教授の水野千依さんで、
タイトルは「アルチンボルドと北イタリアの美術」
定刻通りの開始です。

要旨は以下の感じです。

  • 《春》人の顔であることは直ぐわかる。歯は鈴蘭。
  • アルチンボルドの絵画は、作品を定点ではなく、様々な視点で見るようにしているところが特徴。遠/近、全体/細部、統一性/複合性など、様々な視点で描かれている。
  • アルチンボルトは、「奇矯(ビッザリーエ)」、「奇想(カプリッチョ)」、「諧謔(スケルツォ)」、「酔狂(グリッリ)」と形容されていた
  • アルチンボルドの絵画は、寄せ絵(合成肖像)。
  • アルチンボルドの絵画では、人体で最も優位である頭部に小宇宙と大宇宙を配置している->二つの世界に新たな世界を示している
  • アルチンボルドの初期の作《キリストの生命の樹》は、オーソドックスな古風な様式。《聖母の御眠り》もオーソドックス。後の、寄せ絵的な要素は見られない。
  • 元々ミラノで活動していたアルチンボルトが宮廷に招聘され、宮廷画家になった経緯は不明
  • 皇帝一家の肖像と同じ頃に四季連作を制作。皇帝一家の肖像は、オーソドックスな肖像画で、他方、四季連作は寄せ絵になっている。同じ時期なのに、二つは全く異なる。
  • 宮廷活動中の作品で残存するものは希少。見世物・祝祭の仕掛け・装置・演出の様な一過性のものを行っていたから?と考えられる。
  • ミラノ帰還後、友人のパオロ・モリージャ、パオロ・ロマッツォ、グレゴリオ・コマニーニなどに宮廷での活躍を記録させた。
  • 《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世》はミラノ帰還後に制作した。
  • 四季と四大元素は皇帝に気に入られ寝室に飾られていた
  • ジョヴァンニ・バッティスタ・フォンテオの皇帝への新年の祝儀に贈呈された詩では、森羅万象を支配下に置いた神聖ローマ皇帝寓意として連作を解釈している。
  • 《春》後にスペイン王フェリペ二世に贈答。描いているのは、若年の女性と見られる
  • 《夏》新大陸から輸入されたトウモロコシも描かれている。ハプスブルグ家の力が世界中に及ぶことを暗示している。描かれているのは壮年の女性と見られる。寄せ絵なので、いい加減に描かれているかと思いきや、解剖学的には実は正確に人体を描いている
  • 《秋》中年期の男性を描いている。
  • 《冬》藁のマントに“M”の文字がある様に、皇帝マクシミリアン2世を示唆。冬は一年の始まりと考えられていて、皇帝の象徴である。
  • 《大気》マクシミリアン2世が、動物園のために輸入した新大陸の鳥も描かれている。オーストリア王家の鷲と孔雀も描かれている。錬金術的には男性的な肖像
  • 《火》双頭の鷲、羊毛騎士団があってオーストリア王家をイメージさせている。中世騎士道精神を示している。男性的。
  • 《水》滑っとした魚で描かれているが、実は女性の肖像。
  • 《大地》ライオンと羊毛の毛皮はハプスブルグ家を象徴。錬金術的には女性的気質を描いている。
  • 四季連作、四大元素は、王候君主のコレクション趣味“クンスト・ウント・ヴンダーカマー(芸術と驚異の部屋)”を絵画で実現したと言える。
  • G.B.フォンテオは、四季連作、四大元素をして「ハプスブルグ家に世界の諸王朝が頭を垂れる」と言っている
  • 四季、四大元素では、様々な年代の男女が描かれているが、これはハプスブルグ家は様々な年代の人材がいて永続的と言うことを象徴。また、ハプスブルグ家の婚姻政策(婚姻関係により、勢力範囲を広げていく)を称揚していると言う説もある。またその他、ハプスブルグ家の豊穣と栄光を暗示している
  • 今回の展覧会での四季連作、四大元素はハプスブルグ家の栄光を描いているが、四季連作には他の王家向けの別バージョンもある。
  • 四季連作や四大元素は、特定の人物を描いたわけでは無く、ハプスブルク家を象徴的に描いているが、《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世》では、ルドルフ2世そのものとしての肖像である。意味的には、四季連作と四大元素を内包。交換不能な身体=ルドルフ2世である。正面像であり、両性具有性も見られる。これらは、永遠の春を支配する、ハプスブルグ家の大望が秘められている。
  • ウィーンの四季連作が寄せ絵の最初の着想ではなく、ミラノ時代に作られたと思われる初期作品がある。ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに寄託の作品がそれ。作者不詳のエッチングもミラノ時代に着想されていたことを示唆している。
  • レオナルドの自然研究の成果が、ミラノの芸術文化に深く影響を残している
  • レオナルドの相貌研究。《最後の晩餐》で、キリストの発言の衝撃の波紋を描き出している
  • レオナルドの頭部の研究の成果は、鑑賞者にも伝わり影響を及ぼす。それらの研究の成果が、グロテスク肖像に繋がっていく
  • グロテスク肖像がレオナルドの弟子達に継承されていった結果、ジャンルとしてのカリカチュアが成立した。ジョヴァンニ・アンブロージョ・ブランビッラ《謝肉祭》《四旬節》等の民衆文化に繋がる
  • ジャン・パオロ・ロマッツォは『絵画論』(1584年)で「(アルチンボルドの寄せ絵は・・・)旅籠や酒場の装飾にふさわしい」と述べている一方、『絵画殿堂のイデア』(1590年)では「君主や皇帝にふさわしい芸術」と相反する事を言っている。民衆画と言う下位ジャンルと思われていたものが、皇帝称揚を示すという絵画ヒエラルキーが転倒したことを示している。
  • アカデミア・デッラ・ヴァル・ディ・ブレニオがミラノに設立(1560年)。レオナルド芸術への回帰を提唱
  • 時代的には、カトリックとプロテスタントの宗教的対立を背景にした、カトリックの「対抗宗教改革」のもと、芸術の自由を著しく抑圧していた事に対抗していた
  • レオナルドのグロテスク肖像は、ルドヴィコ・イル・モーロの宮廷で流行し、16世紀のロンバルディア地方で伝統を形成した滑稽詩と言う背景をもっている。人体各部を解体して、各部を様々なものに置き換える修辞に専心した当時の文学ジャンル<-アルチンボルト的と言える
  • アルチンボルトのミラノ時代は、こういう滑稽文学が流行っていた時期
  • 滑稽文学では、ヒエラルキーの低いものを礼讃したりしている。ルキアノスの『蝿礼讃』。こう言う逆向きの事が流行っていた。滑稽な転倒を述べるのは、著した人物の技量を披露する手段だった
  • アルチンボルト四季連作は、こう言う、低いものから高いものを称える、逆説的称賛詩の系譜に繋がっている
  • こう言う逆説的表現は、後に風俗画、静物画が新たなジャンルとして隆盛することにつながる
  • これらの流れは、後のカラバッジョ《果物籠》に繋がっていく

だいたいこんな感じですかね。
盛りだくさんで、なかなか面白い講演でした。

東京都美術館「バベルの塔展」記念講演会 『ブリューゲル《バベルの塔》の衝撃 マクロとミクロの融合』

2017-05-28 | 講演会
昨日(2017/05/27)は、
午前にバベルの塔展を見た後に
バベルの塔展記念講演会。

今日の講師は、青山学院大学文学部比較芸術学科教授の
高橋達史さん。
講演タイトルは
『ブリューゲル《バベルの塔》の衝撃 マクロとミクロの融合』

13:00整理券配布なのですが、12:20過ぎに行ってみると、
まだそれほど並んでいる人はいませんでした。
もうちょっと遅くても大丈夫でしたね。

時間になって講演開始。
以下に、要旨を記します。

  • 展覧会の学術監修を行っている
  • マクロの美=イタリアルネサンス。ミケランジェロが典型。教会の絵画でも細かい事は気にしない。場合によっては、聖書の細かい設定を無視して描く。
  • ミクロの美=15世紀ネーデルランドの絵画。フランドル絵画とも。ファン・エイクなどで代表される。整然としているが、マクロ視点は欠けている。
  • ミクロと言えばディック・ブルーナ。ミッフィは、これで完結している。
  • ミクロの絵本として、マーティン・ハンドフォード「ウォーリーを探せ」。ミクロの絵本は、部分鑑賞にも耐えうるほど細かく描きこまれている。
  • ブリューゲル下絵/ファン・デル・ヘイデン版刻の《大きな魚は小さな魚を食う》。原作(原案)はボスと言う偽の記入あり。タラ夫と言う命名には責任を負えません(笑)。これも、細かい。
  • 16世紀は(経済学の研究者に言わせると)まだ資本主義とは言えない時代。前期資本主義と呼ばれる。だが、弱肉強食の現代に通じる時代でもある。
  • ブリューゲル《怠け者の天国》。ダメ人間のユートピアである。豚は焼き豚になっていて、茹で玉子には足。ただし、“天国”と言っても、キリスト教的な天国ではない。
  • エアハルト・シェーンも同じタイトルの版画。ブリューゲルの絵の上手さが分かる。豚や、お酒の流れる川など、言葉で言えば一目了然だが、絵で分かるか?絵のレベルでの理解されやすさがブリューゲルは優れている
  • ピーテル・バルテンスも同じタイトルの絵。ブリューゲルは、彼の作品をパクっているわけだが、ブリューゲルの方が分かりやすい。
  • ブリューゲルは、《バベルの塔》三回描いていて、最初のものは行方不明。
  • 今回来日したボイマンス美術館の《バベルの塔》は、5000倍位しても、描かれている事が分かる。描かれている部分だけで、塔の高さは510mと推定されている
  • バベルの塔の工事現場を見てみると、労働者を監視している現場監督が居ない。ブラック企業ではない(笑)
  • 石は自然物(神が創造)。レンガは人工物(人間が発明)。(神への挑戦である)バベルの塔を描くにはレンガであるのが自然
  • モザイクで描かれているパラティナ礼拝堂の《バベルの塔》。レンガで表現されているバベルの塔としては、最古。
  • サン・マルコ大聖堂の《バベルの塔の建設/分散する人々》。バベルの塔を描いた作品の殆どは建設シーンを描いているが、宗教的には(みんなノアの子孫であるのに)分散の方が重要。
  • 焼失した5世紀の『コットンの創世記』でのバベルの塔は《建設》《頓挫》《人々の分散》の三部構成だった。
  • 『モーガンの絵葉書』の《バベルの塔の建設》では、早くも重機が描かれている。ただ、重機が固定されていないので危ない
  • サレルノ大聖堂の《バベルの塔》は神がバベルの塔よりも大きく描かれている。これ以降は、神は描かれずに雲間からのちらりと見えたりで表現。
  • 英語においてクレーンが起重機の意味で最初に使われたのは1349年。
  • 「巨人」としてのニムロド王は、フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』にはじまる
  • 『ハミルトンの聖書』はニムロドを描いているが、サレルノ大聖堂の神を描いたものと構図が似ている。神をニムロドに置き換えた構図。巨人ニムロドの誕生
  • ニムロドが全く登場しないのがロッテルダムの《バベルの塔》の特徴
  • 『ベッドフォードの時祷書』。青色が美しい。人が落下するシーンが描かれている。
  • ブリューゲルの《バベルの塔》にインスピレーションを与えたものとして『グリマーニ聖務日課誌』。ベッドフォードの作品と違い、色を抑えて描き、遠近感を出している。港の近くに描かれている。フランドルの人には親近感。
  • ジュリオ・クローヴィオ『ファルネーゼの時祷書』にもバベルの塔。クローヴィオとブリューゲルはウマが合い、別のバベルの塔の一緒に描いている
  • ブリューゲルがイタリア留学から得たもの。クローヴィオとの交流・共同製作を通じて、超絶技巧を修得したことではないか。
  • 16世紀前半、バベルの塔の断面図が流行。
  • ハンス・ホルバイン下絵のバベルの塔。扶壁の厚みと大きさに注目。実は、ブリューゲルの《バベルの塔》は、扶壁が小さすぎて、建築学的には成立しえない。
  • コルネリウス・アントニスゾーン《バベルの塔の崩壊》。初めてバベルの塔の崩壊を描く。インスピレーションはコロッセオ。
  • ヘームスケルクは、ジグラッド型のバベルの塔を描く。
  • ベルナール・ザロモンの作品を写したのがJ.M.ボックスベルガー。左右逆に写している
  • ブリューゲルは大変頭がよく、完璧主義だったが、同じ完璧主義のダ・ヴィンチと違うところは、完成までもっていくこと
  • アントウェルペン(現アントワープ)は16世紀当時、既に国際都市として有名だった。『7か国会話帳・単語帳』が存在。四か国語聖書も
  • ブリューゲルのロッテルダムの《バベルの塔》は、まだまだ建設途中と言う解釈と、まもなく完成と言う解釈と両方ある。ウィーンに無くてロッテルダムにあるところは、風景描写。ロッテルダムの《バベルの塔》の風景描写は17世紀、18世紀の風景画を予感させる。建設作業に携わる人も沢山描かれている。

と、ここまで来ましたが、予定時間より伸びに伸びています。
後ろの予定があったので途中退出してしまいました。
だからさぁ、時間配分ちゃんとしようよ。
これだから文系の学者は・・・

※私が退出して間もなく、講演は終了したっぽいです。
※あの時間では、まともにまとめられないと思うので、
※カットアウトしたな。

ネットを検索したら、バベルの塔に関するこんなページが
http://blog.goo.ne.jp/dbaroque/e/561815fa72ed16aa6bdda34af30b90ab
めっちゃ詳しい!

国立西洋美術館「スケーエン:デンマークの芸術家村展」記念講演会 『デンマーク近代絵画とスケーエン派』

2017-04-08 | 講演会
桜が見頃ですが、天気はどんより。
風も強いorz

そんな土曜日ですが、上野の国立西洋美術館で行われている、
スケーエン:デンマークの芸術家村展の講演会に行ってみました。

今日は、第二土曜日と言う事で、常設展は観覧無料。
講演会は、常設展や、特別展のチケットがあれば、
聴講券をもらえるので、実質、無料で講演が聴講できるという
とってもお得な講演会です。
こりゃぁ、行きますよね。

今日の講師は、山口県立美術館専門学芸員の萬屋健司さんで、
大学の時にデンマーク語を学び、デンマークに留学もしたという方。
日本国内を見渡しても、デンマークの美術に詳しい、
ほとんど唯一の方見たいです。
凄いな。

今日の講演テーマは、「デンマーク近代絵画とスケーエン派」
デンマーク絵画自体が、日本でほとんど知られていないと言う事もあるので、
基礎レベルからの講演になりそうです。


  • 「画家であるならこちらにいらっしゃい。ここには描くべき多くにモチーフがあります。このデンマークの村は、アフリカの砂漠やポンペイの灰の丘、鳥が舞う海辺の砂浜を描くための景観を与えてくれるでしょう。スケーエンは確かに訪れる価値があります。」H.C.アンデルセン(1859年「スケーエン」)
  • スケーエン派と呼ばれるのは、19世紀末から20世紀初頭の画家たち
  • スケーエンで、アンナ・アンカーの家で代々やっていたのがブロンドゥム・ホテル。ここが、スケーエン派のたまり場にもなった
  • 日本での、デンマーク美術を紹介した展覧会としては、ヴィルヘルム・ハンマースホイ展が2008年に国立西洋美術館で行われているが、今回のスケーエン展は、それ以来のデンマークの絵画展
  • デンマークの美術史を紐解くと、王立美術アカデミーが設立されたのは1754年。これは、ドイツやフランスより約100年後で、イギリスよりちょっと早い。初期のころは、デンマークに美術を教えられる人物がおらず、進んでいたパリやオランダから優れた美術家を招聘していた。その後、デンマークの芸術家で、新古典主義に分類されるアビルゴーが出てきた。しかし、アビルゴーは、近代デンマーク美術には古かった。
  • その後、デンマーク近代絵画の父と言われているC.W.エガスベアが出てきて、近代デンマークの芸術を引っ張る事になる。彼の歴史画として《バルドルの死》《紅海を閉じるモーセ》があるが、エガスベアが後の画家に影響を与えたのは《アックア・アチェトーザ》《ウィア・サクラの一隅》《中庭の眺め(フォロロマーノを描いたもの)》の様な、風景を切り取ったようなスナップショット的な作品。これらは画面のサイズが小さく、屋外で描いたと考えられる。その背景として、国からの奨学金をもらってローマに留学していたエガスベアだが、当時デンマークは国自体が貧しく、十分な費用を得られていなかった。
  • アングル、グラネ、エガスベアの絵画に、似ているものがあるが、この三人の関係性は不明
  • ローマ時代のエガスベアが得たものは、(1)外国人芸術家との交流、(2)戸外製作の実践(自然(風景)に対する意識の変化)
  • エガスベアの弟子達が、デンマーク絵画の黄金期を担ったので、デンマーク絵画の父と言われる
  • 1820~1840頃が、デンマーク絵画の黄金期。エガスベアの弟子達が活躍
  • 時代背景的には、ナポレオン戦争後~三年戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)の時代。1848年3月には、デンマークの絶体王政が崩壊した。アンデルセン、キルケゴールが活躍した年代でもある
  • “黄金期”とは元々はデンマークの文学を差して使われた言葉だった。
  • クレステン・クプゲ《要塞北壁の一隅》《ソウデダムスーウン湖の秋の朝》《アトリエからの眺望》《フレズレクスボー城の棟と風景》。スナップ、スケッチ的な作品が多い。実は、《フレズレクスボー城の棟と風景》の作画サイズは大きい。長辺が180cmもあるが、展覧会には出さず、クプゲの自宅を飾っていた
  • デンマークの特徴に、(1)山がない、(2)自然の風景がなく人手が入っていると言う事がある。
  • F.フェアミーン、C.ダルスゴー、J.エクスナは、デンマークらしい風景を描くと言うより、デンマークのユトランドの人々を美化して描くことをしていた
  • ニルス・ラウリツ・ホイイン。デンマーク最初の美術史家、画家の助言者、批評家、購入者。画家達に影響力が有ったが、ナショナリストであったので、デンマークの国威発揚を求めることがあった。
  • 1840年代以降、絶体王政の崩壊から、三年戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を経て、デンマークの国土が小さくなる。デンマークの人々には危機的な状況。“デンマーク的なもの”を求める時代だった。
  • H.ドラックマン、C.ロッカーM.アンカー、V.ヨハンセン、P.S.クロヤーなどの画家のうち、クロヤー以外は、スケーエンに来た時点では無名だったが、クロヤーはスケーエンに来た時点で既に有名な画家だった。
  • アンナとマイケルのアンカー夫妻は、昔の最高額の紙幣の肖像に使われていた。それほどデンマークでは敬愛されている。ちなみに、現行紙幣は建物になってしまっている。
  • 1870年代半ば~1880年代前半のスケーエン。デンマーク全体として、国土の縮小、都市化が進んでいたが、スケーエンには、物理的・時間的に失われた「古きよきデンマーク」が見られた。しかし、時間を経て、美しい光りが見られる土地としてのスケーエンの価値に画家達は気が付く。
  • 19世紀末のスケーエン。地理的・時間的な象徴性を持っていた場所。芸術的に自由な環境であった場所。親密なコミュニティであった。
  • それは、ヒュゲ[(hygge)居心地の良い時間と空間、穏やかな寛ぎの温かさ]と表現される。ヒュゲは、光りが重要(抑えられた淡い光り)で、静かにゆっくりと過ごす時間・空間である。元々はノルウェー語で、デンマーク的には外来語。英語のcosyともちょっと違う。ちなみに、ノルウェーでは、今はヒュゲは使わず、cosyから来たkoselgと言う言葉を使うようになっている
  • アンナ・アンカーの作品には、ヒュゲが数多く見られる

こんな感じでしょうか。
最初にも記したように、基礎からお話ししてくれたので、
非常にわかりやすかったです。

国立西洋美術館「シャセリオー展」記念講演会 『テオドール・シャセリオーと聖堂装飾』

2017-04-02 | 講演会
桜が咲いても、冷たい雨が降ったりして、
中々満開まで行かないようですが(今日、満開になった模様)、
日曜日は上野に出没。
国立西洋美術館で行われる、
シャセリオー展の記念講演会に行ってきました。

最近、この手の講演会は、満席になる事が多く、
聴講券配布時間間近に行くと、手に入れられないことがありますが、
今日は、桜を見ながらの、余裕を持った現場到着です。

今日のテーマは「テオドール・シャセリオーと聖堂装飾」で、
講演者は、成城大学教授の喜多崎 親さん。


  • シャセリオーは、(1)若くして亡くなった、(2)壁画が多い、(3)知名度が低い、と言うことから、日本でシャセリオーの展覧会は難しいと思っていた。なので、今回の展覧会は、貴重。
  • シャセリオーは、アングル(新古典主義)とドラクロワ(ロマン主義)の折中者とも言われていて、どちらの特徴もみられる。
  • シャセリオーじゃ、生涯に4件の公共建築の壁画の注文を受けていて、うち3件が聖堂装飾。残り一つは、現在のオルセー美術館の場所にあった旧会計検査院の壁画で、現存していない。
  • 時代的には、フランス革命の頃の話。1789年共和国憲法で宗教が自由化され、カトリックが非国教化され、聖堂の破壊・略奪が行われた。その後、王政復古を経て、カトリックが再国教化されたり、7月王政での再度の非国教化されたり。そして、第二帝政期にかけて、大量の壁画が発注・制作されたりしていた。
  • 聖堂の建築や、内部装飾は、地方公共団体が実施。公共事業として、建前では注文は平等であるので、一つの聖堂に複数の芸術家が関わったりしている。例えば、ノートルダム・ド・ロレット聖堂。30数人の画家が携わっている。その結果、画家が異なるので、絵毎に書き方がバラバラになったりしている。
  • 描かれる宗教画については、盛期ルネサンスの様式は異教的であると考え、ラファエロ以前の様式を採用する者が居たり、逆に、リアリティの追求からこれに反対する者が居たりした。後者の立場では、例えば、オラース・ヴェルネが「古代アラブと現代アラブの衣装に見られる共通点」と言う趣旨の講演を行い、古代の衣装は今のアラブの衣装から想像できるとして聖書世界を描いたりしている
  • 19世紀の壁画は、状態の悪いものが多い。作画技法の問題
  • サン=メリ聖堂の壁画について「シャセリオー氏が、オーヴァーベックや、ミュンヘンとデュッセルドルフの古拙な芸術家達が流行らせたビザンティンあるいはゴシック風の気取りにひきづられることが無かったことも、賞賛すべき」と言う評論がある
  • ルーベンスなどに見られる《十字架降下》は、縦長。一方、シャセリオーによるサン=フィリップ=デュ=ルール聖堂アプシスの《十字架降下》は、立て方向がみじかい。むしろ、描かれている場所の問題から横長。左右対称性も見られる。
  • シャセリオーの《地面に座るアルジェリアのユダヤ人女性》は、親仏派カリフの招きでアルジェリア旅行に行ったときに描いている。ムスリムの女性は、男性の前に出る事が無いので、描かれているのは非ムスリムの女性。後に《後宮の浴室を出るムーア人女性》を書いているが、これは先の作品の経験を下にした想像
  • サン=ロック聖堂洗礼盤礼拝堂の壁画の作画条件としては、礼拝堂の目的に合った先例に関わる主題と言う条件があるが、既にルモワーヌ一族による彫刻《キリストの洗礼》があったので、それ以外の主題である必要があった。よって、《エチオピア女王の宦官に洗礼を授ける聖フィリポ》や《日本とインドの布教者聖フランシスコ・ザビエル》と言う作品になった。
  • 《日本とインドの布教者聖フランシスコ・ザビエル》では、描かれている台座の周囲にそのタイトルがかかれている。だが、日本を見た人に思い起こさせる(誤解させる)が、実際にはインド
  • シャセリオーは《エチオピア女王の宦官に洗礼を授ける聖フィリポ》を描く際、ベルタンの《エチオピア女王の宦官に洗礼を授ける聖フィリポ》を参照したと考えられる。また、描かれている馬の馬具は、《アッシリアのサルゴン2世宮殿の浮き彫り》の馬も参考にしたとも考える事が出来る。
  • サン=ロック聖堂洗礼盤礼拝堂の壁画二点では、シャセリオー本人は、神の下では人種や身分の差が無いと言う事を描こうとしていたのではないかと思われるが、批評家のサン=ヴィクトワールなどは、作品中の後宮の女性や有色人種の様子を、差別的に誤解していた。

いやぁ、なかなか勉強になりました。

東京都美術館「ティツィアーノとヴェネツィア派展」記念講演会 『ティツィアーノ《ダナエ》をめぐって』

2017-02-25 | 講演会
晴れの土曜日。
今日は、2月11日から連続して開催されていた、
ティツィアーノとヴェネツィア派展の記念講演会の最終回。

先週は大人気で、12時半頃には、講堂前の階段を超え、
ロビー階のインフォメーションカウンター前で折り返して
居るほどの行列でした。
その経験を下に、今日は早めの12:20頃に行ってみた所、拍子抜け。
全然、大丈夫でした。
※結局、最後まで満席にはならなかったようです。

今日の講師は、東京都美術館学芸員の小林明子さんで、
講演タイトルは『ティツィアーノ《ダナエ》をめぐって』
講演開始時間になって、講演開始です。

  • これまでの講演会は、展覧会全般的な話だったので、今回は、《ダナエ》に焦点を絞る
  • 《ダナエ》は、カポティモンデ美術館にあるが、中々、美術館の外に出ることはないので、今回は必見
  • この時代、絵画の製作にはパトロンがいた。その為、絵画には、発注者であるパトロンの意図、描く画家の意図、そして、パトロンと画家の駆け引きなどの様々な背景がある
  • ティツィアーノの正確な誕生年は不明。長寿だし、多作だったので、非常に多くの作品が残っている
  • ティツィアーノは最初、ベッリーニの工房に入る。ベッリーニの工房は、ヴェネツィア派の他の画家にも影響を与えたりしていて、非常に重要な工房である
  • ベッリーニと共にヴェネツィア派の重要な画家にアントネッロ・ダ・メッシーナが居る。メッシーナは南イタリアの画家だが、一時ヴェネツィアに居たことがあり、メッシーナとベッリーニの交流で、フランドルの絵画の技法、情報がメッシーナからベッリーニに伝わった。南イタリアは、フランドルと関わる支配者の支配下にあったことがあり、その際にメッシーナはフランドルの絵画に触れていると考えられる。
  • ジョルジョーネもティツィアーノに影響を与えた画家。夭折したので、作品数は少ない。
  • フレスコ画は、湿気の多いヴェネツィアには向かず、ヴェネツィアではカンヴァスの油彩画が発展
  • 初期のティツィアーノの絵画は、ジョルジョーネとの判別が難しいほど似ている。ティツィアーノの《田園の奏楽》は、嘗てジョルジョーネによるものと考えられていた(いまでも、ジョルジョーネの作品と考える人も居る)
  • ティツィアーノの《復活のキリスト》にもジョルジョーネの影響がある
  • ティツィアーノの《フローラ》。ジョルジョーネの亡くなった時期あたりの作品。これは、肖像画と言うより神話画。肌の質感、着ているものの風合いが非常に上手く描かれている。
  • ティツィアーノの出世作《聖母披昇天》。サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂にあるが、この作品は、聖堂での見え方を計算して描かれている
  • ティツィアーノの名声は、次第にイタリアの都市国家の間で広がり、そしてヨーロッパの大国にも広がる。
  • 神聖ローマ皇帝カール5世に気にティツィアーノは入られる。ティツィアーノが描いた《犬を連れたカール5世の肖像》は、ヤコブ・ザイゼネッカーの作品と同じ構図だが、カール5世はなにかが気に入らず、ティツィアーノに再び描かせている。
  • ローマ教皇パウルス3世は、カール5世とティツィアーノの関係を苦々しく思っていた。当時のヨーロッパの政治情勢は、今日の味方が明日の敵の様に、目まぐるしく敵味方が入れ替わっていた
  • 《ラヌッチョ・ファルネーゼの肖像》で、ティツィアーノと教皇の関係が始まる。
  • 《教皇パウルス3世の肖像》。教皇が北イタリア(ミリアロマーニャ)に行った際に、教皇はティツィアーノに肖像を描かせた。この肖像画には、様々なカール5世へのメッセージが込められていている。絵画としては、ビロードの質感など、非常に上手く描かれている
  • ラファエロの《ユリウス2世の肖像》は、教皇の肖像画の始り。ティツィアーノは、その作品のコピーを描いている。
  • セバスティアーノ・デル・ビオンボ《クレメンス7世の肖像》も、教皇の肖像画の特徴が示されている。後のティツィアーノの教皇の肖像画への影響が見られる。
  • 《ウルビーノのヴィーナス》をファルネーゼ枢機卿が見て、自分も裸婦像が欲しくなる。その頃の教皇大使デッラ・カーサからファルネーゼ枢機卿への手紙が残っているが、その手紙にはティツィアーノが自分の息子の聖職者としての立身出世を希望していることが書かれていて、教皇への接近の背景にはティツィアーノの下心があったことがバレている。
  • その手紙の続きとして、ティツィアーノは衝撃的な裸婦像を書いていると記されているが、その裸婦像が《ダナエ》
  • 《ダナエ》をX線で見ると、開口部があったり、侍女に見えるようなものがあったりと、当初はヴィーナスとして書き始められたのではないかと言うことを示唆している。キューピッドもヴィーナスを示すものなので、その考え方をサポートしている。
  • 《ダナエ》には、ミケランジェロが見たことがあると言うエピソードが残されている。ヴァザーリと供に見に行ったとき、「色彩も様式も気に入ったが、デッサンが出来ていない」と言ったと伝えられている。
  • 当時から、フィレンツェ派とヴェネツィア派は違うと考えられていた。ティツィアーノとミケランジェロは、互いに意識していたのではないかとも考えることもでき、相互に作品に影響を与えていたと考えると面白い。
  • ベッリーニの工房に、ティツィアーノやジョルジョーネと同時代に居たセバスティアーノ・デル・ビオンボ。当初はヴェネツィアにいたが、ローマに行ってしまう。ヴェネツィアの頃はジョルジョーネにも匹敵する絵画様式だったが、ローマに行ってからはヴェネツィア様式を捨て、ミケランジェロ的な様式になってしまう。ヴァザーリによれば、「ティツィアーノがデッサンをしていれば、ミケランジェロを凌駕する画家になっていた」とセバスティアーノは言ったと伝えられている。
  • 後の画家、レンブラントはティツィアーノを良く勉強していた。
  • 後の話として、ファルネーゼ枢機卿が、息子の出世に手を貸してくれるのでは無いかというティツィアーノの期待は外れ、ファルネーゼ枢機卿とティツィアーノは別れる。その後、教会に幻滅したティツィアーノは、スペイン王家の為に絵画を書き始める。
  • スペイン王家版の他、ティツィアーノの《ダナエ》には様々なバージョンがある
  • 《ヴィーナスとアドニス》には手紙が残っており、曰く「前の作品では前を描いていたので、今回は後ろ姿を描いてみた」

こんな感じでしょうか。

あまり抑揚もなく、淡々と話しをされるので、
途中何度か、意識を失ってしまいました(苦笑)
もっと、抑揚をつけるような話し方にしてくれると嬉しいな。

東京都美術館「ティツィアーノとヴェネツィア派展」記念講演会 『ヴェネツィア美術の魅力』

2017-02-18 | 講演会
今日の午前は
『ティツィアーノとヴェネツィア派展』を観覧。
午後は、先週に引き続き、その講演会を聴講です。

整理券(聴講券)の配布は、13時からなんですが、
何となく12時半頃に向かってみたら、
講堂前の階段はとうに超え、
ロビー階のインフォメーションカウンター前で折り返し、
更に行列が続いていました(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-

最近、なんだかこの手の講演会は
盛況になっている気がするんですが、この人気ですか。
配布時間15分前頃には既に、列に並んでいる人だけで
満席になってしまっていて、その後に来た人には、
係の人が断っているような状況でした。
それでも配布は前倒しにはならないと・・・
ちょっと時間が無駄ですね。

今日の講師は、神戸大学大学院教授の宮下規久朗さんで、
講演タイトルは『ヴェネツィア美術の魅力』
講演開始時間になって、講演開始です。

  • まずはヴェネツィアの解説。ヴェネツィアは、110の島と400の橋で出来ている。
  • その始まりは、5世紀のゲルマン民族の大移動から逃れた人々が、水上をはじめたのが起源
  • 今回の展覧会にも出ているヤコボ・デ・バルバリの版画《ヴェネツィア鳥瞰図》(1511年(1500年初刷))で描かれている建物の七割くらいが今もある
  • ヴェネツィアには、飛行機でミラノ空港に行ってそこから電車でサンタ・ルチーア駅に行ってそこから入ることが多いが、アリタリア航空以外でヨーロッパ内の空港で乗り継いでヴェネツィア空港に行くと、サンマルコ広場に船で入る事が出来て、『ヴェネツィアに来た!』と言う気になるのでおすすめ
  • いまのヴェネツィアは小さいが、その文化は、嘗て広かったヴェネツィア共和国の版図の全域に及ぶ
  • ヴェネツィアは、421年3月25日の建国と言う伝承がある。その日は実は、マリア妊娠の日である。なので、ヴェネツィアは聖母に捧げられた国とも言われている
  • 嘗て、ヴェネツィアとビザンツ帝国は友好関係(朝貢関係)にあって、フランク王国や他のイタリアの勢力の侵入を防げていた
  • 第四回十字軍におけるコンスタンチノープル陥落によって、よりヴェネツィアは繁栄した。
  • 支配層の貴族の身分を厳しく決定する“セラータ”制度で政治が安定した
  • トルチェロ島。ヴェネツィアの最古のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂がある。聖母子のモザイクが見どころ
  • サン・マルコ大聖堂。嘗ての宗主国ビザンツ帝国のコンスタンチノープルにあった聖使徒大聖堂を模して作られた
  • サン・マルコ大聖堂のテトラルキア、青銅の馬。これらは、第四回十字軍の際、コンスタンチノープルから略奪してきたもの
  • パラ・ドーロ。これもコンスタンチノープルから略奪してきた。嘗ては祝祭日だけの開帳だったが、今は入場料を払えば見ることが出来る。必見
  • ヴェネツィアは1000年以上に渡り、外敵の侵入を防いでいた。ヨーロッパの多くの王宮は城であるが、ドゥカーレ宮殿は城ではない。それは、外敵の侵入を防げたと言うことを示している
  • ヴィヴァリーニ工房とベッリーニ工房が競いあい、ベッリーニの工房が勝つ。しかし、ベッリーニ工房の作品は国外からの発注も多く、イタリアにはあまりない
  • ヴェネツィアは祝祭が発展していた国。貴族、国民が一体に外敵に対する必要があったので祝祭が発展した
  • ジェンティーレ・ベッリーニ《聖十字架の奇跡》には黒人が描かれている。当時のヴェネツィアは奴隷貿易のセンターでもあった
  • ラッザーロ・バスティアーニ《総督フランチェスコ・フォスカリの肖像》。フォスカリは人望はあったが、息子の汚職疑惑(濡れ衣の指摘もある)によって廃位された悲劇の総督。国民から人気があり、国葬によって弔われた
  • ロンバルド親子。彫刻家。建築家でもあった。サンタ・マリア・デイ・ミラコリ聖堂を作った
  • ジョルジョーネは若くして亡くなったので、ほとんど作品は無い。数少ないジョルジョーネの作品の中でも《嵐》どういうモチーフなのか謎
  • ジョルジョーネの《眠るヴィーナス》は、ティツィアーノの影響が見られる
  • ティツィアーノ《復活のキリスト》。ヴィヴァリーニの《復活のキリスト》の影響を受けている
  • ティツィアーノ《フローラ》。コルティザーナと言う高級娼婦の絵ではないかと言う説もある。あるいは、結婚の決まった女性を描いたと言う説もある。
  • 同じフローラでも、メルツィ《フローラ》雰囲気が大分違う
  • レンブラントも《フローラ》を書いている
  • パルマ・イル・ヴェッキオの《フローラ》にも影響を与える
  • ティツィアーノ《聖母被昇天》で名実ともに、ヴェネツィアの公式画家に
  • ティツィアーノ《ペーザロの祭壇画》。教会の柱も借景して、絵に取り込んでいる。絵はその場で見るのが一番。
  • ティツィアーノ《改悛のマグダラのマリア》は人気にある作品
  • ティツィアーノ《パウルス三世の肖像》。ベラスケスの《インノケンティウス10世の肖像》と並ぶ教皇の絵の傑作のひとつ
  • ティツィアーノの絵は、近づいて見ると、筆のタッチが分かりより素晴らしい。図録では判らない
  • ティツィアーノの《パウルス三世とその甥》は、まだ未完成。パウルス三世の左手が書かれて無い。ちなみに、ティツィアーノは、聖職者の息子の出世ためにパウルス三世に近づいたと言われる
  • ティツィアーノ《ダナエ》。ミケランジェロは、この作品を見て『デッサン力が無い』と評した。
  • ティツィアーノは、時代が後ろになるにつれて、タッチが荒くなって行く。最晩年の《ピエタ》は荒い。その、ティツィアーノの晩年の様式は、その後の画家に多大な影響を与える
  • ロレンツォ・ロットはティツィアーノの影響を受けた画家。ロットの《聖アントニヌスの施し》と言う作品があるが、これは当時のヴェネツィアの社会福祉政策は優れていた場面を描いている
  • ロットは絵画の中に絨毯をよくかいていて、ロット絨毯と言われる
  • パオロ・ヴェロネーゼの《レヴィ家の饗宴》は、最初、《最後の晩餐》と言うタイトルだったが、宗教裁判所に呼び出され『全然最後の晩餐じゃないじゃないか』と言われた。その結果、タイトルを《レヴィ家の饗宴》と変えた。ヴェネツィアは、ローマから離れていたので、教会の影響力が小さく、その程度で済んだ。
  • ドメニコ・ティントレット《天国》。世界最大の油絵でもある。
  • ドメニコ・ティントレットの《伊東マンショ像》は、油絵で書かれたほとんど最古の日本人では無いか
  • ティツィアーノの弟子、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロは、イタリア美術最後の巨匠。
  • 17~18世紀の良家の子息がやっていたグランドツアーと呼ばれる遊学の最後の地として、ヴェネツィアがあった。土産物として絵画が買われた
  • その後、ヴェネツィアは単なる観光地になってしまい、芸術の地としての輝きは無くなったが、ヴェネツィア・ビエンナーレで復活しつつある。
  • ヴェネツィアは水の上にあるので、色々な光を反射するので、美術の色彩が発達したのではないか

話しされている先生で、ところどころ脱線しかけながらの話で、
中々面白かったです。

東京都美術館「ティツィアーノとヴェネツィア派展」記念講演会 『ティツィアーノとヴェネツィア絵画』

2017-02-11 | 講演会
西日本では大雪になっていて、
交通障害も起きている様ですが、
東京地方は晴れ。
空気も乾燥しています。

そんな土曜日は、東京都美術館で開催中の
『ティツィアーノとヴェネツィア派展』の講演会に
行ってきました。

講演会は4回企画されていて、既に1回目は終了。
初日に開催されていました。
今日は、2回目の講演会です。
ちなみに、来週3回目があって、再来週に4回目。
3週連続講演会の初回でもあります。

今日の講師は、東京藝術大学教授の越川倫明さんで、
テーマは「ティツィアーノとヴェネツィア絵画」。
ご自身も言ってらっしゃいましたが、
ほとんど展覧会タイトルと同じ講演タイトルです(笑)

やっぱり最近の講演会は混みますねぇ。
今日も、13時の整理券配布30分前(つまり12:30ごろ)に
行ったんですが、既に結構な行列。
最初の人は、一体何時から並んでいるのか?

14時の開演時間になり、講演開始。
講演の要旨は以下。

  • 2016年は、日伊修好150周年で色々と行事があった。これは、その最後のあたり
  • イタリア関係の美術の展覧会は多数開催されていて、ネタが尽きつつある。フィレンツェ派のネタが尽いてきたので、やっとヴェネツィア派にきた
  • ヴェネツィア派の特徴的モチーフの1つに美人画がある
  • 時代の近いパルマ・ヴェッキオの美人画とティツィアーノと美人画を比べると違いがある。人の肌の表現、髪の毛の表現など、ティツィアーノの《フローラ》方がレベルが高いと言える。そう言う意味では、ティツィアーノはこの時代の第一人者
  • この展覧会の監修者ジョヴァンニ・C.F.ヴィッラさんは、ヴィチェンツァにある市立美術館の館長だが、そのヴィチェンツァは、嘗てのヴェネツィア共和国の領土内に位置している。
  • イタリア・ルネサンスを代表する都市のフィレンツェとヴェネツィアを比べると、ルネサンスの進行はヴェネツィアの方が少し(20年~40年位)遅れて進んでいる。
  • フィレンツェとヴェネツィアの違いが強く意識されるのは盛ルネサンス(15世紀末~16世紀初頭)の頃から
  • ヴェネツィア派の肖像画の2つの特徴。①ポーズがカジュアル、②あんまりカチカチに細かく書き込まれていない。同じ頃のフィレンツェ派では、しっかりと細かいところまで、書き込まれている。
  • ティツィアーノは80歳代の死ぬまで現役。
  • 若い頃のティツィアーノの自画像はあまり無いが、《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ》に描かれているヨハネの生首は、若い頃のティツィアーノの自画像では無いかと言われている。
  • ヴェネツィア絵画の一般的特質として、①色彩と光に対する豊かな感覚、②フィレンツェ絵画との対比、③美術批評に対する意識、がある。
  • ブロンツィーノ《愛の寓意》とティツィアーノ《ダナエ》。それぞれ、フィレンツェとヴェネツィアのNo.1であると考えて良い。作品をよく見てみると、ティツィアーノは柔らかく、ブロンズィーノは少し固い。
  • ヴェネツィア派の色と言うのは、物と物の係わり、質感を絵の具で自然に表す、必ずしもかっちりと書き込まないで表現すると言う所に素晴らしいところがある。一方、フィレンツェ派は、かっちりと書き込んでいる。(ティツィアーノに肖像画《アレティーノの肖像》を依頼したアレティーノが完成作を見て「まだ未完成じゃないか」と言うほど)
  • このルネサンスの頃から、美術批評は印刷され、人々に読まれるようになった。(それ以前は、印刷されず手書きで、人の目に触れることはあまり無かった)。例として、ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』(1550年)、ロドヴィーコ・ドルチェ『アレティーノ、または絵画問答』(1557年)
  • ミケランジェロがヴァザーリと共にティツィアーノの《ダナエ》を見た時、画風を賞賛したが、デッサン力不足では無いかと言っている。そのくらい、細かい所の書き込みがない。
  • 一方、ドルチェの著書『アレティーノ、または絵画問答』(1557年)は、ミケランジェロとティツィアーノ、ミケランジェロとラファエロの比較論になっていて、ティツィアーノを擁護する論調である。
  • 絵画の3要素。①素描(デッサン)、②彩色、③画面構想(構図)。
  • 今回の講演のkeywordにパラゴーネ(paragone)。比較、対比、試金石と言う意味。ここで言う意味合いとしては、(絵画、画家の)優劣比較論になる。「○○と××はどちらが偉いか?」と言うこと。レオナルド・ダ・ヴィンチのパラゴーネが最初と考えられていて、彼は、“詩と絵画”、“彫刻と絵画”を優劣比較している。“彫刻と絵画”では、曰く「彫刻は科学ではなく肉体労働。他方、絵画は精神労働だ。画家は、光、色、物体、形姿、場所、遠さ、近さ、運動、静止を表現しなければならない。」と言う事で、画家に軍配を上げている。ただし、彫刻の利点としても、永続性、多視点性を上げている。
  • ヴェネツィア絵画の革新者として、ジョルジョーネとティツィアーノを上げる。
  • ティツィアーノは、ダ・ヴィンチから影響を受けた。
  • この時代、絵画と彫刻の対比が意識された作品が描かれている。絵画の中に鏡があるなどで、多視点性を意識したり、絵画の中に彫刻を描きこんだり。
  • 非実体的な視覚現象も描かれている。雲、雨、嵐、夕焼け、水、炎、反射など。対彫刻のパラゴーネを意識?
  • ティツィアーノ対ミケランジェロ。ティツィアーノは早い時期からミケランジェロの有名な作品を意識して製作していて、強く影響を受けた作品が多数見られる。
  • 後世への遺産。①形態の規範としての古代の彫刻、ミケランジェロ彫刻(古典主義)、②生きた自然の持つ生命感や視覚的なドラマ(自然主義)
  • ルーベンスやカラヴァッジョは、ルネサンスの後の画家だが、ティツィアーノの影響を受けていると言えると思う

こんな感じでしょうか。
途中、意識が無いところが有るので、
要旨の辻褄が合わないところがあるかも(苦笑)

少しゆっくりと進んだので、
一時は時間を大幅にオーバーするのではないかと思ったんですが、
それほどの時間オーバーはなく、無事終了。
中々、勉強になりました。

東京オトナ大学 野口健氏講演会 『富士山から日本を考える-環境との共生と地方創生-』

2016-11-23 | 講演会
先日の日曜日(2016/11/20)、
午後イチから西南学院大学の講義を聞いた後は、
野口健さんの講演を聴講。
タイトルは「富士山から日本を考える-環境との共生と地方創生-」
です。

時間になって、最初は本人のプロモーションビデオで経歴紹介です。
野口さんは、講演活動も多いようなので、面倒だから作っちゃったんでしょうね。
時間にして7~8分位。
音楽付きで、かっこよく、まさにプロモーションビデオでした。

講演の内容は以下の感じです。

  • 登山活動を通じて、ごみ問題を感じた。
  • 始めた頃は、自分が正しいと思って始める。自分が正義、日本中が賛成してくれると思った。しかし考え方が違うと言って、反対する人も出てくる。行動には批判もセットでついてくると言う事を感じた。
  • ごみ問題を感じたエベレストは高校生の頃からの憧れ。しかし現実には、意外にごみが多かった。ごみ以外には、モノが無くなる問題もあった。苦労して上げた酸素ボンベが盗まれたりした。
  • そのエベレストで「エベレスト汚いなぁ」と言っていたら、海外の人に「富士山は世界で最も汚い」と言われて驚いた。
  • 富士山にはいつも冬にいっていたのでそう言うイメージは無かったが、夏場に行ったら、山頂に自販機が並んでいてこれにも驚いた。こんな所は世界中どこにも無い。
  • 自分がいつも行く冬の富士山は、雪と氷に覆われた死と隣り合わせの危険な山。しかし一般の登山者が来る夏は、みんなヘッドランプを着けて登ってくる。
  • 富士山が汚いと言われる原因の“白い川”=トイレの排出物。驚いて環境省に行ったら、富士山のトイレ排出物が水源地を汚染すると言うデータを持ってきてくれと言う。尾瀬は厳しく取り締まるのに、何故富士山は取り締まれないと憤りも感じた。よくよく後で聞いてみると、これは地元政治家の政治力の影響だったようだ。また、環境保護の法律も後から出来たので取り締まりにくいと言う事もある様だった。
  • 行政じゃダメだと思い、NPO富士山クラブに連絡した。そうした所、彼らは樹海に言ってくれと言う。「何故樹海?」と思ったが、行ってみると、そこにはごみの山があった。医療廃棄物、車のバッテリー、タイヤの山。
  • 上手く表現できないが、そのごみが投棄されている場所は、どんよりしていて、空間のオーラが枯れていると感じた、しばらくいると自分の気持ちまで汚染された気になってしまった。
  • 見てはいけないものを見てしまって、知らない事を知ってしまった。このままにはしておけず、ごみ拾いツアーを企画してが、ツアー会社に「人が集まらない」と言われて進まない。そこで、ごみ拾い活動を人々に知ってもらおうと思って記者会見をした。静岡県・山梨県の地元への一緒に参加してもらおうと思うアピールのつもりでもあった。しかしそれは、自分の思い上がりだった。
  • 静岡県側より、山梨県側からの反対が強かった。観光への影響が出ると言って入山規制反対と言う地元の反応にビックリ。山梨県を敵に回したと思った。
  • 人は、立場が異なると、物事の捉え方が異なる。自分の正義が社会の正義ではないと痛感した。このことから判ったことは、環境問題は人間社会が相手で有ると言うこと。本人がどこかに夢とかロマンを感じていないと、批難を喰らって厳しく感じる。環境の環は、“わ”。人とのつながり、関係が重要である。
  • 拾ったごみを自治体に持っていくと、「それはあちらの自治体ではないですか」と言われ、そちらに行くと「いや、これはあちらでしょう」と、つまりたらい回しに遭った。自治体にも理屈はあって、外から持ち込まれたごみの処理に地元の税金は使えないということでもあった。ごみ拾いは、処理までが仕事なので、大変だった。
  • しかし、細々とでも年々続けていると、徐々に注目を集め参加者が増えてくる。参加者が増えてくるというのは、地元自治体へのプレッシャーにもなる。
  • ごみ問題に取り組んだのは、子供の頃に海外で暮らしていて、日本に戻ってきたときに「日本は美しい」と思ったのが原点かも。
  • 小池環境大臣(当時)の誕生が転機。小池大臣はカイロ大学で学んだことが有る方。「富士山は日本の恥」と言う言葉が帰国子女には効く。小池環境大臣を現地に案内したとき、地元の自治体首長、環境省の局長等幹部が勢揃い。これまで無関心だった人たちが、現場を見て、ごみ拾いをすると、「何でこんなに、ごみがあるんだ!」と何故か怒り出す。みんな、ごみ問題を感じていた。
  • 富士山の五号目から上のごみ問題は大体解決したが、それより下はまだまだ。富士山が世界遺産登録になって驚いたが、あまり大きく知られていないが、これは条件付き登録。ごみ問題、安全面、受け入れ体制(入山規制)、看板等景観の解決が求められている。一応ユネスコには報告したが、静岡県と山梨県の考え方が合わず、本質的問題解決は難しい。
  • アイディアとして、富士山の登山鉄道がある。これだと、電車のキャパにより事実上の入山規制ができるし、排ガス問題は解決。夏に集中する観光客が、電車で冬にも分散され観光客の平準化がされる。
  • 人が生きることが一番重要。環境だけが解決しても意味はない。

何度も何度も講演しているためか、時間ぴったりに終了。

野口さんは、講演活動や、ごみ問題解決活動を行う傍ら、
毎年ヒマラヤには行っているそうです。
今年もこれから行くそうです。
って、冬なんですけどね。
冬のヒマラヤ?

東京オトナ大学 西南学院大学講義 『ココロのコリとのつきあい方』

2016-11-20 | 講演会
今日は、東京オトナ大学の日。

ここ数年、講演だけ聞きに行っていましたが、
今年は、興味深い講義が有ったので講義も受講してみました。

講義開始は13:00からですが、
レジストレーションは12:00からだったので、
12時ちょい過ぎに会場到着。
レジストレーションは空いていたのでスムーズ。
時間間際になると、結構混雑しますから、
正解ですね。

あとは、講義開始時間までスタバで時間つぶし。
東京オトナ大学受講者特典として、
VIAクリスマスブレンドが一本もらえました。

13時になって講義開始。
講師は、西南学院大学人間科学部心理学科教授の花田利郎さん。
申し訳ないですが、西南学院大学って知りませんでした。
福岡にあるキリスト教系の大学だそうです。
学内に、元寇を防いだ防塁を復元したものが有ったりもするそうです。

さて、講義の話。
今回の講義では、“ココロのコリ”は、
人づき合いの些細なことで、
(物事の)見方が固まり、
行動が固まり、
身体も固まった状態となる事

と定義。

まずは、物事には様々な見方が有るんだということを、
面白おかしく事象を見て、自己ワークなどをしながら、
理解していきます。
3x3のドットの集合を4本の直線で一筆書する方法とか、
上から1個・2個・3個・4個と並んでいる○の三角形を、
○を3つ動かして上下逆さまにする方法とか、
「そうだよねぇ~」あるいは、
茂木健一的な表現で言えば『アハ!体験』を
自分で知ると言う事をします。
これは、物事の見方の凝り固まった状態、
あるいは、行動の凝り固まった状態をほぐす感じですね。

物事の見方の工夫として、“コップの中に
もう少ししか水が入っていない思うのか、
あるいは、まだ水が入っていると思うのか”的な
考える考え方も披露。
まぁ、これは比較的有名な話かもしれませんね。
講師の先生は、“鹿(しか)”を“奈良(なら)”に変える
と言っていました。
鹿だから奈良・・・(苦笑)

途中、“鹿と奈良”的なネタ(?)を仕込みながら進行したので、
時間がすごく短く感じます。
逆にその代わりに、時間もどんどん押して行って、
二つ準備されていた身体のリラックス法の話が一つだけに。
腹式呼吸法の説明と実践がありました。
いやぁ、本当に、なんか身体がリラックス感じでしたね。
それだからか、“消去動作”と言うのが必要だそうで、
それをやらないと、人によっては身体がうまく動かない
みたいな事があるそうです。

面白かったです。
勉強になりました。