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日々の日記など

東京サピアアカデミー 森田正光氏基調講演 『持続可能な社会のために~温暖化は止められるのか~』

2024-10-20 | 講演会
『東京オトナ大学』が改組されて、
昨年4年ぶりに行われた『東京サピアアカデミー』が
今年もあったので、行ってきました。

この企画では、著名人による基調講演があって、
それが、なかなか興味深いのですが、
今年の基調講演は、気象予報士の森田正光さんでした。

15時にピッタリに基調講演は始まったのですが、
まず驚かされたのが、森田さんが74歳という事。
若く見えますが、もう、そんな御歳なんですねぇ。
そういやぁ、昔からテレビで活躍されているんで、
そのくらいであってもおかしく無いですね。

講演の冒頭10分くらいは、森田さんが、
大好きだという将棋の話。
4段(だっけかな?)とか言っていました。

そして将棋の話をしていたのが、
今日は、竜王戦第2局だからという事らしいです。
藤井聡太竜王と佐々木勇気八段が対戦なのですが、
佐々木八段が7対3で優勢と言っていました。
(その後、佐々木八段が勝利したようです)

そんな将棋の話の後は、本論のお天気の話。

サブタイトルに“温暖化は止められるのか”と
あるんですが、森田さんは、止められるという
お考えだとの事。

直接的な証拠では無いですが、
オゾンホールの問題だとか、
東京の大気汚染の問題などは、
人類の努力によって改善されてきたという
結果があるので、温暖化も止めることが
可能ではないかという論旨でした。

雲の話もありました。
雲は10種類に類型されているそうですが、
森田さんは積乱雲だけ覚えていてくださいと
言っていましたね。

あと、やっぱり話にでたのは、
最近の激しい雨の話。
降雨の期間やらなんやらで、
比較は難しいという事ではありましたが、
雨が降り出してから、降りやむまでの
全国の総雨量を比較したデータを
見せてくれたのですが、最近の大雨は、
過去(と言っても1970年代とか)の
大雨と比較して、何倍もの雨量である事が
示されていました。

世の中には、温暖化OKという人や、
温暖化懐疑派の人も居るので、
あんまり言い切ってはいませんでしたが、
これはやはり温暖化の影響でしょうね。

今年の台風10号の話も出て、
この時、東シナ海の海水温が32℃あった
という事だそうなのですが、
これは、イメージ的には、
東京で気温が40℃あったという
イメージなんだそうです。
普通は、25~30℃くらいらしいですからね。
そりゃ酷い。

なかなか面白かったです。

東京サピアアカデミー 大石学氏講演会 『江戸から見る東京の未来~「平和」「リテラシー」「笑い」~』

2023-11-04 | 講演会
2023年11月3日文化の日!

何故だか今年は、
11月なのに夏日に迫るような気温です。
まぁ、暑っついですっ🥵
地球温暖化の影響ですかねぇ。
ヤバいですね。

さて、そんな文化の日ですが、
コロナ禍で行われなくなってしまっていた、
『東京オトナ大学』が『東京サピアアカデミー』として
4年ぶりに開催されたので、行ってみました!

講師の大石学氏は、ドラマなどの時代考証をされている方で、
最近だと映画の『レジェンド&バタフライ』や、
アニメの『るろうに剣心』の時代考証を担当されたそうです。
映画で時代考証を行うのは当然だと思うのですが、
アニメで時代考証をしているとは思いませんでした。

世の中的には、“明治新政府の成立によって、
前近代的な徳川の世が終わって、
日本は近代化されていった”という理解が一般的な
感じがしますが、「実は、そうでもないんですよ」
というのが、今回の講演のテーマ。

確かに、最近、“実はすごいぞ江戸時代”という感じの
話を聞くことが多くなってきましたが、
ちゃんとした歴史的な背景があって、
そういう話が出てきているんですね。

冷静に考えてみて、
時代劇で高札が出てくるシーンが時折ありますが、
その頃の庶民が文字を知らなければ、
そんな高札なんて、意味ないんですよね。
だって、読めないんだから。
という事は、少なからぬ庶民が、
高札に書かれた文字を読むことが出来て、
且つ、その内容を理解できたという事に
他ならないんですよね。

それ以外にも、
今回の講演会で言われて「あっ!」と思ったのが、
最近の時代劇では、チャンバラシーンが、
めっちゃ少ないということ。

これは、江戸時代においては、
武士が正当防衛以外の目的で勝手に抜刀するのは、
幕府によって厳しく取り締まられていたという事実を
ドラマに反映させたものらしいです。
大石氏は、脚本にチャンバラシーンが書かれてくると、
「これは良く無いです」と言って突っ返すと
おっしゃってました。
ビックリです😲

それらの話は、別に荒唐無稽な話であるとか、
あるいは、ある種の人たちが勝手に主張しているわけではなくて、
当時、日本を訪れていた欧米諸国の人たちが
書き残した記録によって、確認できる事実。
だったら、昔の教育もそれら事実に基づいて
行ってくれれば良かったのにと思ったりもします。

そのほか、世相を風刺した狂歌の話などもあったんですが、
狂歌が成立するには、その裏の意味を理解できる程度の
教養が必要な訳で、江戸の頃に、狂歌がちゃんと成立していた
という事は、それを理解できる教養が、巷の人に十分にあった
という事でもあると言っていました。

江戸時代。
興味深いなと思いました。

東京オトナ大学 関西大学講義 『いのちを守る災害情報ー災害多発時代を生き抜く知恵ー』@20181123

2018-11-24 | 講演会
今回の東京オトナ大学(20181123)では、
講演だけでなくて、講義も受講しました。

受講したのは『いのちを守る災害情報ー災害多発時代を生き抜く知恵ー』
関西大学社会安全学部の近藤誠司准教授の講義です。
今年は、災害が多かったですからね。
やっぱり、こういう話は気になります。

内容は、以下の感じ。

  • 自然災害のみならず、事故のようなものもある。原発事故のような複合災害も。
  • 関西大学の社会安全学部は、東日本大震災の前に生まれていた学部

  • 情報は、意味がわからない限り“意味はない”。「Last one mile problem」と言われる
  • だが、情報があるが故に、逆にどんどん不安が増強することもある。「こう言う事をすると、不健康になるよ」と言う様な健康情報なども同じ。社会的逆機能と言われる。
  • 災害対策は、「我が事」「我々事」として考える事。
  • “地域”“みんな”で、知恵、工夫が問われる。knowledgeよりwisdom。

    【情報の進展 光と影】
  • LINE、Twitter、Google、Yahoo、AmazonなどのSNS、ソーシャルサービスが進展。Amazonのほしい物リストが災害時の物資支援に有効であると言われた半面、悪用する人も居た
  • Twitterのハッシュタグ『#救助』の定着。役立つものもあるが、曖昧で、あるいはツリ?で、救助機関も困惑する事態も発生。
  • Twitter社による、『#救助』ガイドラインが出てきた。しかし発信は整理されつつあるが、情報を消すマナーが、まだまだ整理されていない
  • 避難所の写真をInstagramに載せて、誘導する事例も。プライバシー問題を内在するが、スモールなのでいまのところ顕在化せず。
  • 博報堂のメディア接触時間の調査では、TVの比率が低下しているなどが見られるが、トータルの情報接触時間として考えた場合は、情報接触時間の合計が全体として増加。情報のプレゼンスが増している。
  • そういう、情報のプレゼンスが増している中、大阪北部地震での『ジュセリーノの予言』デマの問題が発生。事実では無い事が、Twitterなどで拡散された。拡散されているうちに、内容も変更していくなども事例も見られる。
  • また、前述の救助要請情報が、被災していない地域の人による多数の「感想」の書き込みで埋没してしまうと言う問題も発生している。
  • 高齢者は、スマホを使いこなしていないでの、避難情報の入手が遅れ避難できず。
  • 世の中には情報は溢れかえっているのに、必要な人に必要な情報が届いていない。海外も同様な状況。
  • 熊本地震に関する発達障がい者の保護者のあつまり育成会への聞き取りで、「どうすればいいのかわからなかった」「自分たちに使える情報がない」と言う声があった。また、発災後2ヶ月程度経過した頃が、不安、ストレスのピークであったという意見もあった。2か月後と言うのは、世の中が復旧に向かい始める頃の時期だが、そんな状況だった。人によっては、1年経っても、まだまだ困っている人も。
  • 「みんなの問題だよね」というのは、暖かく聞こえて、暖かく感じるが、“みんな”が特定されないと意味がない。
  • SNS強者の若者とSNS弱者の高齢者の世代を超えた連携で、情報弱者に情報を届けると言う事ができるし、逆に、人生経験の多い高齢者が人生経験の少ない若者に避難生活上のアドバイスができることも。
  • 東日本大震災で、新聞の読み上げ放送をコミュニティーFM(せんだい泉FM)で実施した。その際、敢えて悲惨な情報を読まずに、必要な情報をフィルタリングして提供するなどの工夫を行っている。

    【地域のメディアを再発見する】
  • 神戸市長田区真陽小学校区。阪神淡路大震災では、住宅被害が多かった地区。南海トラフ地震では、地区の8割が浸水想定されている。
  • 「時間を味方に」と言う考え方で、地震発生から津波到来までの残り時間のうち、可能な範囲で救助活動を実施
  • 「地域で道具を」と言う事で、救助後、被救助者を安全なエリアなどに搬送するため、リヤカーを準備したが足りない。そこで、街中にあるどういう道具が使えて、何が使えないかと言う実験を踏まえて、近隣にあるショッピングセンターのショッピングカートを(暗黙の了解として)避難に使えるようにした。
  • 「情報が命綱に」では、防災行政無線が使えなくなった場合を想定して、小型のトランジスタメガホンでサイレンを鳴らして、地域を歩くと言う実験を実施。重要なのは、実際に実験してみたという所で、その結果走ると一瞬で聞こえなくなる事がわかり、歩くと言う事にした。トランジスタメガホンのサイレンが聞こえたら直ぐ避難。救助活動も、ここで打ち切りとルール化した。また、耳が不自由な人には、要援助者リストを作って対応する事とした。
  • 災害弱者:女性、高齢者、旅行者、こども、障がい者、妊婦、患者、貧困者。たくさんいる。こう言う人へ対応も重要。

    【励まし合いが力になる】
  • 色々災害情報を耳にすると、“敵が巨大すぎて身動きが取れない(情報にたじろぐ)”と言うネガティブスパイラルの気持ちになる事がある。南海トラフ地震で言われているのが、高知県黒潮町の「震前過疎」、四万十町「諦めムード」、尼崎市「避難放棄者」
  • 地震の例では無いが、京丹後町で『京丹後みんなでホッ!とCM』と言う取り組みをしている。この町は、森林が多い農村地域だが、野焼きなどの不始末による火災が多かった。そこで、実際の町民が出てくる前述のCMを作成し、ケーブルテレビで流した。流しているうちに、みんな=一人一人と言う意識が醸成されていった。CM100本達成して、記念CMを作成して盛り上がり感も情勢。世の中bad newsが多いが、この町では、2年間で連続6ヶ月火災ゼロが2回あり、happy newsになった。
  • 神戸市長田区真陽地区では、ぼうさいマイCREDOと言うものを作った。住民が、災害の際に、自分が何をするのかと言う事を宣言する事。その宣言をカレンダー化して地域に配布した=地域で共有した。そのカレンダーは、月めくりなので、1ヶ月は同じページが掲示される。子供から大人まで出ているが、「子供が言っているんだから、大人の自分はもっとしっかりしないと」と責任感や使命感が醸成され、住民意識が変わった。
  • 防災対策は、みんなが主人公。

    【まとめ】
  • いまは多様なメディアがあり、無限の可能性がある。情報、知恵は、共有することで力になる。

こんな感じでしょうか。
非常に勉強になりました。

東京オトナ大学 奥山清行氏講演会 『地場産業のブランディングと地方創生―日本のものづくりを考える―』

2018-11-23 | 講演会
勤労感謝の日!
快晴!

そんな今日は、東京オトナ大学に参戦です。
今回で9回目になるらしいのですが、
ほぼ参戦しています。

今回の講演は、デザイナーの奥山清行さん。

15:00の講演時間になって、講演の開始です。
講演の冒頭は、Kobe.9を作る際のビデオ。
奥山さんが描いたデザインが、クルマの形になっていくのを見て、
なんか、ワクワクしました。

そして、お話が始まります。

  • 当初は「伝統技術のブランディングと地方創生―日本のものづくりを考える―」と言う講演タイトルでしたが、「地場産業のブランディングと地方創生―日本のものづくりを考える―」と言うタイトルに変更
  • 日本人の悪いところは、過去と未来は“違う”と考えるところ。ヨーロッパでは、過去と今、未来は繋がっていると言う思考。なので、“伝統産業”と言う言葉ではなく、“地場産業”に変えてみた

  • まずは、四季島の話から
  • 四季島は観光のブランドピラミッド。
  • 日本は、伝統を重要視するあまり、過去を振り返りがち。四季島は、そういう考え方ではなく、未来から見た場合の伝統という考え方で作った。
  • 日本は、コモデティを大量生産するのが得意。しかし、日本以上にコモデティを低価格で生産する国が出てきて、日本は困ってきている。
  • ブランドピラミッドと言う考え方がある。一番上にフラッグシップ商品、二段目に主力商品、そして、一番下にコモデティ商品と言う序列。フラッグシップは、値崩れを起こしてはいけないので、たくさん作ってはダメ。なので、フェラーリなんかは1万台も作らない
  • Louis Vuittonは、自身を「カバン屋ではない」と定義している。カバン屋と定義してカバンだけを作っていては、エントリーユーザを捕まえられず、既存顧客は年とともに高齢化していくだけなので、最後にはブランドは死んでしまう。なので、同じ素材、同じ作りかたで、違う商材(財布とか)を作ってエントリーユーザを獲得する事をしている
  • コモデティ=“仕方なく買うもの”、プレミアム商品=“顧客がプレミアム価格を払っても買いたいと感じるもの”、ラグジュアリー商品=“初期投資より価値が上がる商品/買いたくて“仕方ない”商品”。不動産、フェラーリなどは、ラグジュアリー商品。ラグジュアリー商品は、日本にはない。ランボルギーニも、ポルシェも、プレミアムではあるが、ラグジュアリーではない。それは、時間が経っても値段が上がらないから。
  • 四季島での旅は「エクスペリアンスデザイン」。鉄道の旅、その全てをデザインして、日本の四季の自然と文化を楽しむと言う事をめざした。
  • 同時に「ビジネスデザイン」と言う事で、地場産業が参加したくなるビジネスモデル構築も目指した。ダイナーには、秋田木工、天童木工、コニカミノルタ、燕三条各社、大倉陶園のものが使われている。宮内庁御用達とかとは違い、JR東日本は民間企業なので、四季島で使われているものの市販を行うことまで考えて、ビジネスモデルを考えた
  • 四季島の先頭車両は、ハレのモダンデザイン。森林をイメージしている。内装には、オリエンタルカーペット、ポルトローナフラウの皮を使ったソファがある。カーペットは隈研吾のデザイン。隈研吾のデザインフィーは支払わなかったが、カーペットのロイヤルティが入るようにした。
  • 四季島スイート、デラックススイートは、ケのクラシックデザイン。これらには檜風呂があるが、鉄道で風呂を実現するには、水の補給が大変。通常鉄道車両の内装は、不燃を実現するために、見た目は木であっても、金属に表面加工を施して木に見える様にしていたりする。しかし、ある高さ以上では木を使っても良かったので木を使っている。風呂の最大の問題は、緊急停車の時に、風呂の水が溢れない事にすること。どうやっても解決しなかったので、諦めかけていたが、開発に川崎重工のオートバイのエンジニアが参加していて、そのエンジニアがオートバイの燃料タンクで燃料が停車した時に跳ねない様にするアイディアを知っていて、その応用で水溢れを防ぐ風呂のデザインを作った
  • 「神は細部に宿る」と言うのはレストラン。最初、中村勝広シェフは(奥山さんに)遠慮して「ヌーベルキュイジーヌにしましょうか?」とか言っていたが、逆に、思いっきりフレンチにしてくださいというと、“フレンチはナイフが命”と言って、いいナイフを選び始め、そうこうしているうちに、結局、全てを中村シェフが決めていた
  • 四季島のロゴ。普通の電車だとシールにしたりするが、四季島はシールではなく、真鍮。真鍮は汚れるので、キレイに清掃する必要があり、そのメンテナンスの計画も考えた。また、前述の檜風呂の水補給計画。水の補給には2時間かかるので、どこで補給するのかと言う事が重要になる。そういうものも考えた。
  • 四季島は、考え始めてから、走り始めるまで5年かかった。「大切な人の5年後の誕生日プレゼント探し」と言うコンセプトだが、実際にはわかるわけがない。だが、自分がその人の一番上手にしてあげられることと考えて、三内丸山遺跡で研究室に入って縄文土器を特別に持つ体験や、青森県立美術館収蔵のシャガールの4作品を、朝6時に独占して見ることができる、などのスペシャルな事を考えた。あとで、プライベートで三内丸山遺跡に行っても研究室には入れないし、縄文土器も持てなかった。青森県立美術館でシャガールも見たが、多くの観光客に紛れてみる事になった
  • 「一生忘れ得ない旅を創る」と言う事は、感動を支えるチーム作りでもある。従業員のユニフォームもデザイン。ハードは半分、あとは、ソフト=スタッフ。
  • 「製造業(運輸業)からサービス業への意識改革」。四季島の旅は決して安くないが、34人の客に17人の乗車スタッフがいる。これだけだと、JRの収支は赤字。そのほかの周辺のことまで考えて、トータルでの収支と言う考え方でないと出来ない。
  • 四季島の発着する上野駅の13.5番線は、通勤電車が普通に走っていて雰囲気がない。消防法規定で壁も作れないので、そのときだけ暖簾見たいなものが降りてくる様にして、乗る前から雰囲気が盛り上がっていくようにした

  • E3系の塗装変更もデザインした。赤い線があるが、あそこは職人の手塗りでグラデーションを実現している。あの赤色の線は、紅花をイメージして黄色から赤色になるグラデーションにしてある。紅花は棘がある植物で、厚い手袋をしても、詰む時に農家は手から血が出る。そのことから、「紅花の赤は、農家の血の色」と言う話を利府工場でしたら、工場の職人達が色がグラデーションしている意味を理解して、やってくれた。しかも、上手な一人だけ出来ても意味が無いので、6人の職人全員ができるようにシステム化して、できるようにした

  • 「フェラーリ=イタリア地場産業」フェラーリは、F1やるために車を作っている。なので、F1を止めるという事はあり得ない

  • 「有田焼開窯400周年事業プロデュース」と言うのもやった。有田焼は、元々輸出するために400年前に始められたものだったが、プロデュースを始めた時の全輸出額は5000万円。全然輸出されていなかった。有田焼は、1900年パリ万博で金賞を受賞したが、その時の作品はヨーロッパがイメージする日本に合わせて作ったので、金きら金でコテコテなデザイン。住み込みまでしてプロジェクトを進め、輸出を目指してヨーロッパの展示会に行ったら、皿に描かれたデザインは要らないとか、ナイフとフォークで食べたらナイフは左手で使うので実は皿のデザインが合っていないという事を知った。また、初回の時は、値段を付けないでいた。しかし、見に来たバイヤーに「値段つけろ」と怒られた。次の年は、ちゃんと値段を付けて行ったら、バイヤーが評価して買ってくれた。値付けについても、最初は原価積み上げだったが、それは高い。最初から売値ありきで商品設計を実施した。この展示会での経験で、言葉ができなくてもバイヤーと直接やり取りすることで、現場がわかった。自分のお金でやるのはアート、顧客のお金でやるのはデザイン。製造技術より販路、価格設定。
  • 展示会のブースに入る時、160CMの高さの暖簾のような作りにして、背の高い外国人は頭を下げないと入れないようにした。強制的に頭を下げさせて入るように
  • 展示会参加3年目。話題作りとして、隈研吾、佐藤可士和、北野武の3人のデザインのものをだした。これらはフラッグシップ商品。

  • 「山形工房」「新民芸運動」見てもマネのできないものを作る。砂型は、山形でしか作れない。
  • 「地方から直接世界へ」1億5000万のスーパーカーを山形で作った。世界でたった一台。利益はほとんど出ないが、客とプロセスを楽しむ。「出口戦略=KOD」を考えることが重要

  • 「ものつくり、まちつくり、ひとつくり」ものを作っていると、必ず、街つくりの話になる。
  • 「平成希望の五重塔」津波避難棟。安価で、耐久性100年。無骨なものも嫌なので、美しく。奥山事務所の20%プロジェクトで出てきたもの。インキュベーションプロジェクト。

いやぁ、あっという間の一時間でした。

国立西洋美術館 「ミケランジェロ展」記念講演会『ルネサンス期のローマ:古代彫刻の街』

2018-09-08 | 講演会
涼しくなったかと思ったら、なぜだかめっちゃ暑い土曜日の今日は、
上野の国立西洋美術館で行われている『ミケランジェロと理想の身体』の
記念講演会に行って見ました。

最近、この手の講演会は、結構混む事が多いのですが、
今日もその様でした。
講演会の整理券配布が12時からなのですが、
「まだ大丈夫だろう。並び始めたら並ぼう」と思って、
11時頃に国立西洋美術館に行ったところ、
既に並び始めている人が!
「ヤバイ!」と思い、並んでいる間にトイレに行かなくても済む様に、
トイレに行ってから、列ができているところに行って見ると、
その前に目撃した時よりも、並んでいる人が増えていました!
と言う事で、今日は、1時間前から行列です。
1時間も並ぶことは、予定してなかったよ(苦笑)

ちなみに今日の講演会は、全部で3回予定されている講演会の3回目。
展覧会自体も、9月24日までで、あと2週間くらいですからね。

と言う事で、その最終回の講演会は、
「ルネサンス期のローマ:古代彫刻の街」と言うタイトルで、
講師は、この展覧会の監修をした、国立西洋美術館主任研究員
飯塚隆さん。
期待が持てます。

1時間並んで、整理券を入手!
並んだ甲斐ありました。

講演会は、以下の様な感じです。

  • まず、「講演会は別にして、展覧会素晴らしかった」と宣伝してほしい(笑)。
  • 簡単に、講演に出てくるところを確認。カンピドーリオは、パンテオンとコロッセオの間位に位置。バチカンは、テヴェレ川の向こう。ただ、意外に広い範囲ではなく、歩こうと思えば歩ける範囲
  • 16世紀前半。既に、カンピドーリオとヴァチカンには古代彫刻があった。カンピドーリオには、《マルクスアウレリウスの騎馬像》、《とげを抜く少年》、《コンスタンティヌスの座像》など。ヴァチカンには、《ラオコーン》、《ベルヴェデーレのアポロン》、《ベルヴェデーレのトルソ》など。これらは、いまでも見られる。これらの古代彫刻が、ルネサンスなどに大きな影響を与えた。

  • 1530年代のヴァチカンについて
  • オランダの画家マールテン・ファン・ヘームスケルクは、ヴァチカンのスケッチを残している。書かれた場所と時代がわかると言う意味で、非常に貴重。
  • 一つは、いまはヴァチカン美術館となっている建物。この建物は、教皇インノケンティウス8世が1487年ごろに建てた小宮殿(ベルヴェデーレの別荘)。
  • ヘルムスケークのスケッチだと、いまのヴァチカン美術館の建物は、建物が丘の上にある様に見えている。しかし、今現在現地に行っても、建物が丘の上にあると言うことは中々実感できない。しかし、螺旋階段を見ると、建物が意外に高いところにあると言う事が近い出来る。いま使われている螺旋階段は1934年に造られたものだが、実は、スケッチが書かれたころにも既に螺旋階段があった。その螺旋階段は、今は立ち入り禁止になっているが、使われていた当時は馬車で上がる事ができる様になっていて、実はベルヴェデーレの別荘の中庭「彫刻の中庭」に行くために、教皇ユリウス2世がブラマンテに作らせた。
  • 古代彫刻のコレクションの始まりは、教皇ユリウス2世。ヘームスケルクの別のスケッチには、《ラオコーン》がしっかりと描かれている。ヴァチカン美術館のコレクションは、この《ラオコーン》から始まると言ってよい。

  • カンピドーリオについて。
  • ここもスケッチが残されている。1550年代を描いたスケッチと今を比べると、広場に面している左側の建物がなかった。
  • 1470年以前、カピトリーノの丘で見るべき古代彫刻は1点だけ。教皇シクストゥス4世が、1471年、ラテラーノ宮のコレクションを「ローマ市民に寄贈する」と言ってカピトリーノの丘に置いたのが、カンピドーリオの始まり。
  • 教皇シクストゥス4世の方が世代が先。教皇シクストゥス4世の行動が教皇ユリウス2世に影響を与えた事は想像に難く無い。
  • 15世紀、カピトリーノの丘は荒れ果てていた。教皇シクストゥス4世以前、《馬を襲う獅子》だけがカピトリーノにあった。この彫刻は、ミケランジェロが絶賛していたことが知られている。カンピドーリオの広場に面している中央の建物をパラッツォ・セナトーリオと言うが、そこから広場に真っすぐ向かう階段に彫刻はあった。
  • しかし1536年以前、ヘームスケルクのスケッチによれば、《馬を襲う獅子》は、同じくパラッツォ・セナトーリオの階段にあったが、階段の形状が異なっている。
  • 同じくヘームスケルクのスケッチによれば、ロムルスとレムスが描かれている《カピトリヌスの雌狼》や《コンスタンティヌスの頭像》、《ナイル川の擬人像》、《テヴェレ川の擬人像》などがカンピドーリオのどこに置かれていたかがわかる。
  • 1530年代と1550年代のスケッチを比べると、パラッツォ・セナトーリオの中央階段の改築された事がわかる。そのカンピドーリオの丘の整備計画は、ミケランジェロが、パウルス3世の依頼を受けて計画を立てた。その改修は、1538年マルクス・アウレリウス騎馬像を移設したことがわかっている。また、サンタ・マリア・イン・アラ・コエリ教会の前にパラッツォ・ヌオーヴォを建て、広場の形を対照的な配置にした。そして、広場の中心には《マルクスアウレリウス騎馬像》が位置している。

  • 《ラオコーン》について
  • 1506年1月にラオコーンは発見された。発掘にはミケランジェロが立ち会った?とも言われている。
  • 実際の発掘は、ジュリアーノ・ダ・サンガッロが行っていた。《ラオコーン》が出てきた際、プリニウスの『博物誌』に記述されているものとすぐに理解された。《ラオコーン》のある場所は“Domus Titi”と『博物誌』に書かれているが、“Domus Titi”の場所は特定できていなかった。
  • ラオコーンが発掘されたのは、「コロッセオの近く?」、「サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の近く?」、「サンタ・マリア・マッジョーレ教会の近く?」など、いろいろな言われ方をしている。それらのランドマークの近くにはオッピオの丘がある。オッピオの丘には、ローマ時代の遺構が残っていて、トラヤヌス浴場とか、ティトゥス浴場とか、ネロの黄金宮、ティトゥス宮殿があった。
  • 《ラオコーン》は1506年1月の発見され、1506年3月には、ユリウス2世が購入している。その際、《ラオコーン》はフレディスの葡萄畑で発見されたとされているが、その葡萄畑はどこか?1557年のローマの地図によれば、Domus Titiと描かれているところがある。1527年3月の公証人の記録によれば、Sette Saleという水槽の近く、家屋(フレディスの家屋)が含まれるなどという記述がある。また《ラオコーン》は、4mの深さから発見されている事が分かっている。葡萄の畑仕事では4mも掘る事はない。それらのことから、ラオコーンの発見場所は、Sette Sale付近と特定されている。フレディスの家屋は現存している

  • 《ラオコーン》は、当時の芸術家に非常に大きい影響を与えた。
  • マルコ・ダ・ラヴェンナの版画や、バッチョ・バンディネッリの彫刻、ヴィンツェンツォ・デ・ロッシの彫刻。
  • 《ラオコーン》に触発されて作られたロッシのラオコーン彫刻と、本物の《ラオコーン》には、違いがある。ツッコミどころ満載。

  • 今回の展覧会は、男性の彫刻像が多い。ルネサンス期のもとは、古代ローマで、古代ローマのギリシア彫刻を丁寧に模している。《ベルヴェデーレのアポロン》。
  • 古代ローマは、アルカイック、クラシック、ヘレニズム、ローマと分けることが出来る。
  • ギリシア彫刻は、繰り返して男性の裸体を作ることで、理想の身体を求めていた。理想像は、BC440のポリュクレイトスの《ドリュフォロス》に見られる
  • BC490の《アリストディコス》と《ドリュフォロス》は違う。後者は、片足に重心を置いている(=コントラポスト)が、前者は直線的である
  • コントラポストは、肩、腹筋、腰のラインが斜めになっている。これは、身体が機能しているから、こういう姿を示す。人が生きているかのような表現になっている。生身の肉体として見える。
  • それ以前は、肩、腹筋、腰のラインは平行で、身体が機能していない表現。石の塊としてしか見えない。
  • 理想の身体を通じて、ルネサンスに至る。
  • 《アメルングの運動選手》。一部欠けているが、全体像が何となくわかる。ギリシア彫刻という基となる作品があって、それの複製がローマン・コピー。ローマン・コピーは、精度が高いので、オリジナルがなるがなくても、ギリシア彫刻がわかる。
  • ミュロンの《円盤投げ》。
    ・《アリストディコス》(左右対称)と《クリティオスの少年》(左右非対称)。後者が、コントラポスト。

  • 《ダヴィデ=アポロ》。既に、1500年代に、どちらであるかという事がわからなくなっていて、《ダヴィデ》とも《アポロ》とも言われている。
  • 《若き洗礼者ヨハネ》。スペインのウベダと言う街にある。コンディーヴィの記録によれば、1495から1496年に、ミケランジェロはヨハネ像を作ったとされているが、ヨハネ像のその後がわからなかった。1930年、ウベダでヨハネ像が発見されるが、スペイン内戦で破壊。破壊された状態のまま保存され、1994年にフィレンツェに運ばれる。2013年、IT技術を駆使して修復完了。全体の40%がオリジナルで、残りは修復部分。ウベダのエル・サルバドル大聖堂の写真に破壊前の姿があり、その他様々な資料で全体像がわかり復元できた。修復後、スペインとイタリアで公開された他は非公開だった。日本で久しぶりに公開された。
  • 《ダヴィデ=アポロ》と《若き洗礼者ヨハネ》は、かつて、同じ所有者に所有されていたが、のちにバラバラに。今回、約500年ぶりくらいに一緒に会堂している事も注目

こんな感じでしょうか。
写真が沢山あった講演会で、中々面白かったです。

東京都美術館 「プーシキン美術館展」記念講演会『プーシキン美術館と珠玉のコレクション』

2018-04-14 | 講演会
この土日は、荒れ模様の天気予報。
とはいえ、土曜日は曇りではあるものの、
まだ雨は降っておらず&風もまだ無かったので、上野にGO!
東京都美術館で今日から開催のプーシキン美術館展の
記念講演会の聴講です。

展覧会は、今日が初日で、見に行こうかなぁとも思ったのですが、
展覧会と講演会のハシゴをすると大変なので、今日は講演会聴講のみ。
展覧会は、また後日にしました。

初日で行われる講演会で、且つ、講師がプーシキン美術館の
館長さんと言う事なので、「これは、満席か?」と思って、
めっちゃ気合を入れて聴講券配布に挑んだんですが、
空席もあって、そんなに気合を入れなくても良かったかも。
今日は、国立西洋美術館でもプラド美術館展講演会があるので、
分散したかな?
って言うか、次回も、講演会が重なっているんだよねぇ。
日程を調整して欲しいなぁ。

さて、今日の講演会の講師は、上記の通り、
プーシキン美術館館長のマリーナ・ロシャクさんで、
タイトルは『プーシキン美術館と珠玉のコレクション』

講演は、だいたい以下の感じですね。

  • まず、講演がロシア語!当然通訳はいます。そう言えば、以前は、フランス語の講演と言うのもあったな。

  • プーシキン美術館の巡回展が日本に来るのは今回で3回目。1回目は2005だった年。
  • 日本の美術愛好家に何を持ってくるのがいいか常に考えていて、結果、やはり印象派と後期印象派が日本に良いという事がわかった
  • プーシキン美術館は、古代エジプトから始まる非常に幅広いコレクションがある。そんなプーシキン美術館には、世界中から貸与依頼の手紙が来るが、必ず印象派・後期印象派は貸与希望の中に入る
  • 世界中で印象派・後期印象派の展覧会があるが、プーシキン美術館の作品抜きではありえない

  • さて、世界中のどの美術館もひとりあるいは何人かのコレクターにコレクションは依存している。プーシキン美術館も同じである
  • 今日は、プーシキン美術館に関連する2人のコレクターについて話をする。二人のコレクションは、エルミタージュ美術館の礎にもなっている。

  • 現在のプーシキン美術館とエルミタージュ美術館が収蔵している珠玉のコレクションの礎を築いたのはセルゲイ・シチューキンとイワン・モロゾフと言う二人のコレクター
  • 20世紀初頭が2人の人生の最も輝いた時期である。
  • シチューキンとモロゾフの2人は常に一緒に語られた。今日はそれぞれについて語りたい
  • 20世紀初頭。ロシアの頂点の時期。この頃には、商人、商人(あきんど)、ビジネスマンと言われるこれまでに無い人たちがロシアに出現し始めた
  • これらの人々は、単なる商人と言うだけではなく、世界にある新しいものを自分の国に取り入れようとする教養も備えた人たちだった

  • まずシチューキン。彼の一族は、彼の父親の代から大きな財を築いて居た。
  • シュルキンは、ドイツやイギリスで教育を受けた。少なくとも4ヶ国語を学び、音楽、文学に造詣が深かった。加えて、信仰に篤く、道徳的だった。
  • シチューキンの一族のビジネスでは、数多くの工場があった。労働者も多数抱えて居た。従業員のために学校、病院、住宅も作るのが務めと思っていた
  • シチューキンは、4人兄弟で一番体が弱かった。よって、自分で自分を鍛えなければならないという気持ちが強かった。武士道的な精神も学び、その他健康に関する事では、必ず窓を開けて寝たり、冬に冷水を浴びたり、菜食主義であるなど。スポーツにも熱心に取り組んだ。体が弱かったと言う事がシチューキンの人生に大きな影響を与えた
  • シチューキンが結婚相手に選んだのはモスクワで一、二を争う美女。結婚後二人は、クレムリンに近い一等地に家を建てた。そしてそこで、モスクワの上層部と交感した
  • シチューキンは常にインパクトを求める人物だった結婚間もない二人は、1900年代始め、インド、エジプト、スーダンを訪れた
  • このオリエントへの旅が、後年にシチューキンがマティスに惹きつけられる礎になった。
  • シチューキンはモスクワの保守層に位置付けられるが、絵画はそれとは逆なラディカルな作品に惹かれた。
  • 弟のイワンがパリに住んでおり、兄シチューキンに影響を与えた
  • パリに住んでいたイワンは、当時のパリに数多いたボヘミアンと交流していた。これを通じて、シチューキンがパリ、フランスの芸術に触れるようになった
  • シチューキンは、ボラールという人物が経営するギャラリーに出入りしていた。ボラールは、当時の先端の芸術(ピカソの様な)に手を出すリスクをとる人物であった
  • ボラール、ルエール、オンゴランというのが当時のパリで有名な3人のギャラリー経営者。この3人は、今、私たちが知っている様な傑作を描く画家たちと交流があったが、当時はまだ、画家たちは不遇な境遇であった
  • シチューキンもモロゾフも絵を買うためパリに行った。ギャラリーでは彼らが来るのを待っていた。画家も、シチューキンたちに絵を買ってもらうために待っていた
  • シチューキンは、ピサロからコレクションを始めるが、ピサロにはボラールのギャラリーで出会っている
  • シチューキンは、短期間でモネの作品を13作品を買った。一点あたり20000から40000フランの値段であるが、現代の価値に直すと、莫大な金額であり、この時の購入価格が、今に続くモネの作品の価値を決めたとも言われている
  • シチューキンは同時代のロシア美術には興味がなくフランス美術にのみ興味を持っていた。作品の購入に際しては、他人に意見を求める事なく自分だけで決定していた。シチューキンのコレクションは、シチューキンという人間の愛、情熱の歴史である
  • シチューキンは新しい自分のターゲットを見つける事があると、全てを手に入れたがった
  • 一般にコレクターは安定を求めるが、シチューキンの場合はリスクをとる事にためらいは無かった
  • 作品を見て好きになるには女性を好きになるのと同じとシチューキンは言っている
  • モネの作品は一気に13点買っている
  • セザンヌは、作品は買ったが恋はしなかった。なので5点しかない。他方、ゴーガンは16作も買っている
  • しかし、シチューキンは直ぐにゴーガンを理解したわけではなかった。
  • シチューキンは、画家を理解するために学習する人だった
  • 気に入った作品は、宮殿ともいうべきシチューキンの家の主だった部屋に飾られていた
  • 一方、「これから慣れる必要がある」「理解のために勉強する必要がある」と言う作品は、ランクの下の別の部屋に飾っていた
  • シチューキンの家は全くオープンな家で、人々に「見に来てください」というような家だった。実際に見に来た同業の人達には、作品は不評であった。それを見たシチューキンは「他人を苛立たせた」と満足していた
  • ゴーガンは、そんなシチューキンであっても、目に触れないようにしていた様な作品だった。しかし、シチューキンがゴーガンを理解するにつれ、目につくところに飾り始めた。
  • ゴーガンの作品は、長男自殺、妻の肺炎での死亡、弟のイワンの自殺。末っ子の自殺などが続いたシチューキンの人生が辛い時期に薬としての役割も果たした。
  • この人生のつらい時期に、シチューキンは28日間の巡礼に出た。
  • 巡礼の旅でシチューキンは生まれ変わったと感じる事が出来たと感じ、モスクワに戻った。そして、パリのボラールの画廊に行ってゴーガンを手に入れた。
  • その後の「恋」の歴史は、マチスとピカソ。
  • マチスとピカソとシチューキンの出会いはパリ。ガートルート・スタインのサロンで出会った。
  • シチューキンはボラールに「マチスと個人的にも知り合いたい」と言った。マチスはまだまだ新進気鋭の若い時期の事である
  • このことはマチスにも幸運で、マチスがシチューキンに出会わなければ、マチスがどうなっていたかはわからない。
  • 当時の人にとってマチスは過度に斬新だったが、シチューキンはマチスの作品を37点購入した。特に《音楽》と《ダンス》という作品は、シチューキンが自宅に飾るために注文したもの。
  • 作品は、マチスにとっても実験だった。《音楽》と《ダンス》は屋敷の入口に飾るものとして発注されたのだが、作品には、少年が裸で描かれていてポルノととられかねなかった。
  • シチューキンが、《音楽》と《ダンス》の習作を見たとき、リスクが高すぎたのでマチスにその事を何とか伝えようとしたが、マチスは既に作品の構想が完成しており、このまま行くべきだと思っていて、逆にシチューキンの思いを変えようとした。結局、シチューキンは、ゴーガンへの取り組みと同じ取り組みをしようとした。
  • しかし完成作を見たとき、シチューキンはやっぱり「ダメ」と思い、マチスに「自分の2人の少女が、毎日この作品を目にするとは考えられない」と手紙を書いた。「裸を葉っぱで隠せないか」とシチューキンはマチスに言い、マチスは了解したが、何度か手紙をやり取りして時間が経っていたその頃には、シチューキンは慣れて来ていて「これでもいいか」と思い始めていた。
  • その後シチューキンは、モスクワにマチスを招いたが、自身は親族に不幸があり別のところにいた。そのため、接待役として仲間の事業家たちに「マチスを豪遊させてくれ」と頼んで、マチスは豪遊を味わった。このことは、その後、シチューキンが持っていたマチスの展示を変えてしまうと言う事に繋がっている。シチューキンは、マチスの作品だけ飾る「バラの間」を作った。
  • まだシチューキン・コレクションの完成ではなかった。ピカソがなかった。
  • ピカソへの愛は、シチューキンが秘めていた激しさを露わにした
  • なぜならば、ピカソの作品はキュビズム初期の作品で、世の中には全く理解されていなかった。
  • 《扇子を持った女性》が、最初に買ったピカソ。シチューキンは、慣れない作品の通例通り、人があまり通らず、狭く、薄暗い廊下に最初は飾った。
  • 廊下を通るたび目に触れるようになり、人目に触れるようなところに飾られて行くようになった。
  • ピカソの作品は51点にもなる。それらは、直接ピカソから買った。

  • このような経過で、シチューキンの家はコレクションで飾られて行く。
  • ピカソの作品に並ぶように飾られたのはドラン。
  • シチューキンの開かれた家は、ロシア・アバンギャルド産むベースになった
  • その後、シチューキンの人生の悲しいパートが始まる。第一次大戦でパリに行けなくなり、革命が始まった。シチューキンは、娘婿にコレクションは託し、家族を引き連れパリへ逃げた。しかし、彼のコレクションは国有化されてしまい、第一国立美術館と呼ばれる様になった。

    (ここで、残り20分)

  • モロゾフもシチューキンに引けを取らない人だが、全く違う人
  • 美とハーモニーを大切にし、モネ、シスレーを愛した
  • セザンヌはモロゾフにとって「自分の画家」であり、ナビ派を好んだ
  • 世の中にあるベストのボナールはモロゾフのコレクションにある
  • モロゾフとシチューキンは、互いをライバル視してはいなかったが、実際にはライバルだった
  • モロゾフは、自分のコレクションも人々に影響を与えるようになってほしいとおもっていた
  • モロゾフはボナールに絵画三点を発注
  • マチスにも絵画を発注し、マチスはモロッコ三部作を作成した。これらは、モロゾフ邸の入口を飾る
  • モロゾフは、ドニを発掘してもいる。ドニの作品は、モロゾフ邸の音楽室の壁を全て飾った。
  • モロゾフとシチューキンの違い。モロゾフは雌鶏が卵を温めるかのように作品に接した。どのように作品を飾るべきか常に考えて、壁には開きスペースを作っていた。ボラールに作品を探させて、開きスペースを埋めた。
  • モロゾフは根切りをしないコレクターとしてパリで知られていた。モロゾフは値段には興味なく、作品が自分に必要であるということしか興味なかった
  • モロゾフはキャバレーの踊り子と結婚したが、モロゾフの階級ではあり得ないことだった。

  • シチューキンは、パリに逃れてからは、お金には困らなかったが、芸術を愛するということはなかった。
  • 革命が起きてモロゾフのコレクションも国有化。国立第二西洋美術館となった。モロゾフは美術館となった自分の家に住み続けたが、質素な部屋に移る様に言われたためパリに逃れた。その後バーデンバーデンで50歳でなくなる

  • シチューキン邸にモロゾフの作品が移され、一緒にされた。国立西洋近代美術館になった。
  • 纏められた二つのコレクションは、他を圧倒する作品。
  • ほかのコレクションも集められ、作品は充実していった。
  • その国立西洋近代美術館に後のNY MOMA館長となる人物が訪れ、NY MOMA設立のインパクト得た
  • 美術館の作品は、共産党の理念に合わず解散の危機に常に晒されて、最終的には本当に解散決定。職員は作品が散逸する事を恐れた。
  • プーシキン美術館はドレスデン美術館の作品を引き受けていた時期。数多く受け入れていた頃だったので、収蔵するスペースが足りなかった。
  • そこで、エルミタージュ美術館に声をかけて、プーシキン美術館の館長とエルミタージュ美術館の館長が作品を折半することなった。作家ごとではなく、数で単純に分けた。
  • スターリンが死ぬまで、どちらでも収蔵庫にしまわれていた。プーシキン美術館ではスターリン死後に公開される。
  • フルシチョフ秘密報告の頃始めてピカソが公開。新惑星発見かのようにインパクトを与えた
  • しかし2000年代に至るまで、コレクターについては全く知られていなかった。
  • 2004年になって初めてシチューキン・コレクション展をプーシキン美術館で実施。その後モロゾフ・コレクション展も実施。今はキャプションに元々のコレクションの表記がある
  • パリでシチューキン・コレクション展を行い大成功した。モロゾフ・コレクション展はまだ行っていないので、これから行う予定。

こんな感じでしょうか。
15:30までの予定時間にも関わらず、
シチューキンの話だけで15:10頃になっていたのにはビックリ。
モロゾフの話はしないのかと思いましたよ(苦笑)
話は論理的で、非常にわかりやすかったです。

国立西洋美術館 「プラド美術館展」記念講演会『ベラスケスとスペインの風景』

2018-04-07 | 講演会
昨日は、夕方から、台風かの様な、強風の荒天でしたが、
今日までは引きずらなかった様です。
曇りですけどね。

と言う事で、国立西洋美術館で行われる
プラド美術館展講演会に来ました。

12:00に聴講券配布開始なんですが、
50分も前の11:10頃に通りかかってみたら、
既に行列ができ始めていました。
慌てて並びます。
こんなに早く並ぶ予定じゃ無かったんですけどねぇ。

足がしびれ始めた12:00になって、聴講券配布開始。
以前は、講演タイトルと講師の名前が書かれた
紙の聴講券だったんですが、こんな聴講券になったんですね。

エコではありますが、前の方が良かったかなぁ。

講演開始の14:00になって、講演開始。
今日の講師は、このプラド美術館展監修者で、
国立西洋美術館主任研究員の川瀬佑介さん。
講演テーマは「ベラスケスとスペインの風景」

以下に、だいたいの要旨を示します

  • スペインでは、フランドルの様に純粋な風景画と言うものは発展しなかった。宮廷の様子を描いた絵画の中で、風景の描写が成長していった。

  • 《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》。風景画の発展しなかったスペインにおいて、この絵画の風景は例外的。ベラスケスは、風景(画)は描いたが、主たる作品ではない。しかし描かれた風景はリアルで、また、当時の描き方として非常にモダンだった。描かれているのはグアダラマ山脈と見られていて、実際の山々の様子と一致している。
  • ベラスケス以外にも、スペインで風景画を描いた画家は居た。しかし、スペインでは風景画はマイナーなジャンルであり、宗教画などの方がメジャーなジャンルだった。
  • スペインの風景画の特徴は、宮廷を中心に発達したという事。理想的な風景、宮廷の行事を記録するクロニクルという要素が強い。
  • その様な背景の下、ブエン・レティーロ宮には多くの画家の絵画が飾られた。
  • また、アランフェス宮には「風景の間」が作られる。

  • フランスの画家、クロード・ロランの描いたイタリアの風景は、明るい表現である。
  • 他方フランドルの画家、ヤン・ファン・ホイエンは、どんよりした天気も含めて写実的。明るいイタリアの絵画とは異なる。
  • スペインの画家エル・グレコの《トレド風景》は、決して写実的光景では無い。グレコは、写実的にトレドを描こうとしたわけではなく、トレドを象徴するものを描こうとした。
  • ペドロ・デ・オレンテの絵画には、聖書の画面に風景の意味合いも含められている。ベネチア絵画の影響と見られ、ティツィアーノの作品に似ているところもある。オレンテはグレコの影響を受けている一方、カラバッジョの影響も受けており、彼はそういう意味で、ベネチア派の画家と言える
  • ティントレットの《ガラリア湖のキリスト》での空の表現は、オレンテにも通じるものがある

  • ファン・バウティスタ・マイーノ。彼は、17世紀の初めにイタリアで絵画を学んだ。その後トレドで仕事した。
  • マイーノはローマでカラバッジョのみならず、多くの画家から良いところを学んだ。いいとこ取り。《洗礼者聖ヨハネ》では、ローマで学んだことを上手に表現している。
  • トレドは静物画を生み出した街だが、風景画も産んだ。
  • マイーノは才能に恵まれていたが、後に修道院に入ってしまうので、ローマで学んだ事を活かしきれなかった。

  • スペインにおいて、静物画はコレクターが育ったが、風景画についてはそうではなかった
  • ベラスケスが風景画を描いたのはイタリアの影響。《ヴィラ・メディチの庭園》は1630年にローマで絵描かれたが、時代に似つかわない表現がなされている。あまりに現代的な表現がされている。光を描きたかった?とも思われる。この時、4枚描いたと言われているが、《ヴィラ・メディチの庭園 クレオパトラのロッジア》と《ヴィラ・メディチの庭園 グロッタのロッジア》以外の2枚は見つかっていない。

  • 当時の戸外制作。ザンドラルトは、ロランに戸外制作を教えたと言っている。しかし、ザンドラルトが特に戸外制作に興味を持っていたという事は見受けられず、真実は不明。
  • 1630年ごろに、ベラスケスの他に、戸外で油彩で風景画を書いたと見られる作品は見受けられず。
    <il>ローマからの帰還後にベラスケスが描いた風景画は《フェリペ4世の猪狩り(テラ・レアル)》だけ
  • その他ベラスケスは、宗教画の背景に風景を描いている。しかし、工房が書いたのでは無いかという見方もある。


  • ベラスケが描いた《ブレダ開城》。フランドルにベラスケスは行っていないが、版画などを参考に背景の風景を描いている。これが飾られたブエン・レティーロ宮には、この作品を加えて12枚の戦勝絵画がある。戦勝画なので、何らかの風景の表現が必要。12枚の絵画は他の画家も描いていたが、それらは必ずしも風景画が得意な人では無かった。
  • フランシスコ・コリャンテスの風景画の画法は、フランドルの後期マニエリスムを下にしていると見られる。ヨース・ド・モンペールの様にスペインに行ったフランドルの画家がおり、コリャンテスはそれらからフランドル画法を学んだ?と考えられる。コリャンテスは風景画専門ではなかったが、重要な風景画画家の1人である。
  • アントニオ・デ・ぺレーダの《ジェノヴァ救援》。ぺレーダはイタリアに行った事は無いが、フランドルの版画などを下に描いている。
  • 《泉のある山岳風景》はアントニオ・デ・ぺレーダの作か、疑問がある。アントニオ・デ・ぺレーダの父も同姓同名のアントニオ・デ・ぺレーダであり、且つ、画家であった。もしかしたら父の作品かもしれないし、父の作品とした方が、自然に理解できる。
  • フェリクス・カスティーリョとジュセペ・レオナルド。この2人もブエン・レティーロに戦勝画を描いている。
  • ブエン・レティーロ宮の12枚の戦勝画は、殆どがスペインの外の戦い。画家は、そんなところに行った事は無いので、非常に困惑している。
  • フランシスコ・デ・スルバラン。最も風景画と縁遠そうな人だが、《カディス防衛》を描いている。《ヘラクレスとクレタの牝牛》については、マイーノの絵を学んだ?とも見える。
  • 《荊冠の幼児のキリスト》は、フランシスコ・デ・スルバラン工房の作品と見られる。風景表現がフランドルに近いと思えるので、工房に風景を描ける人が居たと解釈できる。

  • セビーリャでの風景画について少し述べる。
  • イグナシオ・イリアルテは殆どが風景画。
  • バルトロメ・エステバン・ムリーリョの作品には風景はあまり出てこないが《ラバンの羊の前に皮をはいだ木の枝を置くヤコブ》は、数少ない例。彼は、風景が得意では無かったのでイリアルテに風景を描いてもらおうとしたが、色々あって断られ、結果自分で描いた。しかしイリアルテの風景に似ており参考にしたと思える。

  • ブエン・レティーロ宮の話に戻ると、アロンソ・カーノの《王太子バルタサール・カルロス》の背景にも美しい背景が描かれている。
  • 《狩人のいる風景》は、誰が描いたかは不明だが、ベラスケスやカーノに近い風景表現がされている

  • フアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソ。ベラスケスの弟子?《アランフエスでの狩猟上覧》はフランドル風でもある。
  • 《サラゴサ眺望》は、マーソの傑作の一つ。王がここを訪れた事を記念する作品である。
  • 1657年にマーソはイタリアに行った。《ティトゥス帝の凱旋門》はその時に描いたかと見ることが出来、また、構図はベラスケスやロランを参考にしたとも見ることが出来る。マーソの描いた《ティトゥス帝の凱旋門》は、比較的リアルだが、画中にほとんど人がおらず、独特の空虚感がある。
  • ベニート・マヌエル・アグエロの《ラトナとカエルに姿を変えられた村人たち》は、マーソに似ている。アグエロが、アランフエス宮の風景画ギャラリーの33点の作品を一人で描いたと言う資料が存在している。しかし、その33点はマーソ描いたという資料もある。

こんな感じでしょうか。
なかなか面白かったです。

東京都美術館 「ブリューゲル展」記念講演会『ブリューゲル一族と16、17世紀フランドルの絵画制作』

2018-03-17 | 講演会
桜が開花した今日(2018/03/17)は、
上野の東京都美術館で行われる
ブリューゲル展講演会に行って来ました。

今日の講演テーマは
「ブリューゲル一族と16、17世紀フランドルの絵画制作」
と言う事で、
講師は東京都美術館学芸員の髙城靖之さん。

東京都美術館の特別展の場合、記念講演会は、
3~4回くらいある様な気がしますが、
このブリューゲル展の場合は、今回が2回目で、
且つ、最終回。
ブリューゲルの研究者って、少ないんですかね?
ブリューゲル自体は、一族で150年ほどの長きにわたって
絵画を描き続け、フランドルの絵画界に影響を与え続けた
一族なんですけどね:-p

今回の講演の要旨は以下の感じです。

  • ピーテル・ブリューゲル一世。《バベルの塔》や《農民の婚宴》などが有名。
  • ピーテル一世の子供、孫、ひ孫の世代まで画家として活躍している
  • ブリューゲル一族は15人から20人くらい画家を輩出している
  • 今回の展覧会は、殆どが個人蔵なので、「また見てみたい」と思っても、次の機会はなかなか無いかも

  • ピーテル一世。
  • ブリューゲル一族は主にネーデルラントで活躍した。
  • フランドルと言う言い方をすることもある。フランドルは、ネーデルラントの経済の中心地であったので、ネーデルラントを指してフランドルと言うこともある。また、南ネーデルラントをフランドルと言う事もある。
  • ピーテル一世の活躍した16世紀は、宗教画が中心の時代で、イタリアで絵画を学んだ時代
  • 《サクランボの生母》。失われたレオナルドの作品であるが、多くの画家が“コピー”しているので、後の世代に知られている。
  • この時代のネーデルラントの有力な画家に、ピーテル・クック・ファン・アールストが居る。彼は、ピーテル一世の前の有力なネーデルラントの画家であり、《三連祭壇画》で著名。ピーテル一世は、彼に弟子入りした。
  • ピーテル一世は、ピーテル・クック・ファン・アールストに弟子入りしたが、師匠の影響を殆ど受けていらず、むしろヒエロニムス・ボスの影響を受けている。
  • (ボスは、まか不思議な怪物のいる地獄を描いているが)地獄を描くのは、ボスが始めたわけではなく、この時代のネーデルラントに根付いていたものだった
  • ネーデルラントの人々が絵画を学んだイタリアでは悪魔は人の姿で描かれるが、ネーデルラントの方では、悪魔はバケモノの姿で描かれている。
  • ピーテル一世もその伝統を受け継いで(地獄絵を描いて)いる
  • ピーテル一世は(この時代のスタンダードだった)宗教画だけに興味を持ったわけではなく、自然にも関心を持ち風景画も描いた

  • ピーテル一世の長男ピーテル二世が父の農民の世界への興味を受け継いだ。次男のヤンは父ピーテル一世の自然への興味を受け継いだ
  • ピーテル二世の《鳥罠》の主題は、ピーテル二世が初めて描いたわけでは無い。これは、ピーテル一世の《鳥罠のある冬風景》のコピー作品である。当時は、コピー画を描くのはネガティブな時代ではなかった。いろんな画家が描いていた
  • ピーテル二世はピーテル一世のコピー画をたくさん描いている。
  • ピーテル二世の《七つの慈悲の行い》もピーテル一世の版画《慈悲》の翻案。
  • ピーテル二世の《野外での婚礼の踊り》もピーテル一世の版画を下にしている(左右反転)と見られている。
  • ピーテル二世はピーテル一世の下絵を下にコピー画を描いている
  • 16世紀後半から17世紀にかけては、非常に市民層が裕福になっていて、絵画の購買層として台頭したので、コピー画の市場があったと見られている。当時のネーデルラントで持ち家を持っていた市民は平均して25枚くらい絵画を持っていたとみられている。貴族層が持っていた絵画の人気があり、そのコピー画は(当然)人気があった。ピーテル一世の絵画はハプスブルク家が多数所有していたので、そのコピーは市民層に人気があった

  • ピーテル一世の次男ヤン一世は、父の自然への興味を受け継いだ。
  • 《田舎道をいく馬車と旅人》は、ハガキ2枚程度の大きさ(小ささ)の中に雄大な風景を描いているのが注目ポイント。普通、この様な作品を描く場合には、もっと大きくなるが、ヤン一世は、この小さい絵画の中にも細かい部分をキチンと書き込んでいて、拡大してもちゃんと見ることが出来る。これは、ヤン一世の技術が優れた事も示している。
  • 《水浴をする人たちがいる川の風景》は、ピーテル二世の《鳥罠》と構図が一致していて、《鳥罠》の違う季節を描いていると考えることができる。
  • また、《スケートをする人がいる冬の川の風景》と言う素描は、《鳥罠》と一緒である。
  • 《机上の花瓶に入ったチューリップと薔薇》。ピーテル一世は花は描かなかったので、これは、ヤン一世が切り開いた分野。当時チューリップはネーデルラントに入ってきたばかりで、非常に貴重なものだった。絵の中に描かれている筋が入ったチューリップは育成が難しく中々無くて高価だった。筋が入ったものは、実はウイルス性の病気であり、(当然に)育成が難しかった。
  • 花の絵は貴族や聖職者に喜ばれる。兄のピーテル二世は一般市民相手で貧乏だったが、ヤン一世は貴族や聖職者をパトロンに持つことが出来て裕福だった

  • ヤン一世の子供がヤン二世。
  • 《嗅覚の寓意》《聴覚の寓意》と言う二つの絵画
  • 《嗅覚の寓意》の方は、女性が嗅覚を擬人化している他、鼻のいい犬、麝香猫、香水が描かれている。
  • 《聴覚の寓意》でも、やはり女性が聴覚を擬人化して表し、耳が良い鹿、鳥や楽器が描かれている
  • 実はこれらの寓意画は、父ヤン一世がルーベンスと描いた作品の翻案
  • ヤン二世の《聖ウベルトゥスの幻視》も同様に、ヤン一世とルーベンスが描いた作品の翻案である
  • ヤン一世の《市場から帰路につく農民たち》を、ブリューゲル一族では無いヨセフ・ファン・ブレダールが《市場に赴く農民のいる風景》として翻案したように、“ブリューゲル風の作品”は非常に人気があった

  • 複数の画家が分担して作品を仕上げるのが共作であるが、17世紀のフランドルでは一般的に行われていた。主役となる人物を描く画家と、その周囲を描く画家がいるのが一般的手法
  • ブリューゲル一族のヤン・ファン・ケッセル1世の《花輪の枠》なども、同様の手法で描かれている
  • 当時、ネーデルラントでは絵画の需要が無尽蔵にあった。故に、共作と言う事が行われたが、これは、それぞれの得意分野を活かして効率的な絵画制作を追求した(合理的な)考え方

  • ヤン二世も父ヤン一世と同様に花の絵を描いた。
  • 彼は、父から絵を学び、年の離れた弟たちに絵を教えており、旧世代と新世代をつないでいる

  • ヤン二世の長男は、ヤン・ピーテル・ブリューゲルであるが、ここで、“ヤン”と“ピーテル”が一緒に出てきてしまった(笑)

  • ヤン二世の次男が、アブラハム
  • アブラハムは、他のブリューゲル一族の画家とはちょっと違うところがある。(他のブリューゲル一族はイタリアに勉強に行っても戻ってきたが)アブラハムは、イタリアに行って、そのまま戻ってこなかった
  • 《果物と東洋風の鳥》と言うアブラハムの作品。果物をそのまま下に置いたりしているが、これは当時のイタリアの静物画のスタイルだった。
  • アブラハムは当時のイタリアのスタイルを取り入れながら、ブリューゲル一族のスタイルも融合させた作品を描いていた
  • アブラハムは、ブリューゲル一族の最後の大物。以降の子孫は画家になったと言う記録はあるが、作品は残っていない

  • ヤン・ファン・ケッセル一世も、“ブリューゲル”と言う文字は入っていないが、実はブリューゲル一族。
  • ヤン・ファン・ケッセル一世は、《蝶、カブトムシ、コウモリの習作》を大理石に描いている

  • 絵画が描かれたものは、カンヴァスがいまは良く知られているが、他にも多数ある。

  • カンヴァスの前は木の板に描くのが一般的。
  • ネーデルラントはオークが多い。オークは生育はポプラよりも遅いが、固く、虫にも食われにくく、湾曲しにくい。

  • カンヴァス。イタリアでは15世紀後半から使用。軽く持ち運びに便利で安価。湿度変化によって麻布が伸縮。キチンと処理をしないと、絵の具の剥落、麻布の劣化を招く

  • 銅板に描かれた絵画もある。16世紀末から17世紀にフランドルで普及。
  • 背景としては、銅の圧延技術の向上がある。また、銅版画が普及してフランドルでは銅に馴染みがあった。銅は薄く携帯しやすく耐久性も高い。また、環境変化の影響も受けない。油絵を描く前に、カンヴァスに下塗りを施すが、下塗りと銅の色が同じだったので下地処理の簡略化が可能だと言うメリットもあった。フランドルでは画商が数多くおり、ヨーロッパ内の他、新大陸のアメリカにも絵画が販売されていたが、軽さ、薄さ、耐久性から輸送や輸出に適していた。

  • 石。イタリアのセバスティアーノ・デル・ビオンボがスレート板に描いたものが知られている
  • イタリアでは、戦乱などで絵画作品が失われることが多かったが、石の堅牢さと不変性は、火や虫食いで作品が失われることを防いだ。

  • ヤン・ファン・ケッセル一世はなぜ大理石に絵を描いたのかは良く分からないが、大理石のマーブル模様を意識的に利用して虫の羽根の透明性を上手く描けるだろうと考えていたと考えることができる。

すべてをメモる事は出来ませんでしたが、まぁ、こんな感じ?
講演のストーリーも理解しやすく、非常に勉強になりました。

東京国立博物館 『運慶展』記念講演会「興福寺と運慶―特に北円堂の諸像をめぐって―」

2017-10-01 | 講演会
今日は、東京国立博物館で開催中の『運慶展』の講演会。
トビカン、西洋美術館での講演会には何度か行った事がありますが、
トーハクでの講演会は初めて。

って言うか、トビカン、西洋美術館は、館内にチケットなしで入れますが、
トーハクは、構内に入るのに総合文化展の入場料を支払わないと、
構内に入れないので、敷居が高いんですよねぇ。

トーハクにたどり着く前に、科博の前を通ったんですが、
『深海展』の物凄い行列を目の当たりにしました。
噴水の方まで、行列が伸びていました。
こんなの見た事無いです。
さっさと見ておいて良かったです。

と、トーハクについてみると、『運慶展』も入場待ちの行列。
『深海展』ほどでは無かったですけどね。

そして、講演会の整理券も大行列。
どこもかしこも行列です。
整理券配布30分前に到着したのですが、満席になる勢いの行列。
なんだかなぁ。
まぁ、今日の講演会の講師が、興福寺貫首の多川俊映師なので、
大人気なんですかね?

それで、実際には11:30からチケット配布なのですが、
それよりも前からチケットの配布が始まります。
どうやら、その時点で満席が判明したので、
早くチケット配布を開始したようです。
なんとか、整理券は無事ゲットしました。


そうそう。
トビカン、西洋美術館での講演会との違いが、もう一つ、
いや、もう二つ。
一つは、展覧会のチケット一枚につき講演会整理券が二枚もらえる事と、
もう一つが、講演会の座席が自由席ではなく、指定席であること。

指定席方式は、好きなところに座れないと言うマイナス点がありますが、
事前に座席が判るので、講演開始まで来ればよいので、
時間が有効に使えると言う利点もあり、一長一短ですね。

そんなこんなで、講演開始時間になり、講演開始。
講師は上記の通り、興福寺貫首の多川俊映師で、
講演タイトルは、「興福寺と運慶―特に北円堂の諸像をめぐって―」

事前の整理券の状況の通り、講堂内満席です。

講演要旨は以下の感じ。

  • 現在、中金堂再建工事中。来年、落慶法要が行われる。今回の『運慶展』はその記念
  • 今回の講演タイトルにも入っている北円堂は、焼失と再建の繰り返し。4回焼けている
  • ちなみに、中金堂も七回焼けて、8回目の再建物が今のもの
  • 北円堂は、興福寺境内の中央から外れているので、焼ける回数が少なかったか?

  • 興福寺のある場所は、春日山の丘陵地の西の端。平城京からは一段高い場所。
  • 北円堂は、そんな興福寺の西の端に位置している。
  • 当初は、単なる円堂(円堂院円堂)と言う名称だった。のちに内円堂ができたので、北円堂と言う名称になった

  • 北円堂が造営された平城京は70年間都だった。当時の時間軸で70年というのは、十分に長い期間
  • 興福寺は、左京の張り出し部分にある。平城京、平安京の東の張り出しを外京と今は言うが、明治の研究者が名付けたもの。あくまでも左京の一部という認識
  • 興福寺は、平城京中心部から徒歩で40~50分と言う距離。当時は高い建物は無いので、興福寺からは平城京の様子がよく見えた。
  • 円堂院円堂(北円堂)は、平城京造営を推進し、興福寺を創建した藤原不比等の廟として、逝去一周年の時に建てられた

  • 円堂院円堂への安置仏は、無著世親と言われているが、創建当時の北円堂の安置諸像としては、弥勒仏・脇侍菩薩二躯・羅漢二躯・四大天王とあって、無著世親では無い
  • 1180年に治承大火があった。
  • 九条兼実の日記に興福寺の火災被災状況が記載されている。興福寺は、ほぼ全損だった模様
  • 創建以来藤原氏が興福寺のパトロンであった。11世紀はその影響もあって、火事の後の復興は非常に早い
  • しかし、12世紀の治承大火の頃になると、政治的状況の変化もあり、そうもいかなくなってきている。実際、北円堂の再建は遅れる。いま目にする北円堂は、この時の再建したものだが、正確な年次は不明。しかし、この時も、安置仏は創建時と変わらず
  • 解脱上人貞慶は、非常に頭の良かった人。貞慶は、藤原不比等の長子(南家)の系統につながる人物。しかし南家は、後に北家に凌駕されるため、南家の人々は、出家したりしている
  • 貞慶は、大火からの再建が遅れていた興福寺の再建に力を注いだ

  • 法相宗の考え方では、唯識は、無著が弥勒の教えを受けて継いだもの
  • 一寺一宗は最近鎌倉以降のこと。奈良時代は、いろんな宗派が一つの寺に一緒に居た
  • 貞慶の弟子良算。堅義(りゅうぎ)とは、僧侶の修行における口頭試問の事。堅義を受ける毎に修行のランクが上がっていく。最後の堅義をパスしたら、僧侶として栄達したことになる。
  • 今も小僧として修行入りした後は、毎日お堂を巡る修行をする(入堂と言う)。2時間くらいかかるが、入堂する事を大事にしている。
  • 1205年段階では、北円堂再建に着手しておらず、羅漢二躯を無著世親に当てたのではないかと見ている
  • 無著世親については、『猪隈関白記』には、世親、玄奘と書かれているが、いまそう言う考え方は取っていない。貞慶の『修行要鈔』には、慈尊、無著とある。
  • 誰が、羅漢二躯を無著世親としたのかを考えると、貞慶と考えるのが今は妥当
  • 無著と世親は、実年齢5歳くらいしか違わないと考えられるが、美術的には、この二つの像は、老年と壮年の像であると対比をされる事がある。しかし、それは違うのでは無いかと思う。東大寺の重源上人像の程であれば、老年だろうが。
  • 無著と世親の姿形の違いは、唯識のどのレベルまで修道を治めたかによるのでは無いか。無著の方が、世親よりも修行のレベルが進んでおり、それが、像の形に現れたのではないかと思う。
  • 修行のレベルを造形に表す運慶は凄い

こんな感じでしょうか。
仏教関連の知識が無いと、理解しにくいところもありましたが、
それでも、中々興味深い話でした。

東京都美術館 「ボストン美術館の至宝展」記念講演会『ボストン美術館の印象派-モネ・コレクションを築いたコレクター』

2017-09-09 | 講演会
秋っぽくなってきた土曜日。
今日は、上野の東京都美術館で行われた
ボストン美術館の至宝展記念講演会に行って来ました。

1300時の講演会整理券の配布に対して、
いつものように、1235時頃に配布場所に行ったところ、
これもいつものように既に先客が行列を形成。
でも、この時点で、まだまだ整理券には余裕あり。
って言うか、満席には成らなかった様ですね。

講師は、このボストン美術館の至宝展を企画した、
東京都美術館学芸員の大橋菜都子さんで、
タイトルは
「ボストン美術館の印象派――モネ・コレクションを築いたコレクター」
ボストン美術館の至宝展記念講演会は、
今日で3回目ですが、最後と言う事でした。

さて、講演会の模様は以下の感じ。

  • モネは、生涯2000点以上の作品を描いている。
  • ボストン美術館のモネコレクションは、フランス以外では最大と言われる。
  • 実は、美術館毎にコレクションの傾向がわかる。

    「展覧会全般について」
  • 日本では、約40年振りのボストン美術館の回顧展
  • ボストン美術館は、ボストン市民有志が集まり作ったと言う特徴がある。ボストン美術館のコレクションは、政府などの公的機関よるものではなく、コレクターにより集められ、今日50万点のコレクションがある。コレクションは、今に至るまで市民の手に支えられている。
  • ボストン美術館のコレクションは絵画だけではなく、古代エジプトコレクションも充実している。これは、ボストン美術館とハーバード大の共同調査によるところが大きい。市場で入手したわけでないので、由来が明確で研究に貢献している。
  • 英一蝶の《涅槃図》も特徴的。劣化していたのを修復されたほか、今回、渡米して初めての里帰りである。

    「ボストン美術館のフランス絵画について」
  • 今回フランス絵画は、バルビゾン派から始まっている。ボストンでは、バルビゾン派の絵画が人気だった。
  • ミレーの確認されている静物画3点のうち一点の《洋梨》が今回来日。
  • 《洋梨》、《ブドウ畑にて》(共にジャン=フランソワ・ミレー)のコレクター、クインシー・アダムズ・ショーは、パリ以外では最大のミレーコレクションを作り上げた人物。亡くなった時は、ボストン最大の納税者としても知られる。ちなみに名前は、アメリカ大統領のジョン・クインシー・アダムズにちなんでいる。
  • ジョン・テイラー・スポルディングは、ドガの《腕を組んだバレエの踊り子》の未完成さに魅力された。また、ポール・セザンヌの《卓上の果物と水差し》がお気に入りだった。
  • ピエール=オーギュスト・ルノワールの《陶製ポットに生けられた花》とクロード・モネの《花と果物のある静物》は同じものを描いていると考えられる。
  • フィンセント・ファン・ゴッホの《郵便配達人ジョゼフ・ルーラン》と《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》は、並べてみると対の作品の様に見えるが、元々は別の作品。両方ともアルルで描かれたもの。縁も所縁もないアルルに行ったゴッホの、人物画を書きたいと言う要望に応え、友人にもなったのがこの2人。2つの作品は、1年ほどしか間隔があいていないが、作風がだいぶ異なる。この間、所謂耳削ぎ事件が起きている。
  • ジュリアナ・チーニー・エドワーズ・コレクションは、ジュリアナが集めたものでは無く、ジュリアナの子供達が母親を偲んで集めたもの。従って、コレクションの名前になっているジュリアナは、収集された作品を見ていない。コレクションは57点あり、うち10点がモネ。ピサロ初期の作品もある。《くぼ地のヒナゲシ畑、ジヴェルニー近郊》(クロード・モネ)は筆のタッチでくぼ地を表現するなどの特徴がみられる。《ルーアン大聖堂、正面》(クロード・モネ)は、ルーアン大聖堂連作の1つで、アトリエで仕上げられたが、実際には1892年1893年辺りに外で描かれたと考えられる。
  • 《アンティーブ、午後の効果》(クロード・モネ)は、連作と言う程ではないが、同じ構図で数点の作品がある
  • 《睡蓮》(クロード・モネ)は、100点以上描かれた連作。初期は睡蓮の池の周囲も描かれていたが、この頃には睡蓮池だけが描かれている。

    「ボストン美術館のモネ・コレクション」
    ボストンとモネの関わり
  • ボストンとモネの関りは比較的早く、1866年、ボストンに初めてモネの作品が1点登場している。
  • 次は、1883年国際貿易博覧会で3点展示されている。
  • この頃から、フランス絵画の人気が、元々ボストンで人気のあったバルビゾン派から次第に印象派に変わっていく。
  • 1891年モネ、ピサロ、シスレーのグループ展が開催
  • 1892年ボストンで初めてモネ展が開催。21点が展示されたが、「スペースに余裕があれば、もっと展示できた」とも言われ、当時ボストン近郊には40点ほどモネの作品があったと見られる。
  • 1911年まで、のべ250点(重複のぞいて110点)のモネの作品がボストンで展示された。1911年は、モネが後に睡蓮の池となる土地を購入する前の年でもある。それほど早くから、ボストンはモネの作品との関係を持っていた。
  • 1906年ボストン美術館で初めてモネ作品を収蔵。アメリカの美術館でも最初。
  • 1911年ボストン美術館でモネ展開催。全部で45点出展されたが、《庭のカミーユ・モネとその子供》の1点以外は全て風景画。収蔵品4点、借用41点。45点のうち14点が今のボストン美術館に収蔵。
  • 1927年にボストン美術館でモネ追悼展を開催した以降1957年まで、アメリカではモネ回顧展は開催されない。
  • 実は、1910年初めてボストン美術館の西洋美術の学芸員リグレー(?)が着任。それまで、西洋美術の学芸員は居なかった。彼がフランス人と言う事も、ボストン美術館の早いモネへ取り組みと関係があるのかもしれない
  • ほとんど風景画と言うのが、ボストン美術館のモネ・コレクションの特徴。《ラ・ジャポネーズ》と《庭のカミーユ・モネとその子供》が例外。時期的には、初期から晩年までと幅広く、印象派モネ以前の作品も収蔵。
  • 前述の様にボストン美術館は市民に支えられた美術館であるので、基本的に収蔵品は寄付などによっている。《ラ・ジャポネーズ》は、ボストン美術館でたった3点の購入絵画の一つ。
  • ボストン美術館には最晩年の作品が無い。モネ最晩年の作品は表現が荒々しく、中々評価が定まらなかったため市場に出回らなかったと言う背景がある他、相続した次男が亡くなった後は直ぐに寄贈されたと言う理由もある。
  • ボストン市民は、印象派を好み、とりわけ風景画を好んだと考えられる。ボストンの印象派がくる以前、バルビゾン派が好まれていたと言う背景がある。
  • ボストン美術館は、他のアメリカの美術館に比べて収蔵し始めるのが早かった一方、1970年代でモネの収蔵がストップしている。

こんな感じでしょうか。
キッチリとまとめられた感があって、わかりやすい講演でした。