今日は、2月11日から連続して開催されていた、
ティツィアーノとヴェネツィア派展の記念講演会の最終回。
先週は大人気で、12時半頃には、講堂前の階段を超え、
ロビー階のインフォメーションカウンター前で折り返して
居るほどの行列でした。
その経験を下に、今日は早めの12:20頃に行ってみた所、拍子抜け。
全然、大丈夫でした。
※結局、最後まで満席にはならなかったようです。
今日の講師は、東京都美術館学芸員の小林明子さんで、
講演タイトルは『ティツィアーノ《ダナエ》をめぐって』
講演開始時間になって、講演開始です。
- これまでの講演会は、展覧会全般的な話だったので、今回は、《ダナエ》に焦点を絞る
- 《ダナエ》は、カポティモンデ美術館にあるが、中々、美術館の外に出ることはないので、今回は必見
- この時代、絵画の製作にはパトロンがいた。その為、絵画には、発注者であるパトロンの意図、描く画家の意図、そして、パトロンと画家の駆け引きなどの様々な背景がある
- ティツィアーノの正確な誕生年は不明。長寿だし、多作だったので、非常に多くの作品が残っている
- ティツィアーノは最初、ベッリーニの工房に入る。ベッリーニの工房は、ヴェネツィア派の他の画家にも影響を与えたりしていて、非常に重要な工房である
- ベッリーニと共にヴェネツィア派の重要な画家にアントネッロ・ダ・メッシーナが居る。メッシーナは南イタリアの画家だが、一時ヴェネツィアに居たことがあり、メッシーナとベッリーニの交流で、フランドルの絵画の技法、情報がメッシーナからベッリーニに伝わった。南イタリアは、フランドルと関わる支配者の支配下にあったことがあり、その際にメッシーナはフランドルの絵画に触れていると考えられる。
- ジョルジョーネもティツィアーノに影響を与えた画家。夭折したので、作品数は少ない。
- フレスコ画は、湿気の多いヴェネツィアには向かず、ヴェネツィアではカンヴァスの油彩画が発展
- 初期のティツィアーノの絵画は、ジョルジョーネとの判別が難しいほど似ている。ティツィアーノの《田園の奏楽》は、嘗てジョルジョーネによるものと考えられていた(いまでも、ジョルジョーネの作品と考える人も居る)
- ティツィアーノの《復活のキリスト》にもジョルジョーネの影響がある
- ティツィアーノの《フローラ》。ジョルジョーネの亡くなった時期あたりの作品。これは、肖像画と言うより神話画。肌の質感、着ているものの風合いが非常に上手く描かれている。
- ティツィアーノの出世作《聖母披昇天》。サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂にあるが、この作品は、聖堂での見え方を計算して描かれている
- ティツィアーノの名声は、次第にイタリアの都市国家の間で広がり、そしてヨーロッパの大国にも広がる。
- 神聖ローマ皇帝カール5世に気にティツィアーノは入られる。ティツィアーノが描いた《犬を連れたカール5世の肖像》は、ヤコブ・ザイゼネッカーの作品と同じ構図だが、カール5世はなにかが気に入らず、ティツィアーノに再び描かせている。
- ローマ教皇パウルス3世は、カール5世とティツィアーノの関係を苦々しく思っていた。当時のヨーロッパの政治情勢は、今日の味方が明日の敵の様に、目まぐるしく敵味方が入れ替わっていた
- 《ラヌッチョ・ファルネーゼの肖像》で、ティツィアーノと教皇の関係が始まる。
- 《教皇パウルス3世の肖像》。教皇が北イタリア(ミリアロマーニャ)に行った際に、教皇はティツィアーノに肖像を描かせた。この肖像画には、様々なカール5世へのメッセージが込められていている。絵画としては、ビロードの質感など、非常に上手く描かれている
- ラファエロの《ユリウス2世の肖像》は、教皇の肖像画の始り。ティツィアーノは、その作品のコピーを描いている。
- セバスティアーノ・デル・ビオンボ《クレメンス7世の肖像》も、教皇の肖像画の特徴が示されている。後のティツィアーノの教皇の肖像画への影響が見られる。
- 《ウルビーノのヴィーナス》をファルネーゼ枢機卿が見て、自分も裸婦像が欲しくなる。その頃の教皇大使デッラ・カーサからファルネーゼ枢機卿への手紙が残っているが、その手紙にはティツィアーノが自分の息子の聖職者としての立身出世を希望していることが書かれていて、教皇への接近の背景にはティツィアーノの下心があったことがバレている。
- その手紙の続きとして、ティツィアーノは衝撃的な裸婦像を書いていると記されているが、その裸婦像が《ダナエ》
- 《ダナエ》をX線で見ると、開口部があったり、侍女に見えるようなものがあったりと、当初はヴィーナスとして書き始められたのではないかと言うことを示唆している。キューピッドもヴィーナスを示すものなので、その考え方をサポートしている。
- 《ダナエ》には、ミケランジェロが見たことがあると言うエピソードが残されている。ヴァザーリと供に見に行ったとき、「色彩も様式も気に入ったが、デッサンが出来ていない」と言ったと伝えられている。
- 当時から、フィレンツェ派とヴェネツィア派は違うと考えられていた。ティツィアーノとミケランジェロは、互いに意識していたのではないかとも考えることもでき、相互に作品に影響を与えていたと考えると面白い。
- ベッリーニの工房に、ティツィアーノやジョルジョーネと同時代に居たセバスティアーノ・デル・ビオンボ。当初はヴェネツィアにいたが、ローマに行ってしまう。ヴェネツィアの頃はジョルジョーネにも匹敵する絵画様式だったが、ローマに行ってからはヴェネツィア様式を捨て、ミケランジェロ的な様式になってしまう。ヴァザーリによれば、「ティツィアーノがデッサンをしていれば、ミケランジェロを凌駕する画家になっていた」とセバスティアーノは言ったと伝えられている。
- 後の画家、レンブラントはティツィアーノを良く勉強していた。
- 後の話として、ファルネーゼ枢機卿が、息子の出世に手を貸してくれるのでは無いかというティツィアーノの期待は外れ、ファルネーゼ枢機卿とティツィアーノは別れる。その後、教会に幻滅したティツィアーノは、スペイン王家の為に絵画を書き始める。
- スペイン王家版の他、ティツィアーノの《ダナエ》には様々なバージョンがある
- 《ヴィーナスとアドニス》には手紙が残っており、曰く「前の作品では前を描いていたので、今回は後ろ姿を描いてみた」
こんな感じでしょうか。
あまり抑揚もなく、淡々と話しをされるので、
途中何度か、意識を失ってしまいました(苦笑)
もっと、抑揚をつけるような話し方にしてくれると嬉しいな。