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日々の日記など

旧古河庭園 春のバラフェスティバル・春バラと洋館のライトアップ(2016)

2016-05-21 | 旅行・地域
先週金曜日の2016/05/13(13日の金曜日!!!)、
旧古河庭園で開催されている春のバラフェスティバルの
夜間ライトアップに行ってきました。

先週はね、色々と忙しかったので今週になって、
やっとUPです。

旧古河庭園に到着したのは、やっと暮れかかった頃。
当然、会社が終わってから行ったんですが、
ライトアップには調度良いくらいの時間でした。
それと、今回のライトアップは、バラの見頃の時期にピッタリ。
そう言う意味でも、調度良かったですね。

沢山写真を撮ったんですが、流石に全部UP出来ないので
(ならば、何故そんなに沢山写真を撮ったとも言いますが(笑))、
ごく一部、私の印象に残ったものを示します。
(UPの順序は、順不同です。)

まずは“バラといえば・・・”と言う事で、
世のプリンセスたちの名前がついた品種から。

バラと言えば、イギリス。
と言う事で、《ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ》

言わずと知れた、故ダイアナ妃に捧げられた品種です。

故ダイアナ妃に捧げられた品種は、他にもあって
《プリンセス・オブ・ウェールズ》

《ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ》は、
ピンク系ですが、こちらは可憐な白ですね。
説明プレートには「白に淡いピンクのグラデーション」と
ありますが・・・。

イギリス王室にちなんだ品種の次は、日本の皇室から。
まずは、美智子皇后に因んだ《プリンセス・ミチコ》

故ダイアナ妃に因んだ品種とは異なり、
こちらは、見事な朱色ですね。
(説明プレートには“蛍光色の様な濃いオレンジ”とありますが)

美智子皇后が来たならば、雅子妃。
《エグランタイン(マサコ)》

基本的には“エグランタイン”と呼ばれるようですが、
別名として、雅子妃の名前がついています。

そしてこちらは、《ロイヤル・プリンセス》

愛子さまに因んだ品種です。

人の名前が来たので、次は有名人。
《ローラ》

《ローラ》とは言っても、“あの”ローラじゃ無いんですけどね(苦笑)
在仏コロンビア大使夫人の名前に因んでいます。

《カトリーヌ・ドヌーヴ》

言わずと知れた、あの“カトリーヌ・ドヌーヴ”

そしてこちらは、《マリア・カラス》


《イングリット・バーグマン》


この中で、女優として好きなのはイングリット・バーグマンですね。

女性の最後としては、《クレオパトラ》

確かにクレオパトラっぽいかも??

女性がいれば、男性も居て《ヨハネ・パウロ2世》

イキナリの超大物です。
女性が《クレオパトラ》で終わったんで、
男性の最初は、超大物からです。

超大物の次は、歴史上の偉人しか無いかな。
《ミスターリンカーン》


そして、男性部門の最後は《クリスチアン・ディオール》


男性の俳優の名前の付いた品種って無いんですかね?
クラーク・ゲーブルとか、ジョン・ウェインとか。
まぁ、イメージもあるんで、男性の俳優の名前はつけにくいのかな。

ここからは、色で分類。
青いバラと言えば、サントリーの《アプローズ》が、
世界初の青いバラとして有名ですが、他にも有るんですね。
《わたらせ》


《青の軌跡》

“奇跡”じゃなくて、“軌跡”です。

《ブルー・ライト》


これらを作った方は、個人のバラ園芸家で、
特に《わたらせ》と《青の軌跡》は、同じ方が作られています。
サントリーと違って、遺伝子操作ではなくて、交配で作っている所が凄いですね。

青が来たので、赤いバラ。
《朱王》

もう、バラといえば、真っ赤なバラの一言(笑)。

《丹頂》

こちらも赤いです。

青、赤・・・、じゃあ、黄色?
と言う事で、《ローズ・ヨコハマ》

横浜のシンボルローズだそうです。
名前が付いているんじゃぁ、そりゃそうだよね

《インカ》

黄色が鮮やかですね。
この色合、結構好きです。

今度は、今年に因んだ?ものを。
《リオ・サンバ》です。

今年は、オリンピックイヤーですからね。

そして、オリンピックと言えば《ゴールデン・メダイヨン》

日本は、いつく金メダルを取れるのか?

バラでイメージするのは“恋”?
と言う事なので、《初恋》

初恋って、白なんでしょうかね(笑)?

そして《恋心》

“恋”は、ピンクかな(笑)

あとは、順不同で。
まずは、《デザートピース》

最近、世界中が危険ですから、リアルに平和を望みます。

《ニュー・アベマリア》

まぁ、祈りたくもなりますよねぇ(笑)

《ホワイト・クリスマス》

冬にバラは咲かないと思いますが、
これが冬のクリスマスの頃にあったら、
それはそれで、かなり良いかも。

《ライラック・ビューティー》

ライラックはライラックで、きちんと花が有るんですがね?
色のイメージが、ライラックに似ているという事でしょうか。

《サハラ》

一つ一つ独立しているバラも良いですが、
こう言う、密集した品種もなかなか良いですね。
色もグラデーションがかかっていて、キレイです。

《アンジェラ》

“アンジェラアキ”じゃ無いですよ(苦笑)

《アロマテラピー》

あぁ、いまの私に必要な物かも。
まぁそれはともかく(笑)、園内全般的に、
意外にバラの香りがしませんでしたね。
何でだろ?
「バラの香りを嗅ぎたい!」とか言っている人もいました。
少しだけ気持ちがわかります。

日本庭園の方も行ってみると、こんな感じ。

既に日が完全に落ちていて、暗かったので、
足元には厳重注意です。

滝の感じはこうです。


あとは、洋館とバラのコンビネーション






最後に、バラ園全景。


満開のバラ、良かったですよ!

おまけ
《ジャーマンアイリス》

バラじゃないんで、ライトアップされていませんでしたが、
こちらも見事に満開でした。

六義園 つつじ 2016

2016-04-30 | 旅行・地域
根津神社から取って返して、六義園。
こちらはまだ、つつじが残っていました。
でも、やっぱりピークは過ぎていて、
既に花が全て散ってしまっている木もあって、
だいぶ後半と言う感じですね。

それでも藤代峠のあたりはこんな感じです。






こちらは藤崎峠の上からの眺めですが、
色鮮やかなつつじの色合いというよりも、
新緑のほうが強く感じますね。


まだそんなに散っていない木ももちろんあって、
それの花のアップ。




これは吹上茶屋前の八重霧島。


4週間前のほぼ同じ所の桜が、こちらのページの中頃に。
当然ですが、今日は桜は完全に散っています。
同じ月なのに、全然眺めが違います。

根津神社との違いとしては、六義園では、
結構、外国人観光客が多いですね。
しかも、アジア系ではなく、欧米系。
外国人観光客を多数目にするのは、
ここ数年ですが、言葉が通じない国で、
よくここまで来るなぁ。
自分が外国に行った時のことを考えると・・・?
まぁ、駅からも近いし、何とか成るか。

これは何の花でしょう?

鮮やかな紫っぽい花が咲いていました。

根津神社つつじまつり(2016)

2016-04-30 | 旅行・地域
巷では、ゴールデンウィークと言うもののようですが、
あまりそれを意識せずにいます。
とは言っても、晴れているし、今日は普通に土曜日でもあるので、
つつじ祭りが開催されている根津神社に二年ぶりに行ってみました。

今年はつつじが早いんですかね。
二年前の同じ時期だと、まだまだ咲き誇っていたつつじですが、
今年はもはや緑の色のほうが多いorz
つつじ園でこんな感じですからねぇ。




ちょっとばかり残念です。
と言う事なので、母校(嘘)の地震研究所のモニュメントを横目に、
六義園に向かいます。

上野公園deお花見2016

2016-04-02 | 旅行・地域
六義園の後は、JRで上野に。
やっぱり、花見のメッカ、上野は外せません。
宴会はしないんですけどね:-p

定番の定点。
動物園前交番の前。

やっぱり、ここを見ないとね。
晴れていると、青空と桜のコントラストが見られたんですが、
今日は生憎の曇りorz。

両脇では宴会が行われているのですが、
その間を、人混みを縫って“さくら通り”を進みます。
でも、思ったよりも、混み具合は大したことないですね。
もっと混んでいる時もありますからね。

清水観音堂の所を折れて、不忍池方向へ向かいます。
弁天堂への参道は、そもそも狭い上に、
出店が両脇に出ているので、余計に狭隘になっています。
この時期、ここを通るときは、
「いま、なにか起きたらどうしよう」と言う不安を
感じてしまいます。
いや、マジで危険ですよ。

不忍池(蓮池)と不忍池(ボート池)の間の並木道。

あぁ、曇なのが何とも残念。

その並木道の桜

“さくら通り”の桜も見事なんですが、ここの桜も見事。
しかも、この並木道では宴会をしている人が居ないので快適です。

不忍池(ボート池)を背景に桜のアップ


並木道を歩いていると、なんだか、妙に鳥が止まっている木が。

ここだけ妙に沢山のスズメが止まっているんですよねぇ。
分かり難いので、スズメのアップ。

こんな感じで、集団で止まっていました。

これは水上音楽堂裏手のベニユタカと言う桜

ソメイヨシノと異なり、紅色が濃いです。

曇で肌寒かったためか、混雑はしているものの、
立錐の余地もないと言うこともなく、
上野にしては、比較的楽に桜を見ることが出来ました。

(写真は、一部、加工しました)

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上野恩賜公園

六義園deお花見2016

2016-04-02 | 旅行・地域
ちょうど週末に桜が満開のタイミングになったので、
ちょっと雨が気になる程の曇り空ですが、
六義園に枝垂れ桜を見に行ってみました。

若干の野暮用をこなしてから行ったので、
六義園には昼近くの到着。

染井門に到着してみると、入場券購入の行列ができていたので、
正門に行ってみました。
正解!
正門には、入場券購入の行列はありませんでした。
それに、枝垂れ桜は、正門の方が近いですしね。

と言う事で、早速の枝垂れ桜。

散り始めということで、少し、緑が混じり始めていますかね。
こちらは別角度。

入場券購入行列ができるほどですが、
枝垂れ桜前は、人はたくさん居ますが、
枝垂れ桜が見えないとか、写真が撮れないとかいうことはないです。

これで、六義園の目的はほぼ達成ですが、
折角入場料を払ったので、園内を散策。
六義園には、何度か来たことがありますが、
歩いているうちに、あまり来たことがないエリアに入ります。

吟花亭跡にある、第二の枝垂れ桜です。

正門前の第一の枝垂れ桜とくらべて、
非常に背が高く、桜の花の位置が物凄く上の方にあるので、
この写真では分かり難いですね。
ライトアップも有るようです。
こちらのほうが判りやすいです。
六義園のページからどうぞ。
https://www.tokyo-park.or.jp/announcement/031/detail/1978.html

そしてこちらは、吹上茶屋前の桜。

吟花亭跡の枝垂れ桜と異なり、
ちょうど人の目の高さの辺りにあるので見やすいです。

と言う事で、花のアップ。


藤崎峠方向に向かい、ちょうど渡月橋の手前のあたりで、
鴨が多数戯れていました。

ここで鴨をみるのは初めて。
中々可愛かったです。

(写真は、一部、加工しました)

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六義園

2015年秋分の日 小江戸川越散歩(蔵の街編)

2015-09-25 | 旅行・地域
行った日から二日たちましたが、結構前に行った気がします。
だって、行った秋分の日はビールが美味しい晴天だったのに、
一転今日は、雨で、11月並の気温。
寒いったら、なんてこと無い。

さて、最終編。蔵の街エリア編です。

“蔵の街”とかいうので、蔵が並んでいるのかと思いましたが、
思ったほどではないと言う印象。
もちろん、普通の街より蔵は多く、並んでいるといえば
並んでいるんですが。

それと、普通の車道沿いに街並みは形成されているんですね。
観光客が数多く歩いているんで、自動車の規制をして、
歩行者天国化すれば良いのではないかと思いましたが、
どうなんでしょうね?
「一方通行化反対!」とか言う看板もあったので、
少なくとも一方通行化は検討されているようですけどね。
車道は対面通行なので、危ないこと無いのかな?

と言う事で、文句らしきことも言いましたが(笑)、
気になった蔵などはこちら。
(人が写っているところなどは加工しています)

笛木醤油川越店


Mio Casalo

レストランですが、外から眺めただけ。
パット見、行列もなかったんで、入ってみればよかったかな。

創作ちりめん布遊舎

名称的には「幸すし乾蔵・明治蔵」と言うらしいです。

マツザキスポーツ

蔵がスポーツ用品店とはね。

老舗和菓子店の龜屋

お彼岸ということもあり、地元の人で混んでいました。
亀屋栄泉と言う店も有るんですが・・・?
まぁ、老舗にはよくある話かな(苦笑)。

これは蔵ではないと思いますが、郵便局もそれっぽい建物。

川越元町郵便局です。

そして蔵の街並み。


上記に記したように、普通の車道沿いにあります。
そして、すべてが全て蔵というわけでもありません。

あと、川越といえばこれですよねぇ。時の鐘です。

いま耐震工事中と言う事で、足場に囲まれていました。

それと、川越は蔵の街で売っていますが、
意外に洋館も見どころがあります。

こちらは、旧第八十五国立銀行の本館。

現在は、埼玉りそな銀行川越支店。

旧きんかめ(近亀)。

調べてみると、近頃、法善寺聞信会館になったそうです。

旧山吉デパート

いまは、歯科医院になっています。
昔はこの大きさ(小ささ)でデパートなのかという驚きと、
いまは、こんなレトロな歯科医院なんだという驚き。

一番街からちょっと離れて、川越商工会議所


あとで調べてみると、他にも見どころの洋館はあったみたいですね。
創建当初とは異なる用途で使われているところが多いというのが、
注目点かな。

それと、蔵だけではなく、洋館も有ることを意識したのか、
ガス灯がありました。

ただ、人の目線くらいの高さにあったので、
街を照らす街灯というより、
ガスのアピール目的の物のようでした。

街なかには、こんなものも。

うなぎ専門店うなっ子の傍らにあったオブジェ。
なぜにカメレオン?

最後は、これ。

門前横丁にある、とある無料休憩所で、
ねこが寝ていました。

以上で、小江戸川越散歩はおしまい。
グルメは殆ど試さなかったので、次回のチャンスがあれば、
どこかカフェとか、レストランとか試してもいいかな。

2015年秋分の日 小江戸川越散歩(川越城本丸御殿・氷川神社編)

2015-09-24 | 旅行・地域
喜多院の次に来たのは、川越城本丸御殿。

いまの日本で、江戸時代の本丸御殿が現存しているのは、
この川越城のものと、高知城だけだそうです。
(喜多院のガイドも言っていたし、ここの人も言っていた)

喜多院とは異なり、本丸御殿は撮影可なので、
屋内の写真があります。

まずはこちら。
本丸御殿の向かい側に、ひっそりと(?)立っていました。

お城があったという事を認識するような
石垣などはありませんでした。

入館料は100円(安い!)
市立美術館や市立博物館との共通券制度も有るようです。

入って直ぐ近くにあるのが、十三畳半の使番詰所

写真奥に物置があるので、こう言う中途半端な
広さになったようです。

その隣の十二畳の番抜老体詰所

番抜老体って、どう言う役職?

さらにその隣。
一番奥に有るのが、十二畳の物頭詰所


ここまで通ってきた反対側の廊下から、十五畳の使者乃間。

玄関に近く、広間の隣の位置になります。
って言うか、入るとき、この部屋に気が付かなかった(苦笑)。

渡り廊下を渡ります。
家老詰所になります。

明治の頃に解体移築され、商家で使われていたのを
後に川越市が寄贈を受けたというもの。
館内の説明には「発見され」みたいな書き方がされていたので、
「え?地中にでも埋まっていたのか?」と思いましたが、
家屋として建ってはいたけど、その由来が不詳だったと言う事ですね。

家老詰所の中は、近年まで商家で普通に使われていたということもあり、
ごく普通の日本家屋。
家老だからと言って、装飾が特別にキレイだとかいうことはありません。
ちょっと拍子抜け。

そんな部屋の一つの家老詰所(十畳)が、セットになっていました。

川越藩は、幕末に第一・第二・第五台場の警備を担当させられたそうですが、
このセットは、警備計画について、相談している家老たちだそうです。

御殿本体に戻ります。
入ってきた時とは違う廊下を通ります。
途中、こんな表示。

今も昔も、坊主は隠された(笑)。

こちらは、今の川越の写真に重ねた川越城の領域

でも、市内に遺構として残っているのは、
あまり無い印象でした。

こちらは、大広間

写真左手が玄関になっています。

それで、こちらは大広間の襖絵。
上の写真で奥に写っているものです。

その隣は、使者乃間になっています。
なので、襖絵がキレイに描かれているんでしょうね。

これで、本丸御殿は終了。

この石碑、意外に目立たないところにあります(苦笑)。

本丸御殿の向かい側にある三芳野神社に向かいます。


仕切りもなく、敷地的には、
本丸御殿からそのままつながっているように見えます。

そしてこの三芳野神社は、上記の写真にある通り、
「おおりゃんせの発祥の地」
だそうです。
本丸御殿の向かいに位置していることから分かる通り、
一般の人間の参詣がやりにくくなった様子を描いた歌とも
言われています。

こちらは本殿。

少し痛みがあるように見えます。
そのため、社殿の建て替えも検討されているような
看板が掲げられていました。

次は、バスに乗って氷川神社へ

日本有数の大きさの、木製鳥居。
高さは15mあります。
この写真だと見えにくいですが、
扁額の文字は勝海舟直筆だとのこと。
と言う事で、アップ


こちらは本殿。
三芳野神社と異なり、沢山の人がお参りしています。

縁結びの神様と言う事で、(若い)女性が多く見られます。

本殿の裏側に回ることが出来ます。

そうすると、ご神木がありました。

こちらも女性に人気。老いも若きもね。
ご神木周りということが出来て、
その通り、このご神木の周囲を回ることが出来ます。
ご神木の根本は、根が荒らされないように、
足を乗せて歩くための足場がありました。

境内はそれほど大きくはありませんが、
中々賑わった神社でした。
東京で言うと、東京大神宮見たいな感じかな?

本丸御殿・氷川神社エリアはここまで。
次は、蔵の街エリアへ向かいます。
(続きは明日)

2015年秋分の日 小江戸川越散歩(喜多院編)

2015-09-23 | 旅行・地域
秋分の日!
天気が良かったので、川越に行ってみました。

川越には、西武or東武orJRと言う選択肢があるんですが、
今回は、東武で行ってみました。
だって、電車の数が、西武より東武の方が多いし、
もっと言うと、所要時間も東武が一番短い。
それに、川越で使えるフリーきっぷ的なものの価格が、
西武よりも東武の方が安いということもあります。
もっとも、川越の駅自体は、西武の方が街なかに近い
と言う事もあるんですけど、そこは、バスでカバーと言う事で。

まず行ったのは喜多院。
川越大師なんですが、うっかり川崎大師に見えない事もないですね。
ここでは、午前中に喜多院に到着する小江戸名所めぐりバスの乗ると、
無料で簡単なガイドを受けることが出来ます。
これはお得です。

喜多院の歴史や、五百羅漢の話を無料ガイドから聞いた後、
中の参観に向かいます。

こちらは、喜多院の山門です。

寛永15年(1639)の川越大火で喜多院の多くは焼失しましたが、
この山門は、その大火をくぐり抜けて、今に残るものです。

その山門の前には、喜多院第27世住職の天海大僧正の像。

天海大僧正は108歳まで生きたと言われ、その間、
徳川家康から、秀忠、家光と3代続けて使えています。
その間、家康から絶大な信頼を受けて喜多院を
再び栄えさせたので、こう言う像が立っているんでしょうね。

こちらは、慈恵堂。

いまは、喜多院の本堂として使われているそうです。
ここは、護摩供が行われていなければ、拝観料を支払えば、
中に入ることができます。

こちらは、多宝塔。

寛永16年(1639)の建立の後、幾度か場所を変えていて、
昭和48年(1973)に現在地に移って、現在に至るそうです。

庫裏、書院(春日局化粧の間)、客殿(徳川家光誕生の間)などは、
拝観料を支払うエリアになるのですが、その殆どが撮影禁止なので、
写真はなし。

ちなみに、上記の無料ガイドの人の話しによれば、
徳川家光誕生の間の天井の絵は、狩野探幽の作品だとか。

それと、春日局化粧の間ですが、意外に普通。
地方の旧家の部屋と言われれば、そう見えます。
面白かったのが、ここに、天皇家の菊の御紋と、
葵の御紋の付いた衣装箱があったこと。
これって、公武合体の時の品としか思えないんですが、
何にも説明なし。
せめて、説明くらい付けても良いと思うんですけどね。

屋内の拝観エリアから出ます。
五百羅漢へ。

これは、中央の釈迦如来に、脇侍の文殊・普腎の両菩薩です。


その他、釈迦如来と同様の高座に、阿弥陀如来、地蔵菩薩が居ます。

こちらの羅漢は、釈迦のいとこで、一の弟子アーナンダ

釈迦如来の居る高座の一番手前の右側(釈迦から見ると左側)に
居ます。

その他いろんな羅漢が居て、全部で538体。
本当にいろんな羅漢が居ます。
本(経典?)を読んでいたり、何かの道具を持っていたり、
笑ったり、泣いたり、怒ったり。
表情豊かです。
たぶん、同じものは二つと無いと思います。

有料エリアを出て境内を歩くと鐘楼門

中々見事な装飾がされています。
確定はされていませんが、こちらも山門と同様、
寛永15年(1639)の川越大火を生き延びた可能性があるそうです。

これは慈眼堂

慈眼大師の天海大僧正をまつるお堂。
中に天海僧正の木像が安置されているそうですが、
見えませんでした。

慈眼堂の裏手には、こちらの墓所

喜多院歴代住職のお墓だそうです。

真ん中の一番大きなものは、

慈眼大師のお墓のようでした。

東照宮は、日本の色んな所に有るんですが、
ここ喜多院にもあります。
仙波東照宮です。
こちらは、拝殿です。

上野東照宮よりも、小さいかな?

拝殿の裏手に本殿

本殿のエリアは、囲まれていて近づくことが
出来ませんでした。
残念。

喜多院の向かいのところに日枝神社があります。
ここの日枝神社を分祀して、
東京赤坂の日枝神社が成立したんですね。
東京の日枝神社に行ったことがあるんで、
行かなかったんですよねぇ。
こっちが本家か。行けばよかった・・。

喜多院エリアはここまで。
って言うか、流石徳川家の庇護を受けたお寺。
境内も広大で大きいお寺でした。

次は、川越城本丸御殿に向かいます。
(続きは明日)

富岡製糸場@2015/05/05

2015-05-07 | 旅行・地域
快晴のこどもの日は、世界遺産・富岡製糸場に行ってみました。

富岡製糸場の入場券は、富岡製糸場の他、
富岡市内にある、まちなか観光物産館「お富ちゃん家」でも販売。
『富岡製糸場のチケット売り場は混んでいる可能性があるので、
「お富ちゃん家」で入場券を買えば、別の入口(団体入口)から、
入場できます』と言う事なので、「お富ちゃん家」でチケットを
買っていこうかと思ったんですが、行ってみると、
「お富ちゃん家」は大行列。
しかも、単にチケットを売っているだけのはずなのに、
全く行列が進む気配なし。
途中で見切り、直接富岡製糸場に行ってみると、
富岡製糸場のチケット売り場にも行列はありましたが、
スムーズに事は進み、あっという間に中へ。
「お富ちゃん家」の件は、ミスリードだな。
もっと「お富ちゃん家」の仕切りを良くしないと使えないよ。

正門から入り、直ぐ右手に富岡製糸場最後の持ち主の
片倉工業株式会社の記念碑。

この工場創建からの歴史、目的、重要文化財に指定されたことなどを
記しています。

その隣には、国指定史跡の碑


さらにその奥に、明治6年の皇后・皇太后の行啓記念碑

明治6(1873)年の行啓なんですが、この記念碑が建てられたのは、
昭和18(1943)年と言う、70年も後に立てられているんですよねぇ。
70年記念ということも有ったのかもしれませんが、
碑文を読むと、当時行われていた太平洋戦争の
戦意高揚と言う事も有ったみたいです。

そしてこれが、正門に正対しているようになっている、東繭倉庫。

木骨煉瓦造で100mを超える長さがあります。
当時は、繭は年に一度しか取れなかったので、
一年分の繭を保管するために、大規模な倉庫に
なったそうです。
東繭倉庫別アングル

東繭倉庫もう一つ別アングル

構内にはこれとほぼ同じ西繭倉庫があります(後述)

東繭倉庫の向かいに位置するのが検査人館

繭の検査人であるフランス人男性技術者の宿舎だそうです。
二階には貴賓室があります。
現在は事務所として使用中。

同じく、東繭倉庫に面しながら、検査人館の隣にあるのが、
この女工館

繰糸場に雇われた日本人女工たちに糸取りの
技術を教えるためのフランス人女性の宿舎だそうです。

さてさて、女工館のほぼ向かいにあるのが繰糸場。

長さ140m程あり、この写真だと、末端は写っていないですね。
繰糸場は、昭和62年に操業停止時ほぼそのままにされていますが、
中に入ることが出来るので、入ってみます。

中はこんな感じ。
真ん中の通路を挟んで、左右両側に繰糸機が設置されています。
ニュースなどでも、ビニールでカバーされているのを目にしますが、
やっぱりそのままビニールで覆われていました。
事故防止と、掃除が楽だからでしょうね。

操業停止時、ほぼそのままと言うのが嘘ではないように、
作業に関する事が書かれている黒板もそのままでした。

でもまぁ、文字がはっきりしすぎているので、あとから
書いたのかもしれませんが(苦笑)。

先ほど「繰糸機はビニールで覆われている」と書きましたが、
一部、器械をよく見るために、ビニールが撤去されているところも
ありました。

その付近に自動繰糸機の解説板がありました。


ケンネル式の看板

製糸の方式の説明です。

集緒機

複数の繭糸を一本の生糸にまとめる装置

回転接緒機

プロペラのような回転羽根で、正緒繭の糸口に接触すると、
他の繭糸に巻きつけて接緒する装置

給繭機

正しい糸口の出た繭を運ぶ容器

小枠

繭から引き出した生糸を巻き取る枠

繊度感知器

摂られている糸が細くなったり、落緒が生じて、
一定の繊度よりも細くなった時に接緒を要求する装置

鼓車

走る糸にさわって廻る小さな車輪

接緒桿

繊度感知器からの接緒要求を受けて、
正緒繭を繰糸槽に投入する給繭機の
繭取取り出しレバーを押す棒。

他にも説明プレートは有ったんですが、
機械の奥に有ったりして、撮影できず。

繰糸場内は、一方通行になっています。
それに従って行くと、工女達の寮に繋がる通路にでました。

脇に洗面台が設置されていますね。

その手前には、各種のトロフィー類

片倉工業の社内スポーツ大会(バレーボールみたい)の
トロフィー。
その後ろにある賞状は、
糸の取り出し効率が良いとか言う業績を褒める社長表彰。

繰糸場から出ると、斜め向かいに診療所

この建物は、昭和15(1940)年に建てられた三代目の診療所。
創建当時の頃は、この様な診療所が有ったことは凄いですが、
操業停止間近い昭和60(1980)年代にこの様な診療所だと、
ちょっと心配になります(苦笑)。

更に奥に進むと、ブリュナ館

この富岡製糸場が、官営製糸場として創設される際に、
指導者として雇われたのがポール・ブリュナ。
そのブリュナが家族と共に暮らしていた住宅。
その後、工女達の夜間学校や、片倉富岡高等学園の
後者として使われたりしたそうです。
地下には地下室がありますが、詳細な用途は不明。
これは繭倉庫や繰糸場と同じく、木骨煉瓦造です。

ブリュナ館の先に行くと、少し開けた土地に出ます。
中庭的なところでしょうか?
更にその奥に行くと、工場敷地の奥の方に、
工女達の寄宿舎がありました。

これは、昭和15(1940)年に建てられた寄宿舎だそうです。

一旦正門前に戻ります。

東繭倉庫の正面入口があるところなんですが、
東繭倉庫は建物の中に入ることが出来て、
そこには、明治5年の工場創建時に設置された
フランス式繰糸機の復元機が置いてあります。

毎週木曜(10:00~11:30と14:00~15:30)に
実演しているそうです。
この日は祝日ではあるものの、火曜日だったので実演は無し。
その代わり(?)、写真の奥に人だかりが見えますが、
そこでは、手回し式の伝統的繰糸器の座繰り器の実演が
行われていました。
それは、土・日・祝日の9:30~12:00と13:00~15:00に
実演しているようです。

その他、同じく東繭倉庫内では上記の実演スペースの
向かい側のスペースに、土産物店があったり、
富岡製糸場の歴史の説明資料の展示があったり、
説明映像の上映なども行われていましたが、
それらの写真はなしです。
それと、人が多くて、説明パネルとか、
ユックリ見ることが出来ませんでしたorz。

東繭倉庫の中を見た後は、
工場敷地内側に東繭倉庫を出て行くとすぐ近くに乾燥場。
ここは大正11(1922)年に設置され、その後増改築を行いながら、
昭和62(1987)年の操業停止まで使われたそうです。

ですが、今はこの通りブルーシートに覆われています。
これは、平成26(2014)年2月14日から15日にかけての
大雪によって半壊してしまったそうです。
早期の復旧を目指しているそうですが、財源不足とも
聞きますからねぇ。
大丈夫でしょうか?

奥に進むと、東繭倉庫と同様の規模を持つ西繭倉庫に出ます。

今は保存修復のための工事中のようです。
来年夏ごろに、中には入れるように出来るような事でした。

横を見ると、煙突。

これは、昭和14(1939)年に建てられたもの。

工場敷地内には、前述のとおり工女達の寄宿舎がありますが、
工場長や各課長のための社宅もありました。

これは、明治29(1896)年ごろに建てられた工場長社宅。

この頃の経営は、官営から三井に移っていました。
見た目、明治の建物とは思えないほど、まだ、きちんとしています。

その他の社宅




これで、ほぼ見学は終了。


補遺
こちらは上信電鉄上州富岡駅

モダンな駅です。
世界遺産登録から建設したのでは間に合わないでしょうから、
その前から改修していたんでしょうね。
モダンな駅舎ですが、実は殆ど吹きっさらしなんですよね(笑)。
駅事務室は、傍らにある小さな事務室と言うオチ。

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富岡製糸場 

足利学校@2015/05/04

2015-05-06 | 旅行・地域
あしかがフラワーパークの後は、
折角足利にいるので、『日本最古の学校』足利学校へ。

足利学校最初の門、入徳門の額

ここをくぐり抜けて、学校内へ。

入徳門の脇にある、「史跡 足利学校」の銘版

緑錆?がかっていて、よく見えません。
写真だからよく見えないのではなく、
本物もよく見えませんでした(苦笑)。

入場料を支払うと、この様な入学証が

学生証じゃ無いんですね(笑)

学問を学ぶところということで、孔子立像。


学校の校舎敷地に入る前に、その手前にある
旧足利学校遺蹟図書館に立ち寄り。

何か展示物があるのかと思いきや、
本当に図書館でした(苦笑)。
ただ、この建物自体は大正4年に建てられたもので、
足利市の重要文化財に指定されているそうです。

一瞬、拍子抜けのところはありましたが、
気を取り直して、学校門から学校の校舎敷地に入ります。


更にその奥に、杏壇門があります。

これは、孔子廟の門という位置づけになります。

杏壇門を抜けると、孔子廟


孔子廟の中には、孔子木造が鎮座

入って近くにあった、孔子の石像とは違う顔立ちです。

そして、その隣には足利学校創設者説のある小野篁の木像。

本当に小野篁が創立者だとすると、
830年代に学校が成立していたことになりますね。
凄いな。
もっとも、足利学校の創立時期については諸説あって、
本当のところは、どうだかわからないようです。

先に進みます。
此処から先は、嘗て小学校が設置されていたところで、
小学校の移転後に、復原されたところになります。

南庭園です。

書院庭園の形式を持つ、築山泉水庭園だそうです。

その南庭園に面して、方丈があります。


方丈に上がります。
『学校』の扁額と

『杏壇』の扁額

『学校』の扁額は、孔子廟と並んで古いものらしく、
寛永八年から伝わるもの。
いま学校門に掛かる扁額は、この扁額を下に複製したものだそうです。
『杏壇』の扁額は、紀伊和歌山藩十代藩主徳川治宝に寄るものだそうです。
この扁額は、明治二十五年の足利町(当時)に発生した大火の際、
黒焦げになってしまったそうです。
確かに、文字が殆ど読めないほど、黒焦げ。
いま杏壇門にかかっている扁額は、これを下に複製したものだそうです。

これは、上杉憲実の木造。

上杉憲実は、「足利学校中興の祖」なんだそうです。

これは、脇階段にある、儒学者達の像。

左から孟子、曾子、孔子、顔子、子思子
顔子、子思子と言うのは知りませんでしたが、
何れも、孔子の子孫の様ですね。

玄関を通りすぎて、行くと仏殿の間。

真ん中には須弥壇。
そして須弥壇の左側にある位牌は、東照大権現と言うか、
徳川家康の位牌。

その隣は、尊牌の間
徳川家歴代将軍の位牌が安置されています。
一列横に並んでいるんですが、それだと分かり難いので、
右半分から。

左から、
第7代徳川家継「有章院殿贈正一位大相国」
第6代徳川家宣「文昭院殿贈正一位大相国」
第5代徳川綱吉「常憲院殿贈正一位大相国」
第4代徳川家綱「厳有院殿贈正一位大相国」
第3代徳川家光「大猷院殿贈正一位大相国」
のこり左半分。

左から。
一番左は、徳川家の将軍の位牌ではなく、
「桂昌院殿従一位仁誉興国光公大姉」と書いてある、
女性の位牌。
これは、綱吉の生母桂昌院の位牌だそうです。
そして順に、
第11代徳川家斉「文恭院殿一品大相国公」
第10代徳川家治「浚明院殿贈正一位大相国」
第9代徳川家重「惇信院殿贈正一位大相国」
第8代徳川吉宗「有徳院殿贈正一位大相国」。
第11代徳川家斉だけ、院号以外も、
書いてあることが変わっていますね。
何で?
彼だけ、家康、秀忠以外で唯一、生前に
従一位太政大臣になっていたからでしょうかね?

先ほど南庭園がありましたが、こちらは北庭園

南庭園と同じく、築山泉水庭園だそうですが、
こちらのほうが格式が高いそうです。

こちらは書院

中にはいることが出来ないので、入口から撮影。
南庭園に面しており、庠主(校長)の接客の間として
使われていたそうです。

孔子立像と、その背後の額


方丈・書院。庫裏は繋がっています。
ッて言うか、庫裏に有る入口から、方丈に上がるんですけどね。
そしてその庫裏には、足利学校に関連する史料類。
史料の多くは国宝ですが、展示されているのは複製。
外来光も入るし、実物は展示できないよね。

外に出ます。

庫裏の横に木小屋

薪や農具などの置き場のほか、漬物などの食料品を保管した建物だそうです。

これは、土蔵

重要なものを保管しています。

これは、衆寮

僧房または学生寮として使われたそうですが、
それほど大きくはないですね。
寮として生活するには狭いかも。
中は、こんな感じ。

狭いです。

これは、裏門の裏。

敷地の裏ではなく、だいたい学校門の並びにあるんですけどね。
こちらは、裏門の表(笑)。

ここから入ると、北庭園の築山の裏辺りに出ますが、
庫裏とか方丈に向かうには、こちらの方が便利かもしれません。

こちらは、学校敷地裏手に有る歴代庠主(校長)のお墓。

室町時代、関東管領上杉憲実再興の後、
明治の廃校までに、23代の庠主が居たそうなんですが、
そのうち17代の庠主の墓があります。
庠主の名前がわかるのは8基あり文字が判読されていますが、
残りの9基は不明だそうです。

その歴代庠主のお墓の横には、
元足利学校代官茂木家累代の墓もありました。

庠主と代官の関係って、今の学校校長と教育委員会の関係?

以上で、足利学校の体験入学(笑)は終了。
すごく昔から続いている非常に貴重なものだという事が、
よくわかりました。
でも、なんで、都(京都)から離れた足利の地だったんでしょうね?

補遺
これは、帰り際。

足利学校って、濠に囲まれています。
少しお城を思わせますね。


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足利学校 http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/