埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

今日のつい一言  2014.3

2014-03-01 11:20:57 | 意見交流
 28日に福島原発で作業中の労働者が土砂の下敷きになり亡くなった。病院に搬送されるまで3時間余が経過した理由は、付近の病院が閉鎖されていたこともあるが、放射能汚染の問題があり、すぐに救急車が呼べなかったからだという。
 胸が痛くなるような事件だが、いま読んでいる本(『震災後文学論』木村朗子)に、海外旅行で外国の空港に降り立った日本人が「入国管理で日本のパスポートをみせた瞬間に汚物でもみるように相手が怯える」というシーンが描かれた作品が紹介されているのを思い出した。
 これは3.11後に書かれた小説の話だが、原発事故のリスクをかかえるという意味では決して絵空事ではない。チェルノブイリで事故があった後、ヨーロッパ産(ロシア産ではない!)のワインが避けられ、そのため南米産のワインに人気が集まったことがあった。これを風評被害と笑えないのといっしょだ。世界から「汚物」扱いされないためには脱原発を決意するしかない。(3月30日)

 教科書検定基準が「閣議決定その他の方法により示された政府の統一見解」にもとづいて記述するように改訂された問題で、またおかしなことがあったようだ。
 26日衆院文科委員会で、「河野談話」(93)と「村山談話」(95)は「政府の統一見解」には含まれないと下村文相が答弁したという。
 「談話」といっても、個人的な見解を勝手に述べたものとは異なる。政府内での調査・審議・推敲を経て発表されている。「基準」にも「その他の方法」とある。
 これだから権力による教育の政治支配だと批判されているのだ。何度もいうように教科書は科学と学問の到達点にしたがうべきであって、権力によって「真実」が歪められてはならないのだ。(3月28日)

 オランダで開かれている「核サミット」で安倍首相が「核燃料サイクル」の継続を表明したとのニュースが朝刊の一面をにぎわせている。
 政府による「エネルギー基本計画」はまだ審議中であり、発言自体がフライイングだ。当面MOX燃料として使用するということなのかも知れないが、高速増殖炉「もんじゅ」と六カ所村「再処理工場」の破綻が明白になっている今日、「核燃料サイクル」が絵空事でしかないことをどうして認められないのだろう。
 何重にも複雑に絡み合った「利権」と、「核の潜在的抑止力を維持するために、原発を止めるべきではない」(石破幹事長)という核兵器保有への隠された野心が存在しているからだろう。
 抑止力としての「自衛のための必要最小限度」の軍備は(論理的には)相対的なものだ。ここに「抑止論」の危うさがあることは以前にも述べた。
 しかし、原発で使用するにせよ、核兵器を製造するにせよ、人類とプルトニウムとが共存できると考えるのはあまりにも危険だ。(3月25日)

 沖縄県の八重山地区で異なる中学公民の教科書が使われている問題で、竹富町教育委員会は定例会を開き、教科書変更を求めた文部科学省の是正要求には従わないことを確認した。
 ①教育現場に混乱は生じていない、②民主党政権下では竹富町の採択の有効性が認められている③地方教育行政法は各市町村教委に教科書採択権限を認めている、などの理由で一致したという。(朝日新聞デジタル)
 小さな町の大きな勇気だ。きっとこの人たちは当たり前のことを主張しているだけだと思っているに違いない。無理を通せば道理が引っ込むというが、どちらが無理強いをし、どちらに道理があるのか。道理を引っ込めなかった決断を讃えたい。(3月24日)

 大阪府・泉佐野市で市立小中学校の図書館から『はだしのゲン』が回収されるという事件が発覚した。作品に「差別的表現が多い」として問題視した市長の要請を受け、教育長が指示したという。
 問題とされたのは「きちがい」や「こじき」といった表現だということだが、それらがどのような文脈で語られたのかを無視しているとしたら、ただの「言葉狩り」でしかない。また、それらのことばが使われているのは『はだしのゲン』だけなのか、きちんとした調査がなされた上でなければ恣意的な「狙い撃ち」と批判されてもしかたがない。何より平和教材としての価値を考えるならば、「問題のある表現」へのフォローのあり方を検討するでもなく、いきなり児童・生徒の目から隠してしまうやり方は乱暴にすぎる。
 それにしても「最高責任者は私だ」的な上意下達方式の横行ぶりはどうしたことだろう。首相しかり、NHK会長しかり。しかも、どうやら「下」にあるものが「上意」を斟酌して先回りする(丸山真男の「無限の縦軸」を想起させる)傾向が顕著である。こんなことで、教育委員会の首長への従属をいっそう強めるような「改革」をしていいのだろうか?(3月20日)
 ※日ごろの運動不足がたたってか、このところ強烈な腰痛に襲われています。パソコンの前に坐ると長時間同じ姿勢をとることになり、しばらく避けていたのですが、どうも我慢できないことが続きます。

 『内心、「日本は戦争をしたらいい」と思っているあなたへ』(角川oneテーマ21)を読んだ。金平茂紀さんの講演会の折に買っておいた本である。
 金平さんはリベラル派だと思うが、他の執筆陣は必ずしもそうではない。鈴木邦男氏のような新右翼の人も書いていたりする。
 東郷和彦氏(元外務省)も「抑止」と「対話」が必要だとし、集団的自衛権の必要を認める立場に立っている。その東郷氏をして、外交においては、日中戦争から太平洋戦争の過程で国富のほとんどを失い、国民とアジアをはじめとする諸外国を惨禍に迷わせた歴史の反省にもとづいて、「日本は軍国主義の道を歩まない」を対外関係の指針とすることを忘れてはならないとしている。
 そして世論の一部にみられる「反中国論調」は、互いの国民感情を挑発し合うことで、「戦争への危険の皮膚感覚を失った」右からの平和ボケだといさめている。
 今日の中国をどう見るかについては富坂聰氏(北京大留学経験をもつジャーナリスト)の「中国共産党の現実と、そのアキレス腱」がきめ細かいと思った。(3月16日)

沖縄・竹富島の教科書採択問題で政府は「是正要求」を出した。問題の背景に教科書無償措置法と地方教育行政法との矛盾がある。地教行法はが各教育委員会ごとに教科書採択権があることを認めているのに対して、教科書無償法は教科用図書採択地区の設定を定めている。
 特別法(教科書無償法)は一般法(地教行法)に優先するのが原則だというが、各教育委員会ごとの教科書採択権を認めたのは戦前の国定教科書への反省からきている。そもそも論からいえば、どちらが民主主義の原則に合致しているかは明らかである。
 ましてや、採択地区に定められた八重山地区(石垣市・竹富町・与那国町)での協議の経過にも問題点が数多く指摘されている。
 「調査研究」にあたる調査員は会長(玉津石垣市教育長)が規約に反して役員会に諮らずに任命、その調査員が最も低い評価を示した教科書が無記名投票で選定された、などである。
 教科書の採択にあたっては長年現場の教員の意見が吸い上げられ、これが尊重されてきたが、こうした慣例も無視されている。
 そして、最大の問題はやはり採択された教科書の問題である。最初から育鵬社ありきであったことはどの過程をみても明らかである。「是正要求」の際、下村文相は「純粋に法令問題であって教科書の内容とは無関係だ」というようなことを述べているが、誰が信用するだろうか。
 「戦後の日本の平和は、自衛隊の存在とともにアメリカ軍の抑止力の負うところも多い」とか「各国では必要に応じて比較的ひんぱんに憲法の改正を行っています」などと書かれた教科書を、沖縄戦の傷跡とアジア最大の米軍基地をかかえた沖縄県民が拒否するのはむしろ当然であるとしなければならない。(3月15日)

 小松法制局長官が国会内で共産党の大門議員と口論したことを陳謝したとのことだ。衆院の予算委で共産党の小池議員から「政権の番犬」と批判された。参院で大門議員がとりなそうと廊下で声をかけたところ口論になったのだという。しかし、「公務員にも人権がある」というのは確かだが、「番犬」というのは比喩的な表現で、人たることを否定したわけではあるまい。きつい非難のことばには違いないが、これまでの政府見解をかなぐり捨て、「集団的自衛権」の容認に走ろうとするのは、「番人」としての立場を忘れた「番犬」とよばれても仕方がないと思うのだが。(3月12日)
 ※小松氏は病をおしての出席と聞いた。自らの信念にしたがってのことなら何をかいわんであるが、権力に尾を振るためなら身を削ることまでしなくてもよいのにと案じてしまう。まあ、口論する元気があるなら心配することもないか?
 ※伊吹衆院議長が東日本大震災三周年追悼式で「脱原発へ議論を尽くす」と述べ、安倍政権と一線を画す発言をしたとのことだ。もっともっと、声があがり、議論が起こるべきだ。このままでは取り返しがつかなくなる!

 『民主党政権 失敗の検証』(中公新書)を読んだ。何度もいうように私は民主党支持者ではないし、票を投じたこともない。だが、2009年の政権交代以降に起こった出来事は国民の側でもしっかりとつかんでおくことが大切だと考えている。本の内容に関する論評は別の機会にしたいと思うし、個人として別に考えもある。たが、以下のような記事に接すると、なぜ民主党はもう少し政策実現のためにがんばれなかったのか、そしてまた民主党に一時でも期待をよせた国民は、ときどきの風の流れに惑わされず、どうして政策を実現させる立場でこれを支えられなかったのかと思ってしまう。

《民主党政権が2012年秋、脱原発を実現するために天然ガスパイプライン網の整備や送電線の増強を国家戦略として進める法案の要綱を作っていたことがわかった。原発再稼働をめざす安倍政権が誕生し、この構想は立ち消えになった。
 民主党政権で経済産業相を務めた海江田万里代表や大畠章宏幹事長、国家戦略相を務めた荒井聰役員室長ら当時の有力議員に加え、経済産業、財務、国土交通、農林水産、環境各省の局長・部長級幹部らが12年春に勉強会を発足。同年秋まで10回程度会合を重ね、「基幹エネルギー施設整備促進法案」の要綱をまとめた。
 朝日新聞が入手した要綱によると、電力施設や天然ガスパイプライン、石油備蓄基地を「基幹エネルギー施設」と定義。大災害に備えてそれらの整備を進めることを目的としていた。》(朝日新聞デジタル3/10)(3月11日)

 近ごろの集会やデモにいくと、思い思いのフレーズや意匠によるゼッケンやプラカードを持ち寄る人が多く、組織中心でみな均一だったころと比較するとずいぶん個性的になった。
 9日の原発ゼロ大統一行動では、政府のエネルギー基本計画を「それは村人たちのベースロード利権でしょう」とやっつけていたのについ笑ってしまった。
 権力が力づくで押しつけてくるものを「茶化して笑ってしまえ」という精神は大切だと思う。(3月10日)

 広島・長崎への原爆投下や東京大空襲が「虐殺」行為であったことは確かである。だが、それをもって日本の戦争は正しかったとはいえない。非戦闘員である民間人の住む都市等を爆撃することを戦略爆撃という。相手国の国力そのものに打撃を与え、戦争継続への意欲を削ぐことを目的としている。その端緒を開いたのはナチスによるスペインの小都市ゲルニカに対する空爆(1937.4.26)であり、日中戦争を開始した日本軍は重慶を爆撃(1938.12.4)してこれに続いた。偏りなく事実をみることと「自虐史観」とは違う。
 百田尚樹氏は都知事選の応援演説で「(学校で)子どもたちに自虐史観を与える必要はない」と吠えたということだが、斎藤美奈子さんは「自虐史観の反対は自尊史観・自慰史観かしら?」とからかっている。(3月6日)

 閣議決定によって「解釈改憲」が可能だという論も、国会での審議を先行させるべきだとする論も正しくないという意見がもっとも筋が通っている。
 長年、憲法が禁じているとされて来た「集団的自衛権」の行使は、憲法の平和主義という柱にかかわる問題であり、憲法の改正をもってしか認められないというのがその論拠だ。
 それは政治的なかけひきの場でもある国会審議によってではなく、その「改正」の一点を問う国民投票によって是非が決せられなくてはならないである。ましてや包括的な政策をかかげる衆参の国政選挙で審判をうけるなどというのは全くのまやかしだ。(3月5日)
 ※政治的なかけひきといえば、つい昨日までは「アメリカに飛んでいく北朝鮮のミサイルを撃ち落とす」ためといっていたのに、最近は「弾薬や医療品を運搬することに限定されるだろう」などといっている。劇薬を服みやすくするためのオブラートのつもりかも知れないが、そんなことに欺されてはいけない!

《NHKの籾井勝人会長は3日の参院予算委員会で「(記者から)質問を受けたために、結局、まぁ、言わされたというのは言い過ぎですが、そういうことで申し上げた」と答弁した。》(朝日デジタル)
 「だって、しつこく聞いてくるんだもん」とか「言わせた方にも責任がある」とか、ここまでくると子どもの言い訳だ。日本のエリートが劣化したというが、いやしくも就任会見で自分の口から出たことばに責任を持てないなら、会長などという立場にたつことは恥ずかしくて出来ないのではないのか? 
 理事全員に辞表を提出させた問題についても、日本商工会議所の三村会頭は「(一般社会ではよくあることなどは)聞いたことがない」と批判したという(SmartNewS)。人格が低劣でも、常識が欠けていても、嘘つきであっても、規則にはNHK会長にはなれないとは書いていないという問題ではないだろう。
  ※
 今朝の東京新聞一面で、憲法をテーマにした市民集会を開こうとしたところ、神戸市と千曲市で会場使用を拒否されたという出来事が報じられていた。「政治的中立に反する」というのが理由だそうだが、政府が「解釈改憲」をめざしていることが影響しているのは明らかだ。
 これも東京都知事選の最中に番組の中で原発問題に触れることを制限したNHKと同じ手法である。それこそ「政治的中立」にも違反するばかりでなく、憲法が保障する「集会・結社の自由」「表現の自由」をそこなう信じがたい暴挙だ。(3月4日)
 ※前々回に貿易赤字の原因について円高と円安を取り違えてしまいました。(ああ!)円安になっても生産拠点を海外に移転させる企業が多いということも報道されていました。

 被害のあった図書館に杉原千畝名で関連本が寄贈されるなど、「アンネの日記」破損事件に対する社会的批判や対抗的な行動が起こっていることは心強い。
 第二次大戦中、日本は確かにナチスドイツと同盟関係にあったが、必ずしもユダヤ人に対する迫害政策に同調していたわけではない。
 手塚治虫の「アドルフに告ぐ」では神戸にユダヤ人のコミュニティがあったことが紹介されているが、満州にもユダヤ人のコミュニティが存在し、極東ユダヤ人会議の開催に協力するなど、日本も友好的・協力的であったことなどもあまり知られていない。ヨーロッパで迫害されているユダヤ人の脱出を助け、満州国に「ユダヤ人国家」を設立させようという計画(「河豚計画」)もあったということだ。
 これをもって満州の植民地支配をよしとするわけにはいかないし、背景にはソ連への対抗、アメリカへの牽制もあっただろう。「五族共和」の大義もあったかも知れない。だが、これらがヨーロッパやロシアから難を逃れてきた多くのユダヤ人の生命を救ったことは確かなのである。
 いたずらに歴史から目を背けるのではなく、これを直視することから新しい発見もあり得る。ヘイトスピーチデモの中にナチスの鈎十字をあしらったマントを着用している参加者があったということだ。ネオナチズムはヨーロッパでも問題になっているが、おそらくはたいして歴史的な背景も知らず、過激な排外主義に共感したのだろうが、それこそ「日本人の誇り」を自ら劣化させている愚か者のしわざに違いない。(3月3日)


 「火力発電のための燃料を買うために国富が海外に流失している」「燃料費の高騰による電気料金の値上げが家計を圧迫している」……。原発の再稼働を容認する人たちがよく使う脅し文句である。先日の読売新聞の社説も同じ論法だった。
 だが、燃料そのものの輸入量には大きな変化はなく、貿易赤字の主たる原因は円安であることはつとに指摘されているし、もっと根本的な問題でいえばもともと原発の建設費は電気料金に上乗せさせられていたのだし、事故後はその処理費だって電気料金の引き上げの要因になっているはずだ。原発が貿易赤字を解消するとか、電気料金の引き下げをもたらすなどということを信じてはなるまい。長い年月のスパンを考えるならなおさらだ。
 原発立地地域に対する交付金だってもとは税金だということを忘れてはならない。同じように税金を投入して地域振興策をすすめるにしたって、電源三法によらない、もっと地域の特性とニーズにあった方法があるはずだ。
 「金の力」(くどいようだが、そもそもは国民の税金だ)で世論を押さえ込もうというのは先の名護市長選と同じ構図だが、そろそろ通用しなくなっていることに気づくべきだ。(3月1日)
※貿易赤字の原因は円高ではなく円安でしたね。ああ!(円安でも生産拠点を海外に移転する企業が増えているとのことです。)

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