埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

「戦争」で思い出すこと

2021-05-16 16:20:16 | 意見交流

 戦争を知らない私の中にあるいくつかの戦争につながる思い出がある。
 一つ目は、父の左脚の怪我の痕。父は戦争に行かなかったけれど大学生の頃に軍事工場に招集され、そこで左足を機械に挟まれて傷を負った。大きなケロイドのような傷を小さい頃から見てきた。その後、盲学校の教員となり家業の寺院の僧侶にもなったが、この傷と戦争を繋げた話しを私たちにしてくれた。「どんなことがあっても戦争はしてはいけない。」と。
  二つ目は、祖母の話。寺院である我が家は「供出」という名のもとに様々な鉄などをお国の為だと出していた。その中で一番大きいのが梵鐘であった。鐘撞き堂にかかっていた鐘が持ち出されたときは、「お寺なのに鐘まで出すのか。」と思ったと祖母は言った。その後、私が小学3年生の時に鐘撞き堂に新しい鐘が戻ってきた。
  三つ目は、父の教え子のこと。父の教え子で全盲で片手がない人がいた。「なんで片手がないのかなあ?」と、小さい頃にその方がうちに来られたときに思ったので、父に聞いてみた。父の話は「河原で遊んでいたときに、戦争で使われた手榴弾があってそれを触っているうちに爆発をしたんだ。それで、片手がなくなり、目も見えなくなったんだよ。」というものだった。その彼が盲学校に入学して国語の教員だった父が弁論を教え、NHKの「青年の主張」に出場し入賞した。私も子どもながらにそのテレビをみていた。戦争は、終わっているけれど、近くにその痕が残っているのだと思わされた。その方がその後どんな生き方をされたのかはわからないが、一瞬の出来事のあとの壮絶な人生を思った。
  四つ目は、大阪市立盲学校の教員をされていた藤野高明さんのこと。私が書くよりご本人の書かれたものを載せます。

   「平和への願い」 大阪市 藤野高明 

  2001年の正月、世紀が改まり時代が21世紀に大きく踏み出した時、私は62歳だったが、歳 にも似合わず胸の高鳴るような感慨をもった。20世紀の人類史はあまりにも苛烈で、光と影の織り 成す歴史の実相はそこに生きたさまざまな個人に否応なく過酷な運命を強いるものであったからだ。 20世紀を振り返ってみると、科学技術と医療の進歩はめざましく、また平和と人権を守り、より確か なものにしようとする人々の努力もたゆみなく続けられ、時代のバトンをリレーしてきた。しかし、こ の世紀は日露戦争から湾岸戦争に至る相次ぐ戦争にあけくれた100年でもあった。とくに、第二次 世界大戦は世界中で5千万人を超える死者と、それに数倍する障害者を作り出した。愛する肉親や親 しい友人を失った。財産を無くした人々も数しれない。 私自身、この戦争が残した不発弾の暴発によって2歳下の弟を亡くし、自らも両眼の視力と両手を 失った。それは敗戦の翌年1946年7月、小学2年生夏休みのことである。以来、地元福岡の盲学校 からも二重障害を理由に入学を断られ、13年間の不就学を余儀なくされた。18歳のころ、視力と手 指を無くしたハンセン病患者のうちに唇や舌先を使って点字を触読する人のいることを聞き、懸命に3 点字に挑戦し、これを習得した。文字の獲得によって道が開けた。20歳で大阪の盲学校中学部に入学 を認められ、高等部普通科を経て通信教育で大学に学んだ。教員資格を得て、夢にまでみた教職に就く ことがかなったのは33歳の時である。 私は、同時代に生きた仲間たちや後輩たちのことを思う。戦争のなかで、あるいはそれが終わって後 も、多くの子供たちが無責任に放置されたこのような不発弾や地雷に触れ、殺されたり障害を負わさ れたりする例は、数え切れないほどあった。そして、かれらの多くは国や社会による何らの救済や保障 もなく生きてきた。 障害を受け入れて生きるのは、それほどたやすくはない。私はうつうつと、よく思った。たとえ片 方の目でも、手でもういいから、残っていたらどんなにいいだろうと。また、このような不幸をもたら したものに対するふつふつたる怒りを抱きながら生きてきた。その意味でずっと日本の戦後史をひき ずりつつ歩いてきたと思う。だから20世紀を感慨を込めて見送った時、来るべき21世紀こそ戦争 も差別も無い世紀であって欲しかったし、不確かであっても大きな希望をもったのである。 ところが、9.11多発テロと、それに続く洪水のような報復戦争がアフガニスタンで展開された。 そして今年3月、アメリカ、イギリスによるイラクへの先制攻撃と残虐な戦争が起こってしまった。 私は、自分の生い立ちと体験にも関わって、どのような理由をつけたとしても戦争そのものに反対 である。戦争は新たに数知れぬ障害者を作り出すばかりか、今懸命に生きている障害者の人権を否定 し、戦争の傘下の中で逃げ場さえ奪ってしまうのである。 戦争を計画し、準備し、命令する者たちは戦場で命を落としたり、傷ついたりしない。 日本国憲法はその前文で「日本国民は…政府の行為によって再び戦争の惨過が起こることのないよ うにすることを決意し」と、明確に戦争が国民の意思とは逆行してでも人為的に引き起こされるもの であることを指摘している。 「平和への願い」、それは私の生き方の原点である。テロは最悪の犯罪であり、絶対に許せないが、 報復戦争でテロの温床を断ち切ることなどできるわけがない。理性と国際法に裏打ちされた世論こそ が真の解決の鍵を握っているはずである。 2001年の正月に抱いた平和への希望は今、ひどく傷ついたけれども、だからこそ平和への思い を声と行動にしていかなければならないと思う。 私は平和には四つの条件があると考えている。 第一に、戦争が起きていない状態だ。私が物心ついたころ、戦争は日常であり、アメリカや中国は敵 であった。大人たちは敵意と侮蔑を子供たちに教えた。 第二に、差別や偏見がなくなることだ。かつて障害者は社会の「恥」か「お荷物」のようにみられ、 肩身のせまい思いをしながら生活せざるを得なかった。 第三は、貧困と飢餓が世界的規模で基本的に克服されることだ。ひもじさが胃袋を噛んだ子供のこ ろの記憶が、飢餓状態を伝えるニュースによみがえってくることがある。 第四は、人間が作り出した優れた文化遺産を共有し、新たな文化創造に参加できることだ。私はとき どき、妻や友達とコンサートに出掛ける。ベートーベンやマーラーの大曲の中に深く身を沈め聞き入 る時、芸術の偉大さと平和のありがたさをしみじみと感じる。そして、その曲が終えんを迎え、一瞬の 静寂を突き崩すように万雷の拍手がホールに満ちる。私はその瞬時、嵐のような拍手に加わることの できない左右の手を意識してしまう。ほとんど口にすることのなかった悲しみが心に沸き上がってく る。それでも私は、心を潤すあの音楽の充足感を求めて演奏会に出掛けていく。
  
  「受賞の言葉」 最優秀という通知を受けて、殊のほかうれしかったですね。 実施要項を見て、ちゅうちょなく「平和への願い」で書きたいと思いました。 気持ちの中で熟成させたものを一気に集中して書きました。 「平和は願うだけでは来ない」、「平和を守ることは生易しいことではない」、 「思想・信条を超えて、戦争の原因に目を向けてほしい」との思いを込めました。 平和の素晴らしさ、有り難さを多くの人に分かってほしいですね。 
   藤野高明氏 プロフィール 1938年福岡市生まれ。02年度まで30年間、大阪市盲高等部社会科の教員を務める。 

 今、私たちは何をしなくてはいけないのだろうか。一人の人間として、教員として、親として、地域住民として。様々な自分の立場がある。今の政治の動きを分析しながら、行動すること。伝えること。やれることはたくさんある。どんなことがあってもこの憲法はこのままで残したい。「自民党の憲法改正草案は、今の憲法を修正するのではなく『棄てる』ことなのだ」と言われた井上ひさしさん。この言葉を忘れまい。(元盲学校 江口美和子)
      

 

 


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