埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

今日のつい一言  2014.1

2014-01-06 08:42:59 | 意見交流
 東京オリンピックが都知事選の焦点の一つになっているというより、まるで人質のようにしている候補者や応援団がいる。「世界最高、史上最高のオリンピックを!」なんてはしゃがれると、その人物の見識そのものが疑われる。どうせ大金を投じて大規模化をはかろうとか、これに便乗したインフラ整備を考えているのだろうが、その発想自体が時代遅れである。
 「世界最高」を示して威圧するのではなく、選手が尊厳をもって遇されていると実感でき、のびのびとベストを尽くして競技に専念できる環境を整えることを最優先に考えていけばよいのではないだろうか。
 選手や観客の安全を確保するための治安対策は確かに重要だろう。だからといって、それが人権抑圧の口実にされるのはまっぴらだし、特定の団体や国籍を持つ人々に対する差別を作り出すようなことは許されない。いつまでもヘイトスピーチのようなものを野放しにしておいて諸外国からの来客など迎えられるのだろうか。(1月30日)

 原発を持つ電力各社が2006年以降、原発再稼働を訴える甘利明経済再生相のパーティー券を水面下で分担して購入してきたことが朝日新聞の調べで分かった。平均的な年間購入額は数百万円とみられるが、各社の1回あたりの購入額を政治資金規正法上の報告義務がない20万円以下に抑えていた。(朝日新聞デジタル)
 ……やっぱりなあ、という言葉しか出てこない……。TVに出て来ては「日本の産業の維持・発展のため」とか言っているのがそらぞらしい。

NHK会長の慰安婦発言、官房長官は問題視せず(同)
 ……やっぱりなあ、という言葉しか出てこない……。問題視しない理由は「個人として発言したものと承知している」からだというが、公共放送の長として相応しい人物かどうかは問われないということなのだろうか。政府は人選に関与していないというが本当だろうか? 会長に選出した経営委員に責任はないのだろうか? 他人に厳しく身内に甘いようでは国民の信頼は得られない。
 それにしても、菅官房長官の「違和感を感じる」と「問題ない」は聞き飽きた。(1月27日)

今日のつい一言:(本当は今日はお休みのつもりでしたが)
 NHK新会長の籾井勝人氏はが25日の就任会見で、従軍慰安婦について「戦時だからいいとか悪いとか言うつもりは毛頭ないが、このへんの問題はどこ(の国)にもあった」と述べたとのことだ。
 確か昨年5月、橋下大阪市長が同様の発言をして世論の非難を浴びた。人の振り見て我が振りを直せない人間には、歴史問題の焦点がつかめない鈍感さを指摘するより、偏向かつ硬直した確信犯としての正体を早くも明らかにしたと認識しておこう。
 放送法第一条「不偏不党」を強調したともいうが、これもどうも怪しい。原発が危険だというなら安全とする意見も併記しろとか、採決が「強行された」とはいうな、とかいうことらしい。
 しかし、どうしてこんなにも類が友を呼ぶようなのだろうか?(ああ、そうか。友が呼んでいるのか…。)(1月25日)

(まとめ)
 二日間にわたって「戸締まり・ハリネズミ・抑止力」と、ことばが変化するごとに軍備はエスカレートしてきたことを話題にした。(まあ、私と同年代の人には少々退屈な復習問題だったが。)
 ところで現在の日本の軍事力はどの程度なのだろうか?
 つい最近おこった海上自衛隊の艦船と漁船との衝突事故の映像を見てびっくりしたという人は多いのではないだろうか? かくいう私もだった。そこで調べてみると、「おおすみ」は輸送艦と名前がついているが形は空母、中味は戦車揚陸艦である。空母型といえば「ひゅうが」や「いずも」はヘリコプター搭載型の護衛艦でこちらは戦闘目的の護衛艦である。
 かつて海上自衛隊の護衛艦といえば駆逐艦型だった。横須賀でその姿をみて、「ああ、これは米軍の空母を護衛するための艦船だな」と直感したものだった。
 しかし、戦車揚陸艦やヘリコプター搭載艦は、自国に侵略してきた敵を迎え撃つのではなく。自前で敵地に乗り込んでいくための軍艦である。
 (ヘリコプターをあなどってはならない。第2次世界大戦末期に旧日本軍が大本営を松代に移そうとしたので分かるとおり、山間部に設けられた基地やひそんでいる敵を攻撃するには高速飛行をする飛行機では無理なのである。「いずも」が搭載するのは今は哨戒ヘリということになっているが、いつでも攻撃型ヘリへの交代は可能なのである。なお、参考までに「いずも」は全長248m、旧日本海軍機動部隊の旗艦空母だった「赤城」は全長261.2mである。中国が初めて保有した空母「遼寧」は305m。)
 「世界の平和と安定に資する」ためにはこれくらい当然とでもいうところかも知れないが、日本が保持している軍事力はとうに「戸締まり」の段階を超えている。日本の「防衛指針」は中国を「懸念」の対象としているが、アジアの中で日本は脅威となっているのである。(1月24日)

(昨日の続き)
 核兵器の問題について補足する。相手の攻撃への意欲を失わせるほどの軍事力とは核兵器をおいてない。第二次大戦直後、アメリカは核兵器を独占できると考えていたが、そうはいかなかった。むしろ原爆(核分裂爆弾)を上回る水爆(核融合爆弾)を先に開発したのはソ連だった。
 核兵器の独占による「抑止論」が成り立たなくなると、米ソ冷戦時代には「均衡」論が唱えられた。パワーバランスによって平和が保たれるという、核保有を肯定するための理論であったが、核ミサイルの多核弾頭化と迎撃のための技術が発達(本当に実効があるのかどうかは不明)する中で「核先制攻撃」論に置き換わっていった。「一触即発」態勢の中で緊張と軍拡競争が激化し、競争に敗れたソ連はやがて崩壊を迎えた。
 それでも第三次世界大戦規模の全面戦争は避けられたという人がいるが、これもかなり危うく疑問である。古くは朝鮮戦争やベトナム戦争でも核兵器の使用寸前までいったが、それを押しとどめたのは国際世論の力である。
 冷戦の終結がもたらしたものは核拡散の脅威である。核兵器を保有することで大国と対等になれるという幻想が生まれた。だから北朝鮮は核を保有し、実用化しようと躍起になっている。米オバマ大統領が核兵器廃絶を言い出したのは核拡散を怖れてのことである。
 テロ組織の手に核がわたる危険性も指摘されている。核ミサイルを保有したり発射できたりしなくとも、核物質が都市に放置されるような事態を想像しただけで、その恐ろしさは極まりない。「抑止力」とされたものが人類の生存と安全を脅かしているのである。(1月23日)

(戸締まり・ハリネズミ・抑止力)
 非武装中立の是非を議論していたころ、日本も軍事力を持つべきだとする人たちが唱えていたのが「戸締まり」論である。空き巣や強盗に備えるためにどこの家でも戸締まりはしている。それと同じで最低限の軍備は必要だという理論である。
 軍事大国だったソ連を仮想敵国としていた時代だから、相手が本気を出してきたら中途半端な軍備など何の役にも立たないではないか、という議論に対して「ハリネズミ」論を唱えた人がいる。猛獣には太刀打ち出来ないが、ハリネズミなりの反撃で持ちこたえているうちに同盟国(つまりアメリカ)が助けに来てくれるという理論である。
 最後の「抑止力」論は相手を上回る軍事力を保持し、これを見せつけることで相手の攻撃への意欲を失わせることができる、結果として戦争は起こらないのだから平和を維持することができる、というものである。
 「抑止力」論の問題点は必然的に軍拡競争を引き起こすこと、明日述べるように絶対的な軍事力である核兵器が出現してからも世界では戦争が絶えなかったことにある。
 ところで沖縄・普天間基地は米海兵航空団の支援基地であり、これを「抑止力」とすることには疑問がある。海兵隊はまっ先に戦地に急行し、殴り込みをかける実戦部隊である。過去にもそうであった通り、海兵隊が動くときは戦争が始まるときなのであり、「抑止力」というより「一触即発」状態の恒常化なのである。(1月22日)

「名護市民は「普天間固定化」を支持したに等しい」(産経デジタル)とはいかにも産経らしい。だが、「名護市民」対普天間基地のある「宜野湾市民」という構図は正しいのだろうか?
 沖縄県民の圧倒的な声は「普天間基地は県外へ」であり、仲井真知事も県外移設を公約に掲げて当選した。では、辺野古の埋め立て申請を承認し、その公約を破ったことを沖縄県民は「やむなし」と容認したのか。今回の選挙結果はその答だったのではないか?
 名護市民は気高くもあえて苦難の道を選択した。それは基地や交付金に頼らない地域振興をめざす道なのであろう。単なる感情論ではない、もっと大きな変革の動きを指摘する人もいる。新聞社であればそれくらいの動向はつかんでいるはずなのだが、あえて先のような構図を描き出すことで世論を誘導しようとしている。そんなことがいつまでも通用してよいはずがない。(1月21日)

 「はだしのゲン」に対する攻撃が執拗に続いている。東京都では『はだしのゲン』をめぐるって12本の請願が出された。学校からの撤去、除去、排除を求める請願が3本、これに対抗して自由閲覧を求める請願が9本あったそうだ。
 1月9日、東京都教育委員会はすべての請願に「応ずることはできません」と回答し了承された。その理由は、「学校図書館にはさまざまな図書館資料が置かれることが必要である」とし、都教委としては特定の図書の撤去や閉架措置を指示しない、「校長による図書館資料の選定事務が適切に行われるよう取り組んでゆく」とある。
 ただ、最後に「我が国と郷土を愛する態度や、国旗・国歌の意義等について、児童・生徒を正しい理解に導くよう、都立学校や区市町村教育委員会に対して指導・助言を行ってまいります」とし、今後どのように具体化されていくかは予断を許さない。
 1月10日、埼玉県でも高校教育指導課から県立高等学校長宛てに「学校図書館における「はだしのゲン」の所蔵及び自由閲覧の状況について」の照会(調査)があった。(知り合いを通して知ったので、おそらくは小中学校にも同様の調査があったものと思われる。)
 現時点では、埼玉でも請願があったからというのではなく、東京での経過から事前に実態を押さえておこういうことらしい。
 たかがマンガに、ということではなく、ここから一点突破を仕掛けてきているのだという危機感が必要なのだろう。「国禁の書」が復活するようでは、戦後「図書館の自由に関する宣言」をかかげた図書館だけでなく、民主主義の息の根が止められてしまう。(1月20日)
  ※
 名護市で稲嶺市長、南相馬市で桜井市長が再選された。「復興がすすまないのは市長が何でも反対だからだ」などの切り崩しも激しかったと思うが、再選させた市民の良識に敬意を表したい。

 昨夜は卒業生の集まりがあり、ちょっと嬉しいサプライズもあったのに、つぎのようなとんでもニュースが飛び込んできた。

 東京オリンピック大会組織委員会の会長に就任する森元首相は18日のテレピ東京の番組で、小泉元首相が訴えている「原発即時ゼロ」について、「6年先の五輪のためにはもっと電力が必要だ。今から(原発)ゼ口なら、五輪を返上しかなくなる。」と発言…

 おそらくは都知事選を意識してだろうが、オリンピックを人質にここまで露骨に政治利用して恥じないような人物が大会組織委員長であるなら、ほんとうに返上した方がよいのではないだろうか?
 まあ、過去のいきさつからして「この人なら(こんな発言をしても)しかたないのかなあ」という気がしないでもないが、そんなに人材が不足しているのだろうか? この人は発言のあと、自分が恥ずかしくなったりしないのだろうか?(1月19日)

 明日は沖縄・名護市長選の投票日である。選挙期間に入って突然500億円の「名護振興基金」が打ち出されるなど、基地建設に反対している現職市長に対する露骨な切り崩しが目に余る。しかも、その500億円には確かな裏付けがないと聞くと、金力で屈服を迫るというよりたぶらかしに近い。
 基地と原発は地域住民を分断する。今日、NHKEテレではじまった「戦後史証言・日本人は何をめざしてきたか」の東北シリーズで、六カ所村核燃料再処理工場の建設で揺れた下北半島をとりあげる。(1月18日)

 今年の焦点は「集団的自衛権」問題だと思っていたが、磯崎首相補佐官は今月24日からの通常国会中に「しっかり決めたい」と述べたということだ。安保法制懇談会による報告書の提出が4月。山場がやってくるのは予想より早期になりそうだ。
 「集団的自衛権」問題がもちろん大きいのだが、「教科書」問題も重大だ。それにしても教科書が「政府見解」にしたがうことでいいのだろうか? 
 教科書がしたがうべきは「真理」(および真理にいたろうとする態度)であり、そのために依拠すべきは学問および科学をおいてないはずだ。もっとも、その学問の府たる大学の自治や学問の自由もまた脅かされつつあるのだが。(1月16日)

 共同通信ニュースによると、点検漏れを指摘されていた「もんじゅ」が確認中にもかかわらず完了との報告をし、原子力規制委員会の注意を受けたとのことである。
 [詳報]15日、原子力規制委員会は、福井県・高速増殖炉「もんじゅ」で1万点を超える機器の点検漏れが発覚した問題で、運営主体の日本原子力研究開発機構が見直しのための点検計画の内容を確認作業中だつたにもかかわらず、見直しが完了したと規制委に報告していたことを明らかにした。事実上の運転禁止命令が出ている「もんじゅ」の運転再開を急いだ可能性があるとのことだ。

 「世界一安全」などということはあり得ないと考える理由のひとつに、設計や建造から操作や点検までの各過程で人為的ミスは避けられないということがある。しかし、これではミスどころか「手抜き」であり、いうなれば「虚偽」ではないか!
 都知事選にからんで、自民党からは「原発は国政問題」との牽制がはじまっているが、国政にゆだねていていは危なっかしくてしかたがないからあちこちで声があがっているのである。(1月15日)

 新春二題①:
 福井県の「もんじゅ」とともに核燃料サイクル計画の柱である青森県六カ所村の再処理工場の稼働に向けて適合性審査が申請されたという。
 使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出し、高速増殖炉で再利用するという計画は、エネルギー資源を持たない日本の救世主のように宣伝された。
 だが、高速増殖炉「もんじゅ」も六カ所村再処理工場もトラブル続きで完成のめどがたたず、またひとたび事故が発生したときの危険性は原発の比ではないとされている。
 どんな初夢を見たのか知らないが、いいかげん空想科学小説のような夢は捨てなさい、といいたい。
  ※
 昨年の台風18号で一本道のトンネルがふさがってしまったり、データ送信が出来なくなったりした「もんじゅ」だが、つい最近はコンピュータウイルスによってデータが外部に流失したという事件が起こった。こんなことで「特定秘密保護法」が聞いてあきれる。何かが決定的に間違っている。(1月8日)

 新春二題②:
 7日、下村博文文科相が記者会見で、高校日本史の必修化を「前向きに検討すべき」と述べたとのことだ。また、規範意識や社会制度などを高校生に教える新科目として自民党が目指している「公共」の導入に関しても検討する意向を示したという。
 「グローバル社会を見据え、日本のアイデンティティーを学ばせる必要がある」というのだが、その「アイデンティティ」なるものが何ものかが問題だろう。
 自分たちが今を生きる時代を知るために歴史教育は大切だ。特に日本の近現代史教育はこれまで不十分だったことは確かである。だが、昨今の教科書攻撃の実態や教科書検定の改変の動きを見るにつけ、その近現代史は真実が隠蔽されたり美化されたものになってしまうことが危惧される。
 それと、「公共」って何だ? 社会科を「地歴」「公民」に解体しただけでは、どうも自分たちの思うようにならないというところなのか?
 だいたい「公共」の意味をどうとらえているのだろうか? 私の考えでは「公共」は西洋的な「パブリック」の概念に近い。したがって、それは元来「人民」の間から発生しなければならないのである。
 しかし、おそらく彼らは「公」=国家ととらえているに違いない。「公」は「私」に対立する。そのうち「滅私奉公」とでも言い出すのではないだろうか?
 だが、もともと「宮殿・君主」を意味した「公」は、君主の心がまえとして「公平」「公正」でなければならないという意味にも広がったのである。まずは政権に立つ者として自分たちが「公平」「公正」であるか自問するのが先でなくてはならない。(1月8日)
 本年最初のつい一言です。今年もよろしくお願いします。
  ※
 新しい「エネルギー基本計画」に対するパブリックコメントの募集は本日が締切です。政府は1月末にも同計画を策定し、原発の再稼働さらには推進しようとしています。
 原発を「重要なベース電源」と位置づけることは、新たな「安全神話」「安心神話」のもとに、脱原発の道すじから逆行しようとすることです。しかし、福島原発事故以来、全原発が停止している今日の状況をみたとき、原発を「ベース電源」とすることが正しい選択であるはずがありません。
 ひとたび事故が発生したときの過酷さを私たちは目の当たりにしたばかりです。その現場に居合わせた世代の責任として脱原発を決意すべきであると私は考えます。
 原発を止めるのは世論しかありません。ネットからファームで送信できます。(1月6日)