埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

今日のつい一言 2014.5

2014-05-02 11:21:44 | 意見交流
 活断層問題に厳しい姿勢で取り組んでいたという島崎氏と大島氏に代わり、政府が原子力規制委員会の新たな委員とする田中知氏について人物像がつかめてきた。
 田中氏は「日本原子力産業協会」理事を2010~12年につとめ、11年には「東電記念財団」から50万円の報酬を受け取っていた。
 12年の民主党政権時の人選基準からは明らかに外れている。自民党の河野太郎氏は「内閣が代わったから基準も変えるというのはおかしい。これでは民主党政権よりも後退したととられてもおかしくない」と話したという(「東京新聞」5/30)。
 同基準とは別に、元原子力学会会長、原発メーカーである日立などから110万円の寄付を受け取っていたという経歴から、「規制」委員としての適格性には誰が見ても疑問がある。ただでさえイチジクの葉としか思えない「世界最高の安全基準」がまた骨抜きになっていく。(5月31日)


 先日も書いたように、「日米安保条約」は軍事同盟である。だから、「アメリカに基地を提供していることは集団的自衛権を行使していることだ」と誰かが言っていたのはある意味で正しい。
 ただ、これまでと同じ事をしようとしているなら憲法解釈の変更も新たな法整備も必要ではない。これまではPKOで自衛隊を海外に派遣したとしても「平和維持活動」や「復興支援」であった。「今までと同じでない」というのは、「まだ平和でない」紛争地域で、「復興支援でない」作戦行動をとり、「急迫かつ自衛のためではない」武器使用を行うということではないのか。


 母子らが乗った米艦のパネルを示し集団的自衛権の行使が必要な事例としたことについて、「あり得ない紙芝居」とさんざん批判された安倍首相だったが、28日の衆院予算委員会では、「日本人が乗っていないから駄目だ』ということはあり得ない。極めて明確な例として『邦人』を示した」と述べ、日本人が乗っているかどうかは米艦を守ることと関係ない、との考えを示したという。「戦闘地域」への自衛隊の派遣についても否定しなかった。
 日本の「防衛」に主眼があるのではなく、これまでの限度をこえて米軍と作戦行動を共にするというのがねらいであることは疑いない。記憶しておくべきは、イラク戦争での教訓はアメリカは自ら「紛争」を起こすための戦争も辞さないということである。(5月29日)
 ※先日、百田尚樹氏がTVのバラエティ番組に出演していたと書いたが、どうもこれは親しみやすさを演出する作戦らしい。安倍首相本人もタモリの番組に出演していた。どこかに作戦司令塔があるのだろう。


 27日、政府は原子力規制委員会の新たな委員として、田中知氏と石渡明氏を新たに起用するとした人事案を衆参両院に提出した。一方、任期がことし9月までの島崎邦彦委員と大島賢三委員は退任することになる。島崎委員は、地震などの自然災害を担当し、運転再開の前提となる安全審査や原発の断層問題に厳しい姿勢で取り組み、事業者から「十分な説明がなされていない」として、公開質問状を提出されることもあったという。
 菅官房長官は記者会見で、「今回の人事案は原発再稼働の布石だという見方があるが」との質問に対して、「それはまったくあたらない。交代する島崎、大島両委員は、今期限りの退任の意向が強かった」と述べた。
 「今季限りの退任の意向が強かった」のはそれだけ外圧がかかっていたためではないのか? この人のいう「まったくあたらない」ほど当てにならないことばはない。いよいよそこまで来たか、という思いが強い。
 ※本当は中国船の衝突によるベトナム漁船の沈没について書こうと思って原稿も用意していた。中越戦争当時を思い出していた。どうか過熱化を避ける努力を望みたいが、両国のコミュニケをみると風雲急を告げているという感がする。(5月28日)


 百田尚樹氏の暴言がまた物議をかもしている。24日、自民党岐阜県連定期大会での講演で、「軍隊は家に例えると、防犯用の鍵」だと語った上で、軍隊を保有していないバヌアツ・ナウル両国を「くそ貧乏長屋で、泥棒も入らない」と揶揄したいうのである。
 「戸締まり論」の問題は以前にも触れた。集団的自衛権の行使の問題が「戸締まり」の範囲であるかどうかの問題はあるが、この他国を蔑視したり、さらには敵視したりする態度の方が根が深い。
 バヌアツは「地球上で最も幸せな国」に選ばれたこともある穏やかな国であるという。ナウルはリン鉱石の採掘によって栄え、税金の免除、医療・教育の無償化など、世界で最も高い生活水準にあった時代を有する。鉱石が枯渇した後、深刻な経済崩壊が発生し、国際援助に頼るにいたっているというが、さまざまな条件の違いはあるとはいえ、どうして尊敬や同情ではなく侮蔑のことばが先になるのだろうか。
 また嫌な思いをさせられたなと思っていたら、TVのバラエティ番組に百田氏がたまたま出演していた。はにかんだようにもみえるその仕草やふるまいをみていて、「敵に襲われたらまっさきに武器を持って立ち向かう」ような人物にはとても見えなかった。このような人物に日本の世論が左右されるようなことがあったらたまらない。(5月27日)

 大飯原発の再稼働差し止めを命じた福島地裁判決を受けて、古賀茂明氏と若杉冽氏が対談している(「週刊現代」)。
 ドイツ、スイス、イタリアが脱原発をめざすとしているが、まだ達成されていない。日本は実質「原発ゼロ」の状態にあるが、「景気は好調で、消費税も10%に上げても大丈夫だという状況になってきている」という。
 消費税8%への引きあげでも中小企業には大打撃で、10%に云々は皮肉まじりであろうが、日本が好景気にあるとすれば円安政策のためであって、原油やガスの輸入量は減っていないのに貿易赤字が増えているのはその引き換えなのである。
 いずれにしても、原発がストップしていては日本経済は立ち行かないとか、原発がストップしているから貿易赤字が増大してるという論理が成り立たないことを指摘している。
 「原発で作られた電気が安いと信じているのは、もはや日本だけ」であり、「世界最高水準の安全性をめざすのであれば、そんなに安く上がるはずがない」ともあるが、その「世界最高水準」がまたあやしい。
 「活断層の可能性があるから原発を作るのはやめておこう」が当然なのに、「規制委員会が危ないと判断するなら、逆に証拠を出せと言われる」「絶対に活断層だと証明」しなければならないのは逆だというのだ。
 いっていることはしごくまともなのに、切れ味はするどい。ところで若杉冽氏は「覆面官僚」と聞いたが、「元官僚」の古賀氏とはもともと面識のある間柄だったのだろうか?(5月26日)

 韓国船沈没事故で修学旅行生らの乗客を船内に残したまま船長以下がまっさきに避難してしまったのは、その船が危険な状態にあることを誰よりもよく知っていたからではないか?
 朝日新聞が入手したという「吉田調書」で、「東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。」ことが判明し、「その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。」とあるのを読んで、ふとその沈没事故のことを連想した。
 福島第一で待機命令を無視して所員達が撤退したのは誰よりも原子炉が危険な状態にあることを知っていたからではないか? その上で、緊急に自治体や住民に避難勧告をすべきところをまっさきに自分たちが逃げ出してしまったとしたら、まったく同じ構図だということにならないだろうか?
 たった10キロ先に離れたことで避難になったのかどうか、後先を考えられなかったところもそっくりである。違うところは韓国では船長等は殺人罪で起訴されたが、福島原発事故では誰も責任を問われていない点である。私の妄想とばかりはいえない怖さがある。
 【吉田調書】東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」。菅官房長官は、吉田調書は「公開しない」としている。(5月23日)


 福井地裁が大飯原発の再稼働の差し止めを命じた。人格権を正面にかかげ、「これを超える価値を他に見いだすことはできない」とする判決は格調が高い。関西電力は控訴を決めたということだから、上級審でどうなるかは予断を許さないが、脱原発をすすめようとする側にとっては大きな理論的根拠になっていくだろう。
 菅官房長官は判決に関連して、政府方針は「まったく変わらない」と述べ、「安全を客観的に判断してもらったうえで再稼働することは正しい」と強調したという。
 他にも「原発については(エネルギー基本計画で)政府の判断は出ている」(福井県西川知事)、「規制委員会の判断を待たず、司法が結論を出すことには疑問を感じる」(福井県敦賀市長)と、推進派・容認派はさっそく態度を硬化させている。三権分立の原則が分かっていないし、何よりも判決の内容を本当に受け止めているのかそれこそ疑問を感じる。
 司法もそれなりに精緻な検討と覚悟をもって判決を下したはずである。せっかく「待った」をかけてもらったのに、これを押し切れば悔いを千載に残すことになるだろう。
 【もう一言】沖縄教育委員会は竹富町の教科書採択地区からの離脱を決めた。教育の国家統制の強化という問題の根本が解決されたわけではないが、小さな町の勇気ある抵抗が国家の力で押しつぶされるのだけは回避された。
 【余談】週刊誌では「新潮」「文春」が政府応援団だが、「文春」の新聞広告には「「美味しんぼ」雁屋哲は日本が大嫌い」の見出し。まあ、素早いことと感心するが、曾野綾子の「日本が嫌いなら外国にどうぞ」と同様の論調には嫌悪を感じる。日本がよい国であってほしいと思うから批判すべきところを批判しているのだ。
 「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していること」(福井判決)を望むことのどこが間違っているというのだ。(5月22日)


 19日発売の「ビックコミックスピリッツ」を買っておこうと思ったのだが、昼頃にはもう近くのコンビニにはなかった。社会的にも関心が高かったためではないかと思うが、斎藤美奈子氏によると特集は総合誌に匹敵するほどの充実ぶりだったというし、もともと「美味しんぼ」は不定期連載であったから今回の休載も圧力に屈したものではないだろうと書いている。そうだとすれば、作者と小学館の名誉のために「圧力に屈したのでは」との前言を撤回しておかなければならない。ただ、斎藤氏も石原環境相以下の発言については批判している。
 別件だが、荒木田福島大准教授の「福島にはもう住めない」発言については本人は掲載しないでほしいと要望していたそうだ。荒木田氏は原発事故後の被曝対策を批判。自ら除染作業に参加した体験から効果を疑問視し、「脱被曝」「被曝を避ける権利」を訴えてきた。(5月21日)

 5月16日、教育委員会改悪法案が衆院文部科学委員会で可決された。「この国のかたちを変える」と標榜する人たちがいるが、私には「この国のかたちが壊されていく」としか見えない。
 教育行政にあたって首長権限を強めるというのが眼目のようだが、大阪の橋下氏のような人物にいいようにされて教育がよくなるとはとうてい思われない。
 そういえば、氏は最近の市議会で若手の共産党議員を「若造」よばわりし、答弁もろくにせず、議長からたしなめられたという一件があったそうである。私は最初、氏が「若造」よばわりされ、例によって逆ギレしたという話かと思ったら、確かに「若造」とよばれた議員の方が年齢が下であった。
 それにしても選挙で選ばれた市民の代表を「若造」とは品格に欠ける話である。
 ※「菅官房長官、吉田調書は「公開しない」、理由は明言せず」だそうである。「特定秘密保護法」はまだ効力を発していないし、また「特定秘密」に該当しないはずだ。これが問題にならなくていいのだろうか?(5月21日)


 5月14日、「医療・介護総合法案」が衆院厚生労働委員会で強行採決された。210の地方議会が反対の意見書を可決するなかであった。
 内容は医療・福祉の切り下げである。介護保険では、要支援者は訪問・通所介護が保険給付されなくなる。ボランティアで対処ということになるそうだ。
 これは以前から話題になっていたことで、半年ほど前「たけしのTVタックル」だったか、出演していた片山さつきが追及されて、「検討中ということでまだ決まったわけではありません」と言い逃れしていたのを覚えている。
 いつか書いたように、私の父は1年前に要支援1から2に切り下げられた。実はそのころにはもう表面化していて、調査員も「まだ決まったわけではない。決まる時には代替措置があるはずだ」などと説明していた。
 我が家では現在、訪問介護は受けていない。家族といっしょに生活している限り、確かにそれほど必要ではないだろう。だが、高齢者が一人暮らしでいるときは話が別だ。週3回、買い物に行ってもらったり、家事を手伝ってもらったりするだけでずいぶん助かると思う。
 私は怒っている。国民はもっと怒るべきだと思う。何のために消費税を上げたのか? 「現在検討中」というのは決まるまでは国民の意見は聞きませんよ、決まったら何をいっても無駄ですよ、という意味なのか?
 集団的自衛権の行使に関する記者会見で、安倍首相は「国民の生命・安全を守るため」を強調した。ただのお題目に聞こえたのは私だけだろうか?
 ※福島第一に関連して、「吉田調書」が公開された。「東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。」(朝日デジタル)とある。まだまだ隠されていることがある気がする。(5月20日)


 5月12日の「読売新聞」1面に「集団的自衛権71%容認」という大見出しが出た。しかし、すぐ横の円グラフをよく見ると全面支持は8%、限定支持が63%とある。いつもながら政府応援団の「読売新聞」らしいが、その「限定支持」がまたあやしい。
 15日の安倍首相の記者会見では「湾岸戦争やイラクでの戦闘に参加するようなことは決してない」とあったが、17日に読売テレビに出演したの石破幹事長は「何年かたって日本だけが参加しないというのは変わるかも知れない」と発言し、早くも食い違いをみせているからだ。
 これは安倍・石破間で意思疎通が欠けているとか、過激さを競い合っているとかが原因ではあるまい。最近の自民党得意技の二枚舌というのか、将来海外での武力行使に踏み切るとき、「ちゃんとあのとき言ってありますよ。それでも選挙で私たちを選んだじゃありませんか。」という布石を打っているのだ。
 なお、17・18日の共同通信社による世論調査では、集団的自衛権の行使に賛成が39.0%、反対48.1%、憲法解釈による変更には51.3%の人が反対している。(5月19日)


 『美味しんぼ』が次号からしばらく休載するという。小学館では東京電力福島第一原発事故をめぐる描写に対して福島県などが抗議していた問題で、19日発売の最新号に「ご批判、お叱りは真摯に受け止め、表現のあり方について今一度見直して参ります」とする編集部の見解が掲載されていることとが分かったという(朝日デジタル)。
 同号で、「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」と題した特集も掲載されるということは以前にも報道されていた。これだけ問題化した以上、必要な措置だと思ったし、作者および編集者側からの説明や反論もあればいいと思っていた。作者は2年間にわたる取材活動にもとづいており、内容が真実であることに自信を表明していたからだ。
 だが、そのようには決着せず、結果的には閣僚もいっしょになった「押さえ込み」に屈服させられたかたちになった。しかし、これで低線量被曝の問題がうやむやにされ、あたかも解決済みのように扱われていくとしたら将来にわたっての傷となるだろう。(5月17日)


 昨日、「安保法制懇」の報告書が提出され、安倍首相は直ちに集団的自衛権の行使に向けての憲法解釈の変更を検討する考えを表明した。
 当初4月に予定されていた報告が遅れたのは、消費税引き上げ直後のタイミングを嫌ったのと、何より反対世論を考慮してのことだろう。何にしてもいよいよ始まったという感が強い。
 これから様々な応酬が与野党間のみならず、与党間、そして国民的な反対運動との間でなされていくことになるのだろう。しかし、こうして表に飛び出してきた以上、相手は何が何でも押し切ろうとする構えでいることを忘れてはならない。
 国民一人ひとりがきちんと自分の頭で考えていくことが大切だと思うので、私もできる限り、自分のことばで語っていくようにしたい。
 最初にいいたいのは、「集団的自衛」ということばのまやかしである。「集団的」というのは「軍事同盟」を結ぶことである。その点でいえば、日本はすでに米国と「安保条約」という軍事同盟を結んでおり、米軍に基地を提供している。
 「自衛」というから日本の防衛に問題を限定しているようによそおっているが、本音をいえば軍事バランスを保つために、相対的に弱まった(※1)アメリカを補完するために、日本の軍事的な参加の範囲を拡げようということである。
 今回は、そのために日米同盟を「攻守同盟」(攻めるのも守るのも一緒)化しようということなのである。(※2)「日本を守るため」に、強力な「抑止力」としての軍事同盟が必要であり、そのために「集団的自衛権」の容認に踏み出さなくてはならないのだ、という人がいる(※3)。だが、「集団的自衛」という考え方が、そもそも「日本を守るため」(のみにある)にあるのではないことを明確にしておかなくてはならない。
 「必要最小限」の軍備による「専守防衛」という枠組みがくつがえされようとしているのである。なんだか、ややこしい事例をたくさんあげて国民を混乱させようという作戦とみえるが、ことの是非を問う焦点のありかを見失ってはいけない。

※1経済的にはともかく、軍事的には依然としてアメリカは圧倒的な力を持ち続けているのではないだろうか。イラク戦争を目の当たりにして、アメリカと一戦交えようという気になる国があるだろうか。これに先立つ湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用した。戦争に勝つためにはアメリカは何でもやるぞということも世界に見せつけた。国内では強大な軍事産業が技術革新につとめている。
※2このあたりは「武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争の戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」などと苦しい答弁をしているが、最初から「武力行使を目的」としていなくとも、作戦行動をともにしている米軍が攻撃を受けたとき、その「米軍を守るため」に反撃することも「集団的自衛」ということになれば戦闘に参加していることには変わりがない。
※石破氏は「日本のために世界の人が血を流す、そのときに日本人だけ血を流さないでいいですか?」というような論法を繰り広げている。だが、やはりまやかしだ。日本人が日本を守るために「血を流す」のではなく、アメリカ(世界の人というのもまやかし)の作戦のために戦争できるようにする(人を殺し殺される)のが「集団的自衛」なのである。


 北海道大学から法政大学へ異動した山口二郎氏の「本音のコラム」(東京新聞)がますます冴えている。5/11は集団的自衛権の問題に関連して、人口が減り、社会が衰弱する中で安全保障をどう考えるかという野田聖子氏の問題提起を受け、「政治経済のエリートがいま、この瞬間の利益を追求するあまり、若い世代を牛馬同然の、食べて練るだけの低賃金労働力」として扱っていることこそ、人口減少の最大の原因であるとし、旧日本軍が「国民生活の疲弊が続けば、戦争遂行もままならないと気付き、貧困や格差にも取り組む広義国防を唱えた」のと比して、その「知恵」のなさを批判している。
 旧軍の「広義国防」がどう実現されたかの問題が残るが、「安全をおびやかすのは外敵ではなく、日本社会自体の内側に存在する」というのは大事な視点であると思った。だいたい、国内に矛盾をかかえると外に敵を作って国民の目をそらそうとするのが古今東西の為政者のやり方だから。(5月13日)

 人気漫画「美味しんぼ」が話題になっているらしい。東京電力福島第一原発を訪れた主人公らが原因不明の鼻血を出す場面が描かれ、風評被害を助長するとの批判が集まっているという。福島県は出版元の小学館への抗議文と県の見解を県のホームページに掲載したそうだ。
 一方、漫画にも登場する前双葉町長の井戸川克隆氏は「実際、鼻血が出る人の話を多く聞いている。私自身、毎日鼻血が出て、特に朝がひどい。発言の撤回はありえない」とし、この問題で不快感を示したという石原環境相について「なぜあの大臣が私の体についてうんぬんできるのか」と批判したそうだ。
 私はその漫画を読んでいないし、言及できることはないのだが、こうした問題がおこるたびに出る「風評被害」ということばが気にかかる。もちろん、福島の人びとにとっては切実な問題で、さまざまな努力を無に帰してしまうほどのことなのだろうが、その逆の「安心神話」と対置させてみると、いったいどちらが罪深いだろうかと考えてしまうのだ。
 東京都知事選に立候補した田母神氏がテレビ討論で、「(放射線の)日本の基準は厳しすぎる。福島原発事故では住民の避難すら必要でなかった」と言い放ったのには驚かされた。「風評被害」を批判する人も、何の根拠もなく「安心」といってもらえればそれでいいということではないだろう。
 病院でX線写真1枚とるのにでも、いかに放射線が厳重に管理されているかが知れる。とくに内部被曝による障害は晩発である。すぐに目に見える被害がないからといって、あるいは後になってからでは原因を特定しがたいからといって、「直ちに被害はない」とか「基準内」などと「安心神話」をふりまくのはそれこそ許しがたいことではないだろうか。(5月12日)

 連休中に訪欧中の安倍首相はロンドンのシティで講演し、「経済成長のためには安定的で安いエネルギー供給の実現が不可欠。原子力発電所を一つひとつ慎重な手順を踏んで稼働させることにした」と明言(テレ朝news)。
 フライイングは明らかなルール違反である。この人のフライイングは既成事実化するための確信犯である。誰が「稼働させることにした」ことを承認したのか。(5月2日)

 地球温暖化の影響で偏西風の蛇行の度合が強くなり、北極の冷気を呼び込むことになった。この冬の大雪の原因についてそんな解説があった。春となり、その心配からも解放されたかと思っていたら、偏西風がらみでまたひとつ憂いをかかえることになった。
 再稼働がとりざたされている川内原発(鹿児島)や伊方原発(愛媛)で事故が起こった場合、放射能はどのようなルートを通って拡散していくだろうか、という問題を斎藤美奈子氏が提起している(東京新聞「本音のコラム」)。それらの原発で事故が発生した場合、偏西風にのって日本列島をなめるように放射能雲が覆っていく可能性があるというのである。
 放射能の影響は距離が離れるにしたっがって薄れていくというが、放射性物質そのものが風に乗って移動してくる場合は話が違ってくる。福島原発事故では8割の放射能が太平洋に流失した。それでも現在も15万人が避難生活を余儀なくされている。偏西風によって日本列島が放射能につつまれたならもう避難先はない。
 太平洋に面している国は数知れない。偏西風は日本の上空だけを流れているのではない。原発再稼働の問題は鹿児島や愛媛や福井だけの問題ではないよ、ということなのだろうが、実は世界に責任を負わなければならない問題のはずなのである。(5月2日)
 ※久しぶりのつい一言となったが、憂いの種がなくなったためではもちろんない。このところ、若い人びとの雇用から正規採用の道がますます遠ざけられたり、残業代の支払いゼロが正当化されようとしたりしていることに、気持ちが塞いでしまっていたのだ。希望は若者たちにしかないではないか。