埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」

教え子をふたたび戦場に送らないために

今日のつい一言 2015.2

2015-02-02 00:41:47 | 意見交流
 自民党元副総裁の山崎拓氏が、「私が一番心配しているのは、日本の自衛隊が米国の『傭兵』になってしまうことだ」と述べたという(時事通信)。
 集団的自衛権の行使に関する「閣議決定」を具体化する安保法制が、いよいよその姿をあらわし始めた。自衛隊の海外派兵を①随時可能にする恒久法を設置するという。しかも、その素案では、②地理的制約を設けず、③支援対象国も限定しない。周辺事態法も「改正」し、④「周辺事態」という概念を廃止するという。
 個々バラバラにみていると、まるで判じ物のようであるが、付き合わせて考えると先の山崎氏の心配事が決して杞憂でないことが分かる。
 憲法9条によって「戦争放棄」を謳いながら、「自衛権」と両立できるとしてきたのは、日本から戦争を始めることはしない、ただ日本が攻め込まれた場合に応戦する(攻め込まれるのを事前に抑止する)ための最小限度の軍備を保持する、というのが、これまで漠然とではありながら国民の共通理解となってきたから、というところではないだろか?
 日米安保条約(=日米軍事同盟)にしても、日本一国で自国を守りきれるとは限らず、「極東」有事のときは日本の安全保障に重大な関わりがあることは確かだろうから、限定的な共同行動をとることはやむを得まい、というところだろう(それが日米安保条約の本質であったかどうかは別問題として)。
 しかし、「周辺事態」の制約を取り外してしまえば、そうした「専守防衛」の概念はいっきに崩れ去ってしまう。「国益」を損なう恐れがあるときは、「地理的制約」を設けず、世界中どこへでも自衛隊を派遣できるということになったら、もはや何の歯止めもないことになる。
  ※
 さて、「支援対象国」を限定せず、という箇所である。
 私には以前から気になっていたことがある。それは、石破茂氏が自民党の幹事長時代に発した次のような一言である。
 「アメリカの若者は日本のために血を流す覚悟をしている。他国の若者なら命を懸けてもいいが、日本は懸けない。本当にそれでいいのか。」
 石破氏はこうした脅迫めいた物言いをよくする人であるが、とりわけて突出しているとしか言いようがない。第一に、アメリカが自国の「国益」を度外視して「日本のために血を流す覚悟」をしているというのは、疑ってかからなければならない。そして、よくよく読んでみると「日本は懸けない」というが、何に対して日本人は命を懸けよ、といっているのかよく分からない。「集団的自衛権」の議論の中での発言だけに、よほど注意しなければならない。
 アメリカが戦争が好きで、戦争が始まると大統領に対する支持率が上がるというのは確からしいが、とくに近年は海外での戦争でアメリカの若者の命が失われることに対する批判が高まっていることもまた事実である。
 現在の対「イスラム国」への軍事攻撃でも空爆に限定しているし、地上軍については「軍事顧問」を派遣するとのみしている。最近よく耳にするのは殺人無人飛行機の使用であり、せいぜいが特殊部隊の投入である。
 アメリカは依然として世界秩序をつかさどる位置を占めようとしている。しかし、そのために「アメリカの若者」の血を極力流さず、それに代わって血を流すことを従属国(あるいは目下の同盟国)に求めようとしている、というのが本音なのではないだろうか?
 今のところ、安倍首相は自衛隊が「有志連合」の後方支援にあたることはしない、といっている。だが「支援対象国」を限定しないとする意図は、アメリカが直接参戦していなくても、そのアメリカが支援している国(有志連合国のような)と共同作戦がとれるようにするということではないのか? それでは、まさに日本の自衛隊はアメリカの「傭兵」となることになってしまう。
 これも「今のところ」だが、「非戦闘地区」とか「非軍事支援」とかいうことばがまだ隠れ蓑のように使われている。だが、最終的なねらいが憲法9条「改正」(来年、参議院選のあとに発議するといっている)にあることは公然のことだから、本心はもっと先にあることは明らかだ。
  ※
 昨日、普天間基地の移設先に隣接する名護市の米軍キャンプ・シュワブのゲート前で、辺野古移転に反対する沖縄平和運動センターの山城博治議長ら二人を米軍が拘束するという事件が起きた。身柄の引き渡しを受けた県警名護署は、「日米地位協定に伴う刑事特別法違反」の容疑で二人を逮捕したという。まるで米軍と県警の「連係プレー」である。(2月23日)

 安倍首相は施政方針演説で「農政改革」をかかげ、「農家の皆さん、そして地域農協の皆さんが主役」の改革がすすめるとした。
 わざわざ「地域農協」と限定していることに胡散臭さを感じていたが、ねらいは中央農協の解体であることがみえてきた。背景にTPPがあるのは容易に推察することができる。農作物の輸入自由化の障壁となると考えるばかりでなく、JAバンクも金融自由化をすすめる上で目の上のたんこぶであるらしい。
 農協はしばしば「悪者」として扱われることがある。日本の農業を平準化し、創意ある営農のさまたげになっている、というようなことがいわれる。しかし、農協としてとりまとめて出荷するからこそ安定供給が可能であるのであって、ある有名料理店と個々の農家との契約というようなケースでない限り、農協なくして国民の食生活を安定的に満たすような流通が可能であるかといえばそれは違うだろう。
 各種の啓発活動や営農指導、肥料や農耕機具の斡旋、福利・厚生事業など、農協の活動範囲は広く、基本的なところで日本の農業を支えてきたことは確かだ。もし農協改革が必要だとしても、それはあくまで自主・自立、民主化の方向でなされるべきであって、邪魔だから解体してしまえというのは筋が違う。
 まったく、この首相が用いる言葉は「農政改革」が「農業解体」に、「平和主義」が「戦争加担」に、「国際協力」が「武力行使」にすり替わってしまうのだから、いつも眉につばして聞く必要がある。(2月21日)

 国会が開会し、安倍首相による施政方針演説が行われた。いいたいことはたくさんあるが、3点にしぼって書いてみる。
 冒頭、「邦人殺害テロ事件」の犠牲者に対する「哀悼の誠」とご家族への「お悔やみ」が述べられた。国連では米大使が紛争を伝えることに人生をかけた後藤さんの功績を讃える演説をした(2/12)のに、日本では高村自民党副総裁が「使命感があったとしても、勇気ではなく、蛮勇と言わざるを得ない」と語る(2/4)など、政府のコントロール下にない個人の行動に対して冷淡すぎると感じていたので、やっと言ったかという感じではあるが、これは大切なことだった。
 「戦後以来の大改革」の最初に農政改革をかかげた。戦後、農業人口が1/8の200万人にまで減ったという現状をみるならば、このまま放置してよいとは思われない。巨大資本の食いものにされるのではなく、本当に「農家の皆さん、そして地域農協の皆さんが主役」の改革がすすめられるようにしっかり見届ける必要がある。
 TPPからみがあるので難しいが、「安全で、おいしい日本の農水産物を世界に展開」という方針も間違いではないと思う。工業製品の輸出のために農業が犠牲にされているという認識がある。食糧自給率の低下は深刻な問題だ。「世界には340兆円規模の食市場」が広がっているというなら、いっそ農業立国をめざすくらいの方針転換があっていい。そして、「安全で」とあるからには、最大の不安材料である原発からの撤退を実現させなければならない。
 「外交・安全保障の立て直し」では、本音の憲法9条「改正」については隠したままだったが、おもわず耳を疑う箇所があった。沖縄・普天間基地の返還について、「辺野古沖への移設」を進めるとしているが、「引き続き沖縄の方々の理解を得る努力を続けながら」と前置きしている。しかし、「普天間基地は県外へ・辺野古新基地建設反対」をかかげる翁長知事との面会を2度までも拒否している。「裏付けのない『言葉』ではなく実際の『行動』で」と安倍首相は宣わっているが、「沖縄の方々の理解を得る努力」の「裏付け」はどこにあるのだろうか?
 しめくくりに、「批判だけを繰り返していても、何も生まれません」と語気強く訴えている。「聞く耳持ちませんよ」とも受け取れるが、わざわざ演説に加えているのはやはり批判の高まりが気にかかっているのだろう。(2月14日)

 2/7「産経抄」への批判が止まらない。当然のことだ。今ここでうやむやにしてはならないことだ。(2月11日)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150210-00042948/


 前回の続きなのだが、「産経抄」があたかも日本も「イスラム国」への武力行使に参戦せよ、と主張しているのをみて、そのように中東に世界中の憎悪を集中させてよいのだろうか、と思ったのだ。
 伝えられているような「イスラム国」の残虐行為が真実ならば、放っておいてよいとは私も思わない。だが、「対テロ」とはいうが、中東が戦火につつまれるのに加担することになるのは確かだ。
 爆弾は本当にテロリストの頭上にのみ降り注がれるのだろうか? 国境付近の難民キャンプから男子高校生5000人が「聖戦に参加する」といってシリアに引き返した、といったことも報道されている。まさに「憎悪の連鎖」が繰り返されている。
 「産経抄」の主張は、けっきょく中東を「対岸」としてみていることから発しているのではないだろうか? それは戦火の中の子ども達や弱者を黙って見ていられないとした後藤さんの視点とはほど遠いものだ。(2月10日)

 もう「産経新聞」のことは話題にもしたくないのだが、やはり黙ってはいられない。2月7日の「産経抄」のことだ。
 日本人人質殺傷事件について、「仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話」であり、嘘か本当か知らないが「ヨルダンでは、「なぜ2人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっている」として、今すぐにも対「イスラム国」への武力行使=参戦をあおっているかのようなのだ。
 亡くなった後藤健二さんに対する多くの人々の共感に対しても、「憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説」と揶揄し、「処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか」と決めつける。
 そして最後は 「 護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない」と、日本国憲法に対する敵意をむき出しにするのである。

 日本のマスコミの中でも「産経新聞」の立ち位置が特異であることは周知のことだ。戦後の労働争議以降の歴史について資料を読んだこともある。だが、5大紙最下位とはいえ167.1万部(5大紙計では2412.9万部)の読者を持つ新聞社が、主戦論に走った戦前を彷彿とさせるような有り様でいいのだろうか? 「産経ならかくありなん」では済まされない。
 同じジャーナリズムを志した者への共感のかけらもないことは「処刑」などという無神経なことば遣いでも明らかだし、「仇」をとってやりたいなどという気持ちがそれこそ「薄っぺら」でしかないことを自ら告白しているのようなものだ。(2月10日) 

ついに改憲を日程にあげてきた。国民世論をどう読みとったのかは分からないが、国民の側も本気にならなければならない。もう「経済優先」に欺されてはいられない。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015020502000135.html
(2月5日)


 「フランケンシュタイン」は怪物を作り出してしまった学者の名前である。怪物には名前がないが、メアリー・シェリーの原作では体力・知力ともにすぐれ、雄弁である。ただ、容貌が醜悪であったために、創造主からも嫌われる。絶望した怪物はフランケンシュタインに復讐しようとし、フランケンシュタインは怪物を滅ぼそうとする。最後の舞台は北極である。
 「イスラム国」は直接的にはイラク戦争(歴史を遡れば欧米による中東支配)が作り出したモンスターである。モンスターは欧米に復讐をくわだて、英米を中心とする「有志連合」はモンスターを滅ぼそうとしている。
 アメリカにとって「正義」とは「戦争」のことだということがよくわかる。孟子にも「義を見てせざるは勇なきなり」ということばがある。だが、「戦争=正義」というほど、問題は単純だろうか?
 生まれてしまったモンスターを放置してよいとはいわない。だが、これだけ急速に勢力を拡大し、維持し続けているということは、人的にも資金的にもこれを支持して(あるいは利用しようとして)援助しているパイプがあるに違いない。それらの構造全体を変えていこうとしなければ真の解決はないだろう。
 安倍首相は「罪を償わせるために国際社会と連帯する」とか、「これから日本人に指一本触れさせない」とか息巻いている。(ずいぶん熱くなっているな、と思っていたら「国民の生命を守るために9条を改正する」と改憲の口実にすることだけは忘れていない。)
 せめて国民は冷静でありたい。憎悪の連鎖だけが増強されて、最後の舞台は日本だったなどということはあって欲しくない。(原発テロを防ぐためにも、直ちに原発から撤退し、廃炉を急ぐべきだと本気で考えている。)(2月4日)

 後藤さんの母、石堂順子さん(78)は1日午前6時ごろ、報道陣に対し「今は気が動転していて、言葉を選べる状態ではありません。息子の最期は同じ日本人を助けるためシリアに行ったのだから、息子の優しさと勇気を分かってほしい」と述べたという。(毎日新聞ニュース)
 一方、安倍首相は1日、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるため国際社会と連携していく」と記者団に語ったという。(朝日新聞デジタル)
 私は「日本がテロに屈することは決してない」という態度を保つことは間違っていないと思うし、「中東への食糧、医療などの人道支援をさらに拡充する」ことも否定はしない。
 だが、「罪を償わせる」という言い回しは、米オバマ大統領の「当然の報いが下されると思い知るだろう」とか、英キャメロン首相の「犯人を捕らえて裁きを受けさせる」と同様の全面対決の構えのようにとれる。
 実際、菅義偉官房長官は「イスラム国」を空爆する米国主導の有志連合への自衛隊の後方支援は「ありません」と否定したというが、安保法制に関わる自民党関係者は「今回ヨルダンや様々な国に協力をお願いした以上、日本は何もしないというわけにはいかない」と語り、自衛隊による支援が必要との考えを明らかにしているともいう。
 全面的に対決するということになるなら、日本および日本人がテロの標的になることを覚悟することでもある。
 後藤さんについては、何度か報道番組でレポートする姿を見ただけだが、その非業の死を「優しさと勇気」とともに記憶したいと思う。
 少なくとも、これを機会に日本をいっきに軍事国家に持って行くようなことを願ってはいなかったと思うからだ。(2月2日)
 ※
 ネットをみると「自己責任論」から「誘拐保険金」まで飛び出して、後藤さんや母親に対するバッシングの激しさに暗い気持ちになる。「日本を守る」というなら「守るに値する国および国民」であるように努めるべきだ。