菅井氏の講演により「総合」と「全体」の違いにインスパイアされました。これについて自分なりの考えを述べてみたいと思います。
実は、終了後の懇親会で「直感では間違える」という意見が聞こえてきたのです。
これについてどう考えるか?もし、自然の管理や保全を議論しているのであれば、これは正しいと思います。しかし、自然破壊が及ぼす影響は生物学的な課題ばかりでなく、人間の生き方や心への影響も大きな課題であるとの認識があってしかるべきでしょう。特に自然科学的な分析的な知のあり方への批判が人文科学者から提起されているというのは、そうした人間の問題が重要な課題だからといえます。
分析的な知ではなく、感覚を通じて自然を全体的に捉えるということ、それがなぜ大事なのか?
こんな話があります。「ある自然好きな人が植物学者と夜間一緒に歩いていた。すると前におぼろげに大きな木が見えてきた。植物学者はもちろん葉やそのつき方などから植物名を答えることができたが、おぼろげなシルエットでは答えられなかった。ある人は、今まで見てきたイメージから直感的にその木の名前を答えることができた。」
こんな経験があります。「調査のために山に入った、地図上に予定コースを引き、そのコースを歩いたが、藪に邪魔されてまっすぐ歩けなかった。途中で地図を開き、意見交換をした。地図やGPSを頼りに歩いていたメンバーは地図上のこの地点ではないかと言っているが、私はなんとなく左にそれているような感覚を受けていた。事後調べなおすとそのとおりであった。」
また、カヌーをうまく流れにのせたときの感覚や、魚を釣るときに、感覚的に狙ったところでヒットしたときの感覚、これらは分析的知では味わえない喜びを感じさせてくれるものと思います。
スポーツの世界では格闘技が人気です。野球選手の中にも格闘技ファンが少なからずいます。野球というのは分析的な読みとともに投手とバッターの格闘という要素がありますが、格闘技というものが、野生むき出しの感情のぶつかり合いではなく、分析的な論理の積み重ねではできない、人間の身体知とでもいうべき能力を最高度発揮する場だからではないかと思います。
事例をうまくひけず、わかってもらえたかどうかわかりませんが、自然観察に話を戻すと、自然観察のときにこれはアラカシだ、これはオオカマキリだとメモに名前を連ねていきますが、自然の中を一日歩いた喜びというのはそうした集積から得られたものではないことは誰しも経験的に知っているものと思います。自然にふれる醍醐味というのはこうした身体全体で自然を把握し、通じたという感覚を味わうものではないかと思います。
おそらく近代以前の人々は自然に対し、意識的分析的に対応するのみならず身体全体を使った身体知とでもいうべきものも動員して向き合い、それにより生活を成り立たせるだけでなく、ヒトとして健全なありようを持ち続けていたのではないかと思います。自然体験が目指すもののひとつはこうした身体知をとりもどす活動ではないかと考えています。