海と緑とこどもたち HONDA ECOACT

地域にこどもたちと自然とのふれあいの場をつくろう!

こどもたちの身近に自然とのふれあいの場を!5

2021-04-28 10:33:18 | こども観察会

こども観察会のまとめ

 浜寺公園における自然観察会の組み立てについては、ここでひとくぎりにして、少し自分の考えをまとめたいと思います。

①こどもたちの自由で自発的な学びを大事にしたい。

②そのために、こどもたちが自分で行ける地域の中に自然の学びの場をつくる。

③浜寺公園における観察会はあまり凝らずに、しろうとの自分たちのできることをやる。

④こどもたちの探求心に寄り添う観察会をしたい。

まあ、こんな感じかな。

それで、ふと気が付いたのですが、前々回こういう表現をしていました。

「自分としては名前を教えたり、知識を提供するのはあくまでも導入と思っています。時間があれば、そしてこどもたちが継続して参加することができれば、こどもたちの探求心を育てて、こどもたちが思うこと考えることに寄り添いながら、その行動を支援する、そういう観察会がやりたいと思っています。」

 ここの「行動を支援する。」って言い回し、「こどもたちの探求心を育てる。」「学習意欲を高める。」じゃなくて、「行動を支援する。」ということ。①の言い直しになりますが、それがもともとの自分の思いなんだと改めて思いました。

 で、それじゃそれをどういう方法でやるのってことです。もちろんしかけがいります。だれかそういうこと教えてくれる人いるのか?自分の蓄積を振り返るのか?子どもたちとの対話ができるかどうかがポイントか。ここむつかしすぎるな。自問自答。


こどもたちの身近に自然とのふれあいの場を!4

2021-04-19 10:45:52 | こども観察会

浜寺公園でのこども観察会の組み立て その3

 今、浜寺公園自然の会だけでなくさまざまなボランティア団体で問題になっていることがあります。それはメンバーの高齢化という問題です。なぜ、若い人が入ってこないか。

 自前で人材を増やして活動を継続してゆく、特に若手を養成してゆくことは中核になる必要な柱ですが、それがうまくいかない。

 基本的に年長者がいると、若い人は入りにくい、年長者に遠慮して積極的な発言や提案がしにくい。一方長く同じ仲間で苦労してくると、どうしても「閉じた組織」になってしまいがちです。自分たちのしてきたこと、自分たちの方法論、自分たちの事績のどこにも間違いはない。そう考え、新しい人の意見が受け入れがたくなる。若い人に任せるのがむつかしいと思ってしまう。

 こうした問題を解決する基本は、「公共性を意識すること」じゃないかと思っています。自分の主張ではなく、客観的に「この活動は社会に必要」と認めてもらえるにはどうすればよいか?活動を考えるにあたってそれを基本にしたいと思っています。学校の環境学習利用などもそうした視点での活動です。

 ドグマを脱し、多様な人が多様なままに活動できるスタイル、それを日々求めて、たとえばビジネスの世界での変革などにも興味をもっています。


こどもたちの身近に自然とのふれあいの場を!3

2021-04-15 10:52:32 | こども観察会

浜寺公園でのこども観察会の組み立て その2

 浜寺公園でどういう自然観察会を開くべきか?

 実は、当初は浜寺公園自然の会の活動は「こどもたちの自然とのふれあいの場をつくること」と考えていました。バッタの原っぱを設定して、あとは公園利用者が自由に使ってもらえればいいと考えていましたが、いきなりそれは無理だろうと考えなおし、プロモーションの意味で自然観察会を開催することにしました。それが、最初の考え方でした。おかげさまでいまは個人、学校含めいろいろな団体個人に利用いただいています。

 しかし、観察会もやっているうちにバッタの原っぱ以外の自然や生き物も紹介したい、たとえば浜寺はもともと海水浴場で有名だったわけだから海の生き物も扱いたいと幅を広げ、自然観察会活動も会のひとつの柱になっていきました。

 今やっているこども・親子対象観察会のうち、室内の行事をのぞいて定番になっているのは

「春のバッタの原っぱ観察会」、「大阪湾生き物一斉調査 (海の生き物観察)」、「ナイトサファリ(コウモリ、セミの羽化、ライトトラップ 夜の観察会)」、「バッタまつり」  です。

 こうした観察会を実施する手法について、あまり凝った手法は使っていません。シンプルないわば生物関係の団体がやる観察会のイメージで(この説明で説明できているかな。)。必要に応じてクイズの手法などを加えますが、基本的には虫を捕まえて名前を説明するという感じです。以前、セミプロ的な手法をもっている指導者を招いて行事をやったことがありますが、終わった後スタッフの会議で出たのが「らしくないな。」という声、「地域のおじさんおばさんがやる観察会らしくないな」ということで、次の回から依頼するのはやめました。

 しかし、実は自分としては名前を教えたり、知識を提供するのはあくまでも導入と思っています。時間があれば、そしてこどもたちが継続して参加することができれば、こどもたちの探求心を育てて、こどもたちが思うこと考えることに寄り添いながら、その行動を支援する、そういう観察会がやりたいと思っています。

 しかし、ふたたび、しかしですが、「それが、浜寺公園自然の会のあるいは浜寺公園でやるべき観察会の姿」とも考えていないのです。最初にわれわれの活動の基本は「こどもたちと自然とのふれあいの場」」をつくることと考えているというお話をしました。できれば、いろいろな考え方の方がバッタの原っぱや浜寺公園でわれわれが開拓した資源を使って観察会を開催していただければいいなと思っています。

 なんだかまとまっていませんね。今回はここまでします。


こどもたちの身近に自然とのふれあいの場を!2

2021-04-12 11:00:49 | こども観察会

浜寺公園でのこども観察会の組み立て

 前回のブログで「大きな自然」や地域から離れた場所で行われている自然教室などについて、つながる構想についてふれたかったけど、それはまた後にします。

 で、今回は私のベースである浜寺公園での自然観察会の成り立ちについてふりかえりをしたいと思います。

 以前私は大阪の自然保護法人の事務局にいて、観察会の企画にもかかわっていたのだけど、その当時、地域での観察会の開催場所として、都市公園での観察会を各所で開催しようと呼びかけていました。公園よりも自然豊かな場所でやりたいという人もいたけど、こどもたちの身近に自然観察の場をつくるという目標と、「その団体のフォロワー」を増やすという戦略で主張しました。

 そうした活動の成果か?1998年ごろに大阪府からその法人に「生き物とふれあえる都市公園計画」の策定調査への依頼がありました。そのころ私は事務局を離れていたけど、今までのかかわりからその計画づくりに関わることができました。2000年に計画は完成し、都市公園におけるこどもたちと自然とのふれあい、そして、都市公園における自然フィールドの存在が大阪府の計画の中に位置づけられたわけです。

 計画策定が終わってみて、ふと自分自身が地域の自然や自然学習に関わった経験がないことに思い当たりました。それまでは他の人を手伝う仕事ばかりだったわけです。そこで自分の地元である浜寺公園で、「こどもたちと生き物とのふれあいの場」を実現できるか考えてみました。

 浜寺公園の基本は大久保利通の一声で残されたといわれる高師浜の松林であり、上木のクロマツと林床の低く刈られた草地という比較的シンプルな環境で、最近はバーベキューの影響か草刈り頻度が高く、あまり生物が多いとはいえませんでした。しかし、一部あまり草刈り頻度が高くない場所にバッタがすんでいることがわかり、ここをこどもたちと生き物とのふれあいの場にできるのではないかと思い、公園に話をしました。当時「生き物とふれあえる都市公園計画」の担当だった人が浜寺公園におられたこともあり、2003年から浜寺公園自然の会の活動をはじめることになりました。

 なんだか懐かし話してるみたいな感じですが、どういう考え方の積み重ねと外的条件で今にいたっているかのまとめです。

・・・・・本日はここまで。(写真は浜寺公園自然の会の最初の活動、バッタの原っぱの看板つけ)


こどもたちの身近に自然とのふれあいの場を!1

2021-04-11 11:12:38 | こども観察会

 前回投稿して、毎日書こうと思っていたのだけど、時間が空いてしまった。その間用事があったこともたしかだけど、一番の理由は「自分の考えをうまく説明できるかどうか不安がある。」ということ。

「いい歳して、何を」と言いたくなる理由だけど、一生つきまとうなやみだと思っている。しかし、今回ブログを思考のツールとして使ってみようと思った理由は、まあ、うまく書けなければまた書き直せばいいさという開き直りをしてみようということなので、とにかく書いてみよう。

 こども向けの観察会を開催するにあたって、考えていたことのひとつが、地域にこどもたちが自然観察や自然遊びをすることができる場をつくる ということだった。

 なんでそう考えたかということだけど、もともと自分が在籍していた大阪自然環境保全協会は、「都市と自然の共存」というテーマを掲げていて、生活の場に自然を残す、取り戻すということを考えていた団体だった。そこが原生自然の保護をテーマにしていた自然保護団体とは違うところだけど、当時盛んに言われていた言葉でいうと「環境権」の実現ということだったのかもしれない。

 具体的に都市のこどもたちのそばから自然がどんどん失われていっているのは誰の目にも明らかだったから、それをなんとかしなきゃということはだれしも思うところだったろう。では、自然の残されているところにつれていきゃいいじゃないかというとそこで問題がある。

 どういう問題かというと、「こどもが自発的に行ける場所ではない。」ということ。

 身近ではない場所であれば、親かなんらかのグループが連れて行ってやらないといけない。すると、頻度が少なくなるし、こどもが行きたい・これをしたいと思ったときに行けるという自由がないってことになる。それと調べてみると基本的に小学生は小学校区から出てはいけないということになっているとのことだった。

 こどもたちを自然のすぐれた場所に連れて行っていろんな体験をさせるということを否定しているわけではないけど、自分の経験を振り返ってみると、家の近くの田んぼで水路のメダカを採ったり、草むらのコオロギを採ったりする経験があったのだけど、親に連れて行ってもらうよりも自分で思い立ったときに自由にでかけていた。自由にでかけ、自分であれこれ考えて自然を探求するそれがベースじゃないかと思ったのだ。

 都市の中に自然との触れ合いの場をつくるというと「身近な自然で満足されて大自然の保護がそっちのけになると困る。」って批判を受けたことがあるけど、「ほんとこの人、人の考えをまともにきかないひどい人」と思ったけど、実際そういう心配はないと思う。むしろ、身近な自然で培ったベースがあったからこそ、大自然にふれたときに、そのすばらしさにすっと入っていける。身近な自然はわりとシンプルな生態系だけど、しくみや目のつけどころは教えてくれる。だからいいんだと思う。

 それと最初にふれたけど、「こどもたちが自発的に行ける」ことが大事だと思っている。そういう学びの場って意外とないんちゃうかな。

 きょうはとりあえずここまでにしとこ。まとまってないけど、見直してまた、書き改めていきます。