前回に続いて京都ふち歩きの続きですが、簡単な地図で歩いたコースを紹介します。ほんとざくっとした地図ですので、曲がり角なんかはアバウトです。さて、今回は鷹ケ峰~鴨川が京都盆地に出る扇の要の位置にある柊野堰堤を経由して上賀茂神社までです。
さて、2月15日に現地に行ったのですが、この日はなんと京都マラソンの日。バスが混雑で動けないだろうということで、北大路から乗ったバスは千本北大路で降りて、あとはひたすら歩く。すると、途中ではじめにのる予定だったバスに追い抜かれました。なんのこっちゃ。奥の道路案内看板の左方向が鷹ヶ峰。左の建物は佛教大です。
鷹ヶ峰の目的地土天井町バス停には結局15分ぐらいで付きました。途中の家が道路に対して少し斜めに立っているのはなぜ?
有名な御土居につきました。次の写真が説明図ですが、戦乱で荒廃した京都の復興のために秀吉が作ったものだそうで、ここは東西方向の御土居です。もう少し先で南に向きを変えます。その先は紙屋川です。説明には鴨川の水害を避ける目的があったと説明されていますが、紙屋川に対する備えでもあったのではないかと思います。この写真の右手側(北側)は洛外ということになります。
鷹ヶ峰の街道を北へ進むとT字路にあたります。そこを左へ行くと光悦寺があります。光悦寺の土地は家康からもらったとのことで、このあたりは江戸時代になって開けた場所ということでしょうか。
光悦寺の庭園は多数の茶室と本阿弥一族のお墓があります。庭園といっても茶室の間の通路の植込みを見て歩く感じです。なお、茶室は入れません。ただ、西の端からは鷹ヶ峰三山と京都市街が望めます。これがこの庭園の一番の見どころでしょう。この写真の左の山が鷹ヶ峰、右の途中まで見えている山が鷲ヶ峰とのことです。次の写真に山名の説明があります。あいにくこの日は雨がちの天候で煙ってしまってよく見えませんが、きれいなマツ山みたいです。
光悦寺の前をさらに進むとホテルがありました。ここの左を進むと道は山に入っていくので引き返しました、そこでホテルの右へ進みました。
そこには北山杉の圃場がありました。低いところで伐って萌芽させたということですね。仁和寺のサクラといい、京都には萌芽の文化があるのでしょうか。
さらに進むと道は山に入っていきました。このあたりの地層は堆積岩みたいですね。このあと道はさらに山に入っていくので引き返すことにしました。
けっきょく光悦寺の前を戻り、T字路の反対側に出て、鷹ヶ峰から降りました。このあたりは西賀茂といいます。
そこで北方向に歩いていきました。東海自然歩道が通っています。
途中山麓には寺院がたくさんあります。ただ、背後の山は鷹ヶ峰のように急傾斜で山麓におりている山でなく、山の下には比較的なだらかな丘陵が広がっています。
そうした緩傾斜面を利用してゴルフ場や墓地が作られています。
ゴルフ場や寺院の写真が続きましたので、ずいぶん市街地を離れたところみたいですが、そのすぐ下は住宅地です。昭和に開かれた地域でしょうか?下の写真は住宅地の中の公園です。クスノキ、ケヤキが大きい。
鴨川が近くなってきましたので、川沿いに降りることにしました。住宅地から下には畑が見られますが、その間を勢いのよい水路が流れています。かなりの水量ですから、鴨川からの取水でしょう。
鴨川に出ました。
鴨川が京都盆地に出る扇の要の位置にある柊野堰堤です。柊野は川の東側。後ろの山は鷹ヶ峰と違ってマツが少なく、雑木率が多いように見えます。枯れたマツの白い幹も散見されます。
鷹ヶ峰や嵯峨野広沢池の背後の山を見たときずいぶんきれいなマツ山と思いました。そうした場所は観光地ですから、景観整備のためマツ林の手入れがしっかりされているのではないか、こちらは観光地ではないので現在普通に見られる近郊林の姿なのではないかと想像しました。
さて、柊野堰堤ですが、やはり大きな農業用水取水口がありました。魚道もついています、同じ構造は反対側にも作られています。
柊野の背後の山の姿です。西賀茂地区と同じく山麓部はなだらかな丘陵地で、田畑が広がっています。
上の写真の続きです。
柊野を潤す水路。さきほどの柊野堰堤から流れているものでしょう。嵐山から来る途中で嵯峨野、宇多野、柊野・・と野の付く土地を通ってきました。宇多野をのぞき灌漑水路が整備されています。思うにこうした土地は古くは原野もしくは放牧地などであったものが、近世近代に入り、水利が充実することによって田畑として利用されるようになったのではないでしょうか。水利の歴史を紐解けばそのあたりの経過はわかると思いますが、ま、ここは想像まで。
柊野の先には山が半島のように突き出ています。山腹の建物は京都産業大。この右側に上賀茂神社があります。上賀茂神社の横のバス停の名称は柊野別れ。そこで柊野は終わるのでしょう。
上賀茂神社に近付きますと、水量豊富な水路が見えました。このまま行くと上賀茂神社の境内の流れに続くもののようです。これも柊野堰堤から来ているのでしょうか?
上賀茂神社に来るとここでもやはりナラ枯れが。木はシイノキのようです。
上賀茂神社境内の小川。この先は上賀茂神社の神体山である背後の山につながっているようです。ただ、、水量がけっこうあるのでほかにも合流している川があるのかもしれません。
右側から来ている川が上の写真の川。前方から合流している川はさきに紹介した街中を流れている水路です。ここで合流して有名な社家の町に続きます。鴨川からの水路は比較的新しいもののはずですから、上賀茂神社の創建時代とは景観が異なっているのではないかと思います。あるいは鴨川からの流れを加えることで元の景観をより力強く演出したのかもしれません。
上賀茂神社の鳥居です。背後の神体山が少し見えますが、常緑広葉樹林が主体の山ではないかと思います。思うに、社寺や庭園の背景・借景の山の姿は創建当時の景観を反映しているという仮説はいかがでしょうか?そういう見方で景観を見ていきたいと思います。さて、上賀茂神社前からはたくさんバスが出ています。これに乗って帰ります。きょうはここまで。
京都のふちつまり盆地のすみ、山にかかる手前のあたりを時計回りに歩いてぐるっと回ることにしました。最初は嵐山から歩き始めて仁和寺まで行ったのですが、写真をあまり撮らなかったので、いずれ紹介することにして、今回はその続き仁和寺~鷹ヶ峰を歩いたコースをふりかえります。といってもあれやこれやを脈絡なく見ていく道程なのでなにかすごい結論が出るとか期待しないでください。(歩いた日2015年2月7日)
出発は嵐電の御室仁和寺駅から。駅からみた仁和寺山門です。
仁和寺山門を入ったところ。緩やかな上りになっています。
有名な御室のサクラです。その正体は・・・。
サクラの根元で切って萌芽させて作った樹形ということですね。
境内の松林は伝統的というか由緒正しい松林の姿。恵瓊さんの絵に出てくる松林の感じですね。
スギ花粉は準備万端。真っ赤です。
奥のお堂は桧皮葺きですが、手前の建物は萱葺きじゃないかな。
仁和寺のハクセキレイ。
仁和寺御室会館のカフェ。土産物屋もありますし、宿坊もあります。
仁和寺~金閣寺までの道はきぬかけの路と名付けられているそうです。
上の看板の下あたりの法面にオオイヌノフグリが咲いていました。
龍安寺に至る途中のマンションに設置されている携帯電話の電波塔(っていうんだっけ)。色を壁と同じにして環境配慮?
道沿いの灌木。ハゼノキと思われます。
龍安寺のサザンカに来たメジロ。このほか道中で見た主な鳥はシジュウカラ、エナガ、コゲラ、ヒヨドリ、イカルなど。
ところで、龍安寺門前は土産物屋や飲食店が少ない。お寺の道路側は植栽やへいが続き、静かな印象。この中はすぐお寺かと思っていたら、一筋お寺側に入ったところに土産物・飲食の店が並んでいる小ストリートがありました。これも景観配慮か。
造園屋さんの資材置き場に立ち並ぶ灯篭群。
道路沿いに多いアベマキの若木。林内に入ると暗くてこうした若木は見当たらない。攪乱の多い林縁こそこうした雑木のふるさとかな。そういえばマント群落という用語。知ってから数十年、これぞマント群落というものを見たことがない。
立命館大の近くで見られるきれいな互層。金閣寺の駐車場のあたりは小石の混じった新しい地層だった。
堂本印象美術館。
美術館の横から脇道に入る。
このあたりアラカシのうどんこ病が多いみたい。株によって症状が出ているもの(白い)と出ていないものがあって、まだら模様。(垣根なので株がまじりあっているが、症状の有無でどこまでがひとつの株かあるていどわかる。)
金閣寺の道沿いから見える切り株。何の木だったんだろう?
同じく金閣寺で先端が切られたマツ。史跡の緑も世代交代の時期か?
同じく金閣寺の道沿い。ここも木が枯れたようだ。景観に配慮した植栽準備中とある。何を植えるんだろう。ウバメガシの若木はありましたが。
上のつづき、昆虫が多いのだろうか?
その続きのあたりの地層。新しい地層みたいです。
鏡石通沿い、「しょうざん」の近く。道路際の水路の中にカワニナがいる。
しょうざん入口の反対側あたり。人の手がかかっているんだと思うけど、いい感じの小川が流れています。〇〇〇出るかな。
その先、道沿いのケヤキ、左側は川。みんな川側に傾いている。よく見ると道路側は伐ってある。
住宅地の中に突然北山杉。私はこの美学はよくわかりません。
北山杉のある地域の東側が鷹が峰。途中がお土居のある地域らしい。
鷹ケ峰につくと、煙ですすけた建物が。有名な醤油屋さんでした、醤油さんの前の土天井バス停で本日は終了。北大路に出て帰りました。北大路のビブレにビゴの店(パン屋)があったのにびっくり。神戸の店とは少し置いてあるものが違っていました。