礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

乃木将軍は米一粒を落としても拾って食べた

2014-05-26 04:47:32 | 日記

◎乃木将軍は米一粒を落としても拾って食べた

 昨日の続きである。清水文弥『郷土史話』(邦光堂、一九二七)の「民俗」の「三、村の遊戯と娯楽」の中の「二、寺小屋教育の話」を紹介している。本日は、その二回目。
 明らかな誤植は、訂正しておいた。「櫃」には、「しつ」というルビが振られていた。火鉢を「しばち」という類いである。そのままでもよかったのだが、一応、訂正しておいた。附木(付木)は、スギやヒノキの薄片の一端に硫黄を塗りつけたもののことである(広辞苑)。

 吾々時代の寺小屋教育を受けた者には、御飯を粗末に喰べるものもなければ、一粒なりとも無駄にするものは無い。
 乃木〔稀典〕将軍と私が地方をあるいて或る宿屋に泊まつた時の話である。二人が夕食を済ますと、其の膳部〔食膳〕はやがて階下に下げられた。すると勝手で二階のお客様は、食器をなめられたといふ声がする。これを耳にせられて乃木将軍は、幼少の時、寺小屋の師匠と自分の親から米一粒でもこぼしてはならぬ、汁なども綺麗に喰べるやうに仕込まれたものだといはれた。
 将軍は例へ一粒の御飯がこぼれても必らずそれを拾つて喰べられた。そして一粒でも、粒々〈リュウリュウ〉皆辛苦の余〈アマリ〉に出来たものであると云はれた。
 こうして御飯の喰べ方は、実に寺小屋教育の第一条項であつたのである。
 今日七十以上のお婆さんで、女学校卒業の孫嫁などに御飯のお櫃〈オヒツ〉を洗はせぬ人がある。そんな人は正しく、昔の寺小屋教育を受けた人に相違ない。
 寺小屋には夜学もあつた。厳寒の時など寒さを忍んで通つても師匠はなかなか直接には教へてくれぬ。大抵の場合門下生の出来る者が師匠の代理をつとめたものであつた。
 恁うして〈コウシテ〉師匠は直接学問については教へなかつたが、隅々〈タマタマ〉生徒が帰ろうとして、土間で下駄などをさがしてゐると英時師匠は立ち上がつて、附木〈ツケギ〉をとぼしてそれを見付けてやる。そして、師匠は総て〈スベテ〉の生徒を顧へりみて、この一事を記憶して居れと云ふ、其附木を吹き消し又元の所に其燃え残りををさめる〔収める〕。この一事といふのは一本の附木でも倹約して大事に使用せよと云ふ事である。【以下、次回】

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寺子屋では師匠の言行を見習う

2014-05-25 04:10:07 | 日記

◎寺子屋では師匠の言行を見習う

 昨日の続きである。清水文弥『郷土史話』(邦光堂、一九二七)の「民俗」の「三、村の遊戯と娯楽」の中の「二、寺小屋教育の話」を紹介する。「寺小屋」は原文のまま。
 この文章を読んで、寺子屋のイメージが変わった。もちろん、すべての寺子屋がそうだったとは言えないだろうが、少なくとも、清水文弥が通った「寺小屋」は、いわゆる「読み書き算盤」を教えるところというよりは、礼儀作法を教えるところだったようだ。

 二、寺小屋教育の話
 昔の寺小屋は男女共学であつたが、女は特志の者の外〈ホカ〉殆んど学ぶものがなかつた而して、男女何れも九歳にして初めて寺小屋に通ふたのである。
初めて子供を寺小屋に入るゝに当りては、先づ酒一升、こわめし二重〈フタカサネ〉、煮〆一重〈ヒトカサネ〉を、生徒の方から師匠に贈るのが慣習であつた。今日で云ふならば、これが束修〈ソクシュウ〉といふ訳である。
 さて入門に際しては、師匠から酒盃〈サカヅキ〉をいたゞいて子弟の関係を結んだものであるが、一度子弟の縁を結んだ上は、たとへ教はつても、互に生きてゐる間は師匠様であり、其縁は切つても切れなかつたものとされてゐた。
 昔の寺小屋は主として手習ひを教へられたもので、それ故門弟の事を一名筆子〈フデコ〉ともいふた。筆子が入門に際し師匠の家に持参する道具は、机、文庫などで、授業時間は別に定まつてゐなかつた。筆子に対しては学問を教へるといふ事よりも寧ろ師匠の日常の言行〈ゲンコウ〉を見習はせるといふ事が其教育法の一つであつたのである。
 先づいろは四十八字から片仮名四十八字を教はり、其間間〈アイダアイダ〉には御飯を粗末にするな。御飯をこぼしてそれを踏むと眼が潰れる。御飯を喰べ過ぎると健康をそこねるといふやうに、極く卑近な所から教へて行つたものである。
 この御飯を粗末にするなといふ事は、寺小屋教育の大本〈タイホン〉であつて、九歳にして始めて通ふ時から青年時代に至るまで、繰り返へし繰り返へし教へられるゝ重要な条項であつた。そして常識の涵養を旨とし、空論をさけしむることが、其教育方針の主眼であつた。であるから本を読み字を習ふといふ事よりも、きこり、木の子(椎茸とり)、魚〈サカナ〉取り、庭の草取り等〈ナド〉が仕事の大部分であつたのである。
 十日位の間に一字も教はらぬ事もあり、一ケ月の間に二日位教はる事もある。そして常に師匠の行ひを見て居ればよかつたのである。【以下は、次回】

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那須郷石林の盆踊り唄

2014-05-24 05:07:22 | 日記

◎那須郷石林の盆踊り唄

 清水文弥『郷土史話』(邦光堂、一九二七)の「民俗」の「三、村の遊戯と娯楽」の中の「三、盆踊」を紹介している。昨日、紹介したのは、その前半で、本日は、その後半。後半は、盆踊りの唄が紹介されている。
 那須郷石林の乃木将軍の農場でも、お盆には、近隣の若い男女が、この唄にあわせて踊っていたのであろう。那須郷石林は、現在の那須塩原市石林。

ハーハ月はいみじき闇こそよけれ、忍ぶ姿の顔見えず。アーコラコラ
ハーハ思ひ出せとは忘るゝからよ、思ひ出さずに忘れずに。アーコラコラ
ハーハ丹後田どころよい米どころ、娘にやりたや婿欲しや。アーコラコラ
ハーハ親は子と云ふてたづねもするが、親をたづぬる子はまれな。アーコラコラ
ハーハ野にも山にも子なきは置きやれ、万の蔵より子は宝。アーコラコラ
ハーハ唄へ十七声はり上げて、胸の蓮華の開くように。アーコラコラ
ハーハわかい女の願かけるのは、神や仏もおかしかろ。アーコラコラ
ハーハおどり見たさにくね〔垣〕からのぞく、くねの小笹で目をついた。アーコラコラ
ハーハ今年しや豊年万々作よ、俵かますやみ〔叺や箕〕ではかる。アーコラコラ
ハーハ泥の中から育てたからだ、清き実をもつ稲の花。アーコラコラ
ハーハ上を思えばかぎりがないぞ、下見て咲いたか百合の花。アーコラコラ
ハーハ梅にやほれぬが桜にや惚れる、梅にや「ホケキヨ」のまぶ〔間夫〕がある。アーコラコラ
ハーハばらもぼたんも枯れゝばをなじ、花でありやこそわけへだつ。アーコラコラ
ハーハ盆のびたもちや中まで米よ、つねのぼたもちや中は麦。アーコラコラ
ハーハ霜にさらされ風にはもまれ、ついに錦を着る紅葉〈モミジ〉。アーコラコラ
ハーハそうて苦労は世間のならひ、そはぬ先から苦労する。アーコラコラ
ハーハそろたそろたよ踊子がそろた、秋の出穂〈デホ〉よりよくそろた。アコラコラ
ハーハ沖のかもめに潮時とへば、わたしや立つ鳥波にとへ。アーコラコラ
ハーハ、盆に牡丹餅〈ボタモチ〉、おひるにうどん、晩に米のめし、かぼちや汁。アーコラコラ
ハーハひよ鳥越さえせめ様で落つる、そうてそわれぬことはない。アーコラコラ
ハーハ道の半町〈ハンチョウ〉も行かないうちに、こうも会ひたくなるものか。アーコラコラ
ハーハ盆に牡丹餅彼岸にだんご、五月節句にかしわ餅。アーコラコラ
ハーハゐなかで育つた私の頭、思ひつき様もありません。アーコラコラ

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乃木将軍と盆踊り

2014-05-23 16:50:47 | 日記

◎乃木将軍と盆踊り

 先日、某古書店の百円均一の平台で、清水文弥〈ブンヤ〉著の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)という本を見つけた。この「郷土」というのは、野州那須郷のことである。読んでみると、なかなかおもしろい。
 本日は、そこから、乃木稀典〈マレスケ〉と盆踊りの関わりについて触れている文章を引いてみたい。

 三、盆 踊
 明治二十七八年の頃、時の政府は盆踊を野卑のものであるとの理由の下に、全国一斉に禁止した。ところが、此の盆踊なるものは其の元来の主旨なるものが、先祖の供養にあるので、単に野卑であるといふ一理由で之を禁止するといふことは、甚だ当を得ぬといふやうな議論が、さかんに巷間に伝へられ他面その禁止令の如き極めて徹底せぬ風が見へたが、果然その後十年を出でずして、又元の通り禁止令を解かれた。
 盆踊といふものは、なるほど野卑な踊であろう。併し、また其の野卑であるところに盆踊の生命があり、価値があるのである。而かも、その野卑なる一面に於ては純朴なる地方的人情と風俗を、如実に伝へ得て余りあるものと云へる。
 余談はさておき、我が那須郷地方では、盆踊は昔から盛んに行はれたものであつた。寺又は神社の広い空地〈アキチ〉で若い青年男女達が、陰暦十四日、十五日、十六日の三日間殆んど徹宵して踊りつゞけたものである。
 明治二十七八年の盆踊禁止令の発布された頃の如き、我が那須郷石林部落では、山の中に隠れて盆踊をやつたものであつた。石林部落は以前から乃木将軍が農園を経営してゐられた処で、将軍は公務の余暇よく此の地に来られて、そこに起居座臥〈キキョザガ〉してゐられたことがある。
 恰度〈チョウド〉盆踊の禁止令が発布された時、乃木将軍はその禁止令に反対せられ、自分の農場内に櫓〈ヤグラ〉を造り、そこに、音頭取〈オンドトリ〉を乗せ、大勢の石林部落民に盆踊をやらせられたものであつた。ところが此の事が何時しか〈イツシカ〉当局の耳に入り、大田原警察署長は知事の内命をうけて、乃木将軍の許〈モト〉にやつて来た。すると、将軍は署長に対し
「盆踊といふものは、昔から有り来つた〈アリキタッタ〉もので、その主旨は先祖の供養にある。人が死んだ時悲しんで泣くのも、また笑つて踊るのも其の供養の意義に於て何等変りがあろう筈がない。国家の御禁制に背いた罰金は、乃公〈オレ〉が出すから、こゝに集てゐる青年其の他の人達は愉快に遊ばして貰ひたい」
と云はれた。
 こんな訳で、毎年盆が来ると、踊の群集が三里四里の遠方から、乃木将軍の農園内に集つて、さかむに〔盛んに〕踊つたものであつた。【以下、次回】

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内村鑑三と末松謙澄

2014-05-21 14:56:19 | 日記

◎内村鑑三と末松謙澄

 昨日の続きである。昨日は、内村鑑三の英文記事「末松男爵と人糞事件」Baron Suyematsu and Night-Soil Affairを、道家弘一郎氏の翻訳で紹介した。この翻訳には、「注」がついている。本日は、それを紹介してみよう。
 注によれば、内村鑑三(一八六一~一九三〇)と末松謙澄とは、東京外国語学校の同級生である。それにもかかわらず、内村は、末松を襲った悲劇を、いかにも辛辣な筆で紹介した。おそらくこれは、内村の藩閥政府嫌いから来るものであろう。おそらく内村は、末松が、伊藤博文の次女・生子〈イクコ〉の婿になったことにこだわっているのである。

(15) わが国最初の政党内閣であった隈板〈ワイハン〉内閣もたちまち内紛を起こして分裂し、わずか四か月で崩壊した(一〇月二九日)。その日、板垣〔退助〕の自由党系は大隈〔重信〕の進歩党系を締め出して改めて憲政党を組織し、進歩党系は一一月三日、憲政本党を結成した。末松謙澄(一八五五-一九二〇)は政治家としては逓信相・内相などを歴任し、子爵・枢密顧問官として没するが、文才にも秀で〈ヒイデ〉、演劇改良に尽くし『源氏物語』をはじめて英訳した。また東京外国語学校では内村と同級であった。なお、この事件は明治三二年一月一一日に起こった。その一〇日後、一月二一日付けをもって青森県知事河野圭一郎は解任され、後任には宗像政〈ムナカタ・タダス〉が当てられた。

*明日は、都合により、コラムをお休みします。

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