礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内村鑑三と末松謙澄

2014-05-21 14:56:19 | 日記

◎内村鑑三と末松謙澄

 昨日の続きである。昨日は、内村鑑三の英文記事「末松男爵と人糞事件」Baron Suyematsu and Night-Soil Affairを、道家弘一郎氏の翻訳で紹介した。この翻訳には、「注」がついている。本日は、それを紹介してみよう。
 注によれば、内村鑑三(一八六一~一九三〇)と末松謙澄とは、東京外国語学校の同級生である。それにもかかわらず、内村は、末松を襲った悲劇を、いかにも辛辣な筆で紹介した。おそらくこれは、内村の藩閥政府嫌いから来るものであろう。おそらく内村は、末松が、伊藤博文の次女・生子〈イクコ〉の婿になったことにこだわっているのである。

(15) わが国最初の政党内閣であった隈板〈ワイハン〉内閣もたちまち内紛を起こして分裂し、わずか四か月で崩壊した(一〇月二九日)。その日、板垣〔退助〕の自由党系は大隈〔重信〕の進歩党系を締め出して改めて憲政党を組織し、進歩党系は一一月三日、憲政本党を結成した。末松謙澄(一八五五-一九二〇)は政治家としては逓信相・内相などを歴任し、子爵・枢密顧問官として没するが、文才にも秀で〈ヒイデ〉、演劇改良に尽くし『源氏物語』をはじめて英訳した。また東京外国語学校では内村と同級であった。なお、この事件は明治三二年一月一一日に起こった。その一〇日後、一月二一日付けをもって青森県知事河野圭一郎は解任され、後任には宗像政〈ムナカタ・タダス〉が当てられた。

*明日は、都合により、コラムをお休みします。

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