◎漢文で書けば、後に訓み方がわからなくなる
三浦藤作の『古典の再検討 古事記と日本書紀』(日本経国社、一九四七)を紹介している。
本日は、その十二回目で、第二章第五節の〔一〕の後半を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
古語のままに古伝を遺すことか眼目であるならば、何故に全部漢字を用ゐた国文で書かなかつたか。安萬侶は序の中に「全く音を以て連ねたるは、事の趣〈オモムキ〉更に長し。」といつてゐる。たしかに音を用ふれば長くなる。長くなくなつてもよいではないか。漢文で書いておけば、後に訓み方がわからなくなることは、誰が考へても明白である。それでは古語のままに古伝を遺すといふ趣意が徹底しない。漢文体を用ゐたといふ撰者の意図には解しかねる点がある。
この文体について、本居宣長は、「古事記伝」一之巻に仮名のなかつた当時、歌と祝詞〈ノリト〉と宣命〈センミョウ〉のみが古語のままに書き伝へられたるのみで、その外の文章がみな漢文で書かれてゐたことを述べて、次のやうに論じてゐる。
《かゝれば此記を撰定【えら】ばれつるころも、歌祝詞宣命などの余には、いまだ仮字文【かなぶみ】といふ書法は無かりしかば、なべての世間のならひのまゝに、漢文には書れしなり。さて然漢文を以て書クに就ては、そのころ其ノ学問盛にて、そなたざまの文章をも、巧にかきあへる世なれば、是レも書紀などの如く、其文をかざりて物せらるべきに、さはあらで、漢文のかたは、たゝありに拙けなるは、ひたぶるに古ノ語を伝ふることを旨とせる故に、漢文の方には心せざる物なり。》
「古事記」撰録の頃には、歌・祝詞・宣命の外、すべてみな漢文で書いてゐたから、「古事記」も漢文体を用ゐたが、古語を伝へるのを旨とし漢文の方に心を注いで、文章を飾るやうなことをしなかつたといふのであるが、どうも腑に落ちないところがある。第一に歌・祝詞・宣命の外は、すべてみな漢文で書いてゐたといふことが首肯し難い。岡田正之氏は曰く、「要するに、古事記は、推古朝の金石文繍帳に端を開いて、当時純漢文と並び行はれた漢字用法によつたものである。」漢字が渡来してから、既に何百年といふ歳月を経てゐる。漢字が国語の表現に用ゐられてゐたことは疑はれない。
文中、「長くなくなつてもよいではないか」というところがあるが、これは原文のまま。ここは、「長くなつてもよいではないか」としないと、意味が通らない。
また、「金石文繍帳」とあるのは、法隆寺金石文と天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)とを指すのであろう。
三浦藤作著『古典の再検討 古事記と日本書紀』のうち、「古事記」に関する論述を紹介してきた。さらに、「日本書紀」に関する論述も紹介する予定だが、明日は、いったん話題を変える。
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