礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない

2017-01-02 00:55:39 | コラムと名言

◎佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない

 一昨日の大晦日、どういうわけか、四年以上前の記事「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)へのアクセスが急伸した。
 元旦の東京新聞朝刊を見て、理由がわかった。渡辺錠太郎の次女である渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事長)が、一二月三〇日に亡くなられたのである(公表されたのは三一日らしい)。
 本日は、故人を偲んで、まず、前記の記事を再録する。そのあと、その後に判明した事実などについて、若干の補足をおこなう。

◎憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか

 昨一〇日〔二〇一二年八月一〇日〕発売の雑誌『文藝春秋』本年〔二〇一二〕九月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記が載っている。新聞広告でこれを知り、久しぶりに同誌を購入した。渡辺和子さんは、この事件で射殺された渡辺錠太郎〈ジョウタロウ〉教育総監(陸軍大将)の次女にあたる(現在、ノートルダム清心学園理事長)。事件当時、九歳だった彼女は、至近距離から父・渡辺錠太郎の死を見届けたという。
 その手記の一部を引用させていただく。
《一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。
 私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
 また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。》
 この二名の憲兵は、当日朝の電話で襲撃を予告され、かつ襲撃の妨害をしないよう言い含められたものと思われる。いわば、渡辺錠太郎教育総監を見殺しにしたのである。
 昨日のコラムで紹介したように、当時、憲兵隊にも皇道派の影響力が及んでいた。この二人の憲兵あるいはその上司が、皇道派に共感を抱いていた可能性も十分にある。
 これはやや穿った見方だが、二人の憲兵あるいはその上司が、皇道派と対立する統制派であった場合においても、教育総監を見殺しにした可能性はある。統制派は、まず皇道派を暴発させた上で、カウンター・クーデターを狙っていたという説があるからである。
 いずれにせよ、当日朝、電話で憲兵を呼び出したのは、決起部隊の関係者で、以前に当該憲兵と接触があった者、もしくは、事前に襲撃の情報を得た当該憲兵の上司ではなかったか。
 渡辺和子さんが、今回この手記で初めて、右の事実(常駐していた憲兵が教育総監を守らなかった事実)を明らかにされたのか、それとも以前にも、何らかの形で明らかにされていたのかは知らない。しかし、きわめて重要な証言であることは間違いない。
 二・二六事件については、厖大な資料・証言・研究が蓄積されていることは知っているが、詳しく研究したことがない。事件に詳しい研究者には、ぜひ次の諸点について、ご教示いただきたい。
1 事件当日、渡辺錠太郎邸(上荻窪)に常駐していた二名の憲兵の所属・氏名等。本人および上司の思想傾向。
2 二名の憲兵は、当日の挙動をどのように釈明したのか。また、その釈明についての記録は残っているか。
3 軍法会議では、二名の憲兵の挙動についての言及はあったのか。
4 二名の憲兵に対し、何らかの処分がおこなわれたのか。
5 事件後における二名の憲兵の動向。

 以上が、二〇一二年八月一一日の記事である。
 当ブログでは、当時から今日まで、この記事に対するアクセスは、かなり多い。しかし、どういうわけか、コメントや情報提供は、一度たりとも、もらっていない。
 そこで仕方なく、上記の1~5について、微力ながらも調べてみた。その結果わかった事実については、その都度、このブログで報告してきた。
 わかったことは、それほど多くないが、一応、以下にまとめておこう。

1 事件当日、渡辺錠太郎邸(上荻窪)に常駐していた二名の憲兵は、牛込憲兵分隊の所属。一名は、佐川伍長(フルネームは不明)、もう一名は上等兵(氏名不詳)。両名の思想傾向は不明。当時の牛込憲兵分隊長は、磯高麿少佐、分隊長の思想傾向も不明。
2 二名の憲兵が、当日の挙動をどのように釈明したのかは不明。また、その釈明についての記録が残っているかどうかも不明。
3~5 二名の憲兵を、「辱職罪」で軍法会議にかける動きもあったようだが、結局、「行政処分」に終わったようだ。佐川伍長は、その後、除隊。上等兵のその後の動向は不明。
6 事件当日の早朝、佐川伍長を呼び出したのは、牛込憲兵分隊の下士官。当時、この分隊にいた「大木特務曹長」は、電話をかけた人物である可能性があると考える。
7 事件当日早朝の電話は、午前五時五〇分前後、襲撃部隊がやってきたのは、午前七時前後。この間、一時間以上あったにもかかわらず、二名の憲兵は、電話の内容を渡辺錠太郎教育総監に知らせず、教育総監や家族を避難させるなどの措置もとっていない。
8 二名の憲兵は、襲撃部隊がやってきた際、二階もしくは一階から発砲するなど、ある程度の応戦をおこなっている。この発砲で、襲撃部隊の木部正義伍長(歩兵第三連隊第一中隊)は、右足フクラハギに盲貫銃創を負っている。

 わかったのは、この程度のことしかない。二・二六事件についての本は、それこそ無数に存在する。にもかかわらず、この程度のことしかわからないというのは、どうしたことなのか。
 もちろん、私の調べ方も十分でないのだろう。しかし、昭和史について、正確な研究が積み重ねられていない、そういうことをシツコク調べようとした研究者がいなかった、もしくは、事実が意図的に隠蔽されてきたなどの事情もあるのではないだろうか。

*このブログの人気記事 2017・1・2(7・10位にやや珍しいものが)

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1 コメント

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Unknown (大原敦)
2017-01-03 09:32:19
ご存じだとかなと思いましたが小坂慶助著の特高という本に小坂曹長が当時聞いた噂話として書かれてましたね。

奥さんが憲兵嫌いで二階に追いやられていて、物音聞いて降りて来たら兵隊がいっぱいで何もできなかったと。あとで分隊長に大目玉を食らったという噂話でした。
ただ、分隊長がすでに転任している森木少佐になっていますし、あくまで小坂氏が又聞きした噂話なので信憑性は低いと思いますが。

この森木分隊長は皇道派のシンパだったと書かれた本をどこかで読んだ記憶があります。
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