◎シャグノンは大型ピストルをドンと置いた
月刊誌『真相』の第61号(1954年3月)から、「『下山事件』他殺白書」という記事を紹介している。本日は、その四回目。
2 シャグノンは大型ピストルを
ふるえ上つた下山総裁
シャグノンは間もなくやって来たが、応接間に入るやいなやテーブルの上に胸からひっぱり出した大型ピストルをドンと置いた。加賀山は現場に尻合せたのでもないのに、これは下山を脅かそうとしたのではなくて、かれはいつも胸にピストルをぶち込んでおく習慣があったから、くつろいだつもりでとり出したにすぎないと弁護している。
このときのシャグノンは〝整理を目前にしているのに、早くから家へ帰って寝るとはけしからん〟と下山をどなりつけ、さらに〝どんなことがあっても人員整理の発表を四日にしろ〟となんども繰り返した。それは、前々から人員整理を六月下旬にするようシャグノンが要求していたにもかかわらず、延び延びとなって七月に入ってしまい、一日が二日にのび、三日は日曜日だから四日にはかならずやれといわれていたが、下山総裁は四日はアメリカの独立記念日だから五日にしてほしいと交渉していた。真夜中に襲ったシャグノンはおもにそのことで、五日までは待てないというわけであった。シャグノンはさんざんどなり散らして、二時半ごろ帰っていった。下山総裁は門のところでシャグノンの車を見送ると、すぐふたたび加賀山副総裁に〝相変らずドンキホーテがツベコベ言っていた〟と苦笑まじりに電話している。
こうして、下山総裁が占領軍として君臨するアメリカ側から、相当ムリな要求をされ、それに、できるかぎりの抵抗を示していた事実は、特別捜査本部にも、十分知られていた。にもかかわらず、一切ふれられていないのである。〈8~9ページ〉【以下、次回】
月刊誌『真相』の第61号(1954年3月)から、「『下山事件』他殺白書」という記事を紹介している。本日は、その四回目。
2 シャグノンは大型ピストルを
ふるえ上つた下山総裁
シャグノンは間もなくやって来たが、応接間に入るやいなやテーブルの上に胸からひっぱり出した大型ピストルをドンと置いた。加賀山は現場に尻合せたのでもないのに、これは下山を脅かそうとしたのではなくて、かれはいつも胸にピストルをぶち込んでおく習慣があったから、くつろいだつもりでとり出したにすぎないと弁護している。
このときのシャグノンは〝整理を目前にしているのに、早くから家へ帰って寝るとはけしからん〟と下山をどなりつけ、さらに〝どんなことがあっても人員整理の発表を四日にしろ〟となんども繰り返した。それは、前々から人員整理を六月下旬にするようシャグノンが要求していたにもかかわらず、延び延びとなって七月に入ってしまい、一日が二日にのび、三日は日曜日だから四日にはかならずやれといわれていたが、下山総裁は四日はアメリカの独立記念日だから五日にしてほしいと交渉していた。真夜中に襲ったシャグノンはおもにそのことで、五日までは待てないというわけであった。シャグノンはさんざんどなり散らして、二時半ごろ帰っていった。下山総裁は門のところでシャグノンの車を見送ると、すぐふたたび加賀山副総裁に〝相変らずドンキホーテがツベコベ言っていた〟と苦笑まじりに電話している。
こうして、下山総裁が占領軍として君臨するアメリカ側から、相当ムリな要求をされ、それに、できるかぎりの抵抗を示していた事実は、特別捜査本部にも、十分知られていた。にもかかわらず、一切ふれられていないのである。〈8~9ページ〉【以下、次回】
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