◎牧野富太郎の「わが初恋」
このブログを始めたころ、何回か、植物学者・牧野富太郎について書いたことがある。ネタ元は、主として、牧野富太郎『自叙伝』であった。これは、「現代日本記録全集13」(筑摩書房、1970)に収められていたもので、その原本は、『牧野富太郎自叙伝』(長嶋書房、1956)だとあった。
最近になって、その『自叙伝』を読み直したくなったが、あいにく、「現代日本記録全集13」が見つからない。そこで、昨年7月に出た牧野富太郎『わが植物愛の記』(河出文庫)を手にした。同書の第一部「想い出すままに」には、自伝的な回想文が、いくつも集められている。本日は、その中から、「わが初恋」という文章を紹介してみたい。
わが初恋
東京は飯田町の小川小路の道すじに、小沢という小さな菓子屋があった。明治二十一年頃のことで、その頃私は、麹町三番町の若藤宗則という、同郷人の家の二階を借りて住んでいた。私は、この下宿から人力車に乗って九段の坂を下り、今川小路を通って本郷の植物学教室へ通っていた。そのとき、いつもこの菓子屋の前を通った。
この小さな菓子屋の店先に、ときどき美しい娘が坐っていた。
私は、酒も、煙草も飲まないが、菓子は大好物であった。そこで、自然と菓子が目についた。そして、この美しい娘を見そめてしまった。
私は、人力車をとめて、菓子買いにこの店に立寄った。そうこうするうちに、この娘が日増しに好きになった。その頃の娘は今とちがって、知らない男などとは、容易に口もきかないものだった。私は悶々として、恋心を燃やした。
私が、娘に話しかけようとすると、まっ赤な顔をしてうつむいてしまうのだった。
こうして、毎日のように菓子屋通いがはじまった。
その頃、私は神田錦町の石版屋に通って、石版印刷の技術を習っていたが、この石版屋の主人の太田という男に頼みこんで、娘を口説いてもらうことにした。
石版屋の主人はさっそく、私のこの願いをききいれ、小沢菓子店におもむいて、娘の母親に会ってくれた。
私は、くびを長くしてその報告を待っていた。
石版屋のはなしによると、娘の名は寿衛子【すえこ】といい、父は彦根藩主井伊家の家臣で小沢一政といい、維新以後は陸軍の営繕部に勤務していたが、数年前亡くなったということであった。寿衛子はその次女だった。
寿衛子の父の在命中は、小沢家の邸は、表は飯田町六丁目通りから、裏はお濠【ほり】の土手までつづく広大なもので、生活もゆたかであり、寿衛子も踊りや唄のけいこに毎日を送るなに不自由ない令嬢だったということだった。それが父の死によって、広大な邸宅も人手に渡ることになり、京都生まれの勝気な母は、大勢の子供を細腕一つで養うために、菓子屋を営んでいるという次第だった。
石版屋の主人の努力によって、この縁談はすらすらとはこび、私たちは結婚した。そして、新居を根岸の村岡家の離れに構えた。明治二十三年のことだった。
NHKのテレビ小説によって、よく知られるようになったエピソードである。
この「わが初恋」という文章は、河出文庫版では、2ページ弱である(54~55ページ)。ところが、これに続く「ムジナモ発見物語」という文章は、4ページ強もある(55~59ページ)。これが牧野富太郎の牧野富太郎たる所以であろう。
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