◎三鷹事件(1949年7月)と松川事件(同年8月)
本日以降、大森実著『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、一九九八)から、「19 三鷹、松川事件のデッチ上げ証言」の章を紹介してみたい。なお、この章では、三鷹事件は、最初のほうで、少し触れられているのみ。主に論じられているのは、松川事件である。
19 三鷹、松川事件のデッチ上げ証言
下山国鉄総裁のミステリアスな失踪事件が発生してから、ちょうど十日目、四九年〔昭和二四〕七月十五日の夜九時二十四分ごろ、中央線三鷹駅の車庫から、七輌連結の無人電車が猛スビードで走り出し、駅構内を突っ切って駅前の交番と民家に衝突、死者六名、重軽傷者二十名を出した。
いわゆる「三鷹事件」が発生したのである。国鉄は、六万三千名の第二次整理リストを発表、国鉄労組中闘委は第一次整理のときと同じように、通告拒否方針を打ち出していたが、民同派〔「民主化同盟」派〕が退場したため分裂様相を呈していた矢先であった。
事件発生の翌日、吉田茂首相は、労組と共産党が社会不安を挑発、扇動している、と言明したが、検察と警察当局は、事件発生二日後の十七日、飯田七三(三鷹電車区・元執行委負長、六月ストで免職)と、山本久一(中野電車区・元闘争委員長)を逮捕した。その後も逮捕が続き、三鷹電車区から六名、共産党北多摩地区委員一名、計九名の共産党員と非共産党員の竹内景助を検挙した。
この事件も超スピード裁判であったが、翌五〇年八月十一日、東京地裁の鈴木〔忠五〕裁判長は、検察側が主張した共同謀議を、根拠なき、「空中楼閣」だとして、共産党系被告九名は無罪、竹内景助単独の発作的犯行と断定した。第二審でも竹内に対する死刑が宣告され、最高裁(五五年六月)も竹内の上告を棄却した。竹内は再審申立て中、東京拘置所で脳腫瘍のため死亡した。
ミステリアスな下山事件に続く、ドッジ・ラインの社会不安を象徴した事件であったが、検察、警察当局のデッチあげの立件、起訴に対して、日本の裁判所の独立性が保たれた事件であった。
【一行アキ】
この三鷹事件が発生した三十三日後、八月十七日未明の午前三時九分ごろ、青森発の東北本線・上野行き上り四一二号旅客列車が、福島県金谷川〈カナヤガワ〉駅と松川駅間のカーブの線路上で、機関車、荷物車二車輛、郵便車、客車二車輛が脱線、転覆するという事故が発生した。機関士と機関助手が即死、もう一人の機関助手も間もなく死亡。車掌一名と乗客三名が負傷した。
松川事件の列車転覆現場は、福島県金谷川駅から上野に向かって上り線の線路の右側が山を崩した崖で、左側が水田。線路がカーブになっていたため見通しが悪く、事故の工作がしやすいブラインドであった。これは下山総裁の轢断現場と似ていた。
福島県警捜査本部は、事件が発生した十七日中に早々と、「証拠品を発見した」と発表した。
線路工事用の長さ一・四八メートルの金テコのバールと、二十四センチのスパナ。レールの継ぎ目板二枚と犬釘二本が、現場付近の水田の中から発見されたというのであった。
捜査本部の発表によると、レールを枕木に留めるための犬釘二十五本が抜かれていた事実と、発見されたバールとスパナは、国鉄・松川線路班詰所から持ち出されたことが突き止められた、とされたのである。
福島地検の安西〔光雄〕検事正と国警福島本部の新井〔裕〕隊長は、共同記者会見を行って、「発見された工作道具の数から見ても、数人による計画犯行だ。明らかに故意の列車妨害で、犯人逮捕に全力を尽くす」と言明した。
増田甲子七【かねしち】内閣官房長官も、「三鷹事件に続く本件は、思想的底流を同じくするものだ」と特別談話を発表した。【以下、次回】
ここで大森実は、「上野に向かって上り線の線路の右側」という言い方をしているが、当時、この区間は単線だった。したがって、ここは、「上野に向かって線路の右側」とするか、もしくは、「上野に向かって、今日の下り線の右側」とすべきだった。
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