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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戦争犯罪人への処断、民主主義傾向の復活強化

2025-07-27 01:28:29 | コラムと名言
◎戦争犯罪人への処断、民主主義傾向の復活強化

 下村海南の『終戦記』(鎌倉文庫、1948)を紹介している。本日は、その八回目。
第一八章「義勇隊の陣痛(七月十二日)」の後半にあたる第三二節「義勇隊陣痛記」は割愛し、本日は、第一九章「対ポツダム宣言閣議(七月二十七日)」の第三三節「東郷外相の報告」の全文を紹介する。

  第一九章 対ポツダム宣言閣議(七月二十七日)
 
   第三三節 東郷外相の報告
 昭和二十年〔1945〕二十七日朝桑港〈サンフランシスコ〉より米英支三国の対日共同宣言を放送した。当日午〈ヒル〉より開かれた定例閣議に東郷〔茂徳〕外相より其内容を報告し次の様な件を補足した。
 一、かうした宣言が会談の途中で突発されたことは違例であるが、これは二十六日の英国の総選挙に保守党の形勢不良なるため、その直前に俄に〈ニワカニ〉発表したものと解される。
 一、三国共同宣言にはソ連が参加してゐると伝へられたが支那であつた。
 一、政府はソ連の不参加の耕作にはそれぞれ手をつくし我よりソ連へは満洲につき又ポーツマウス条約につき、之が改定につき用意ある旨を申入れてゐる。
 一、アメリカの国内に於ては、早く時局の収拾を見たい。此の上の出血を続ける事は避けたい。従つて日本に対し只無条件降伏といふのでは足りないといふ空気がある。それで各件案を具してポツダムに会同し、ソ連にも参加を申込んだものと思ふ。
 一、大体はカイロ会談をもととしてあるので、重慶へはポツダムより無電にて消息を通じたものである。
 本宣言書の新聞発表につき意見を求めたが、外相は延期方の意見を述べ、岡田厚相はどうせ世界中にばらまかれてるのだから早く発表したいと述べ、阿南陛相は主管大臣の意見を尊重するが、発表する以上は断乎之に対抗する意見を添へ民意の向ふべき処を明にしたいと云ふ事であつた。私は既に世界中周知の事実となつて居り、列国は日本へどう反響してゐるかと云ふ事に大きな関心を持つてゐる。然るに明日の新聞に少しも出てゐない時には、欧米も大東亜もさては日本は面喰つて餅につき大いに論議されて何んともまだ決められずにゐるものと判断されやすい。又国内でもこれから記者団と会見して、まだ発表もないとか発表出来ないといふのでは、矢張りさては議論がまとまらないからであるのか、先方へ直々の返事はなくとも、さりとてこの重大にして緊切なるニュースを知らぬ顔で新聞にのせないといふ事はよくない。又のせて全然之に対し何等の意見もないといふのもをかしい。ニュースはニュースとして少くともそのまゝのせて軽くあしらつておくがよいと云ふ意見を述べ、其方針のもとに松本〔俊一〕外務次官、安東局長〔安東義良外務省政務局長〕、久富次長〔久富達夫情報局次長〕、井口第三部長〔井口貞夫情報局第三部長〕、太田三郎書記官長〔ママ〕等首相官邸へ参集の上先方の宣言を要約し、大きく扱はない又各項目につき論議しない、ソ連にはふれない。論説として扱はずと云ふことになつたのであつた。さうした主旨によりポツダム宣言公表の形式は定められた。此宣言は既に熟知されてゐるはずであるが、全部十三項よりなり第六より第十一までに
 一、日本国民を欺き世界征服の挙に出でしめた権威と勢力の永久の抹殺
 二、新秩序の確立され日本の戦争力破摧〈ハサイ〉さるゝまでの領土の占領
 三、カイロ宣言の条項を実施し日本主権を本州、北海道、九州、四国その他我等の決定する諸小島への限定
 四、軍事力の完全なる武装解除後の平和的且生産的生活を遂げる機会の付与
 五、奴隷化又国民としての破壊を意図せず、俘虜虐遇等戦争犯罪人への厳格な処断、民主主義傾向の復活強化に対する障害の除去、基本的人権の尊重、言論、宗教、思想の自由の確立
 六、経済支持且現物賠償を可能ならしめる産業の維持容認、戦争の為の軍備を可能ならしめず、究極の貿易参加の容認
の六項目の条件をかゝげ、第十二項に
 以上の諸目的が実現し、自由に表明された日本国民の意思に準拠して平和的傾向の責任政府が確立し次第、連合国の占領兵力は日本から撤収する
 旨を規定し、最後の第十三項に無条件降伏を宣言し、之に反すれば日本の全的破壊あるのみと結んであるが、責任政府と占領と武装解除の三項につき論議の重ねられし事は以下に述べるが如くである。〈87~89ページ〉

「太田三郎書記官長」とあるのは、原文のまま。太田三郎は、1943年(昭和18)に外務省調査局第三課長となる。1945年(昭和20)7月の時点での肩書きは、外務省調査局第三課長兼内閣情報局情報官。敗戦にともなって、終戦連絡中央事務局第三部長となり、ミズーリ号上における降伏文書調印式に参列している。

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